第6羽「はじめての、別れ」
雨だった。
空は朝から厚い雲に覆われ、馬車の幌を細かな雨粒が絶え間なく叩いている。
街道はぬかるみ、車輪が泥をはね上げるたびに、がたん、ごとんと揺れた。
そんな中でも、フィーネは窓の外を見ながら、楽しそうに耳を揺らしていた。
灰色の髪の先には、小さな雨の匂いがまとわりついている。
「もうすぐだよね?」
青い瞳を輝かせて、ミッツーを振り返る。
「ああ。このペースなら夕方には着く」
「一年ぶりだぁ……」
フィーネは膝の上に置いた小さな革袋をぎゅっと抱きしめた。
中には、道中で見つけたきれいな羽根や、小さなガラス細工、それに安全な黄色いリンゴが入っている。
全部、ルナへのおみやげだった。
「ルナ、びっくりするかな」
「きっと喜ぶさ」
「うん!」
フィーネはにっこりと笑った。
その笑顔を見ながら、ミッツーは静かに外を見つめた。
雨脚は少しずつ強くなっていた。
⸻
一年前。
その街――アルネシアには、一ヶ月近く滞在した。
宿の名は「月猫亭」。
猫型獣人の夫婦が営む、小さくて温かい宿だった。
料理がおいしく、部屋も居心地がよく、宿の主人は気さくで、女将はよく世話を焼いてくれた。
そして、その宿には一人娘がいた。
ルナ・シルヴァ。
黒い猫耳と長い尻尾を持つ、フィーネより一つ年下の女の子。
病弱で、ほとんどの時間を二階の部屋で過ごしていた。
最初に会った時、ルナは少し遠慮がちにこう言った。
「旅のお話……聞かせてくれる?」
それから毎日のように、フィーネはルナの部屋に通った。
砂漠の話。
雪山の話。
巨大な湖の話。
光るリンゴの話。
宿選びで毎回勝つ話。
ルナは目を輝かせながら聞いてくれた。
「すごいなぁ……」
「今度、一緒に行けたらいいね!」
「うん」
そう答えるルナの笑顔は、少し儚く見えた。
⸻
別れた後も、二人は手紙を送り合った。
フィーネは旅先の景色を描き、ルナは宿での出来事を書いた。
庭に咲いた花のこと。
新しい料理のこと。
窓から見える星のこと。
ルナの手紙の最後には、いつもこう書かれていた。
「またお話を聞かせてね。」
そしてフィーネは、そのたびに返事を書いた。
「今度会ったら、もっとたくさん話すね!」
⸻
夕方。
雨の中、月猫亭の看板が見えた。
フィーネは馬車が止まるより先に飛び降りそうな勢いだった。
「ただいまー!」
扉が開き、宿の主人と女将が顔を出す。
「フィーネちゃん!」
「ミッツーさん!」
二人は本当に嬉しそうだった。
何度も「よく来てくれた」と言ってくれた。
けれど。
フィーネは辺りを見回し、小さく首をかしげた。
「あれ? ルナは?」
その瞬間、女将の笑顔がわずかに揺れた。
主人は静かに目を伏せる。
「……二階にいるよ」
それだけで、フィーネは何かを感じ取った。
⸻
部屋の扉を開けると、ルナはベッドに横になっていた。
一年前よりずっと細くなっていた。
頬も痩せ、起き上がることも難しそうだった。
それでも。
「……フィーネ」
声を聞いた瞬間、ルナの目がぱっと輝いた。
「来てくれたんだ」
「もちろん!」
フィーネはベッドのそばに駆け寄った。
「会いたかった!」
「私も……」
二人は手を握り合った。
ルナの手は、とても細くて、少し冷たかった。
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その後の数日は、穏やかに過ぎていった。
フィーネは毎日、ルナのそばで旅の話をした。
ルナは前よりも話すことは少なくなっていたが、静かに微笑みながら耳を傾けてくれた。
「海って、本当に青いの?」
「うん! 空とつながってるみたいだよ!」
「見てみたいな……」
「今度、一緒に行こうね」
フィーネはそう言った。
ルナは少しだけ目を細めて、やさしくうなずいた。
「うん」
その返事が、とても静かで、でもとても温かかった。
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滞在最終日。
まだ夜明け前だった。
宿の下から、押し殺したような泣き声が聞こえた。
フィーネは飛び起きた。
「……父さん?」
ミッツーはすでに起きていた。
その表情を見た瞬間、フィーネの胸が強く締めつけられた。
「……行こう」
二階の部屋には、主人と女将がいた。
二人とも、ルナの手を握りながら泣いていた。
ベッドの上のルナは、とても穏やかな顔をしていた。
まるで、気持ちよく眠っているように。
「ルナ?」
返事はない。
「ルナ?」
フィーネは肩を揺らした。
「起きて。今日、出発するんだよ」
動かない。
「ねえ、ルナ」
声が震える。
「……ねえ」
やがて、ルナの母が涙を流しながらフィーネを抱きしめた。
その瞬間。
フィーネはようやく理解した。
もう、返事はないのだと。
もう、旅の話を聞いてくれることはないのだと。
「……っ」
喉の奥から、小さな声が漏れる。
「……いや……」
そして。
「いやだよ……ルナ……!」
堰を切ったように涙があふれた。
⸻
その日、フィーネはたくさん泣いた。
食事もほとんど喉を通らなかった。
出発の準備も、ぼんやりとしかできなかった。
馬車に乗り込んだ後も、窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。
雨はいつの間にか止んでいた。
けれど、フィーネの頬には涙の跡が残っていた。
「父さん」
かすれた声で、ぽつりと呟く。
「ルナ、もう会えないの?」
ミッツーは静かにうなずいた。
「……そうだ」
フィーネは唇を噛んだ。
「昨日まで、笑ってたのに」
「ああ」
「手紙も書いてくれたのに」
「ああ」
「今度、一緒に海に行こうって言ったのに」
声が震え、また涙がこぼれる。
「どうして?」
ミッツーはすぐには答えなかった。
ただ、そっとフィーネの肩を抱き寄せた。
そして、昔と変わらない大きな手で頭を撫でる。
「……別れは、突然来ることがある」
フィーネはミッツーの胸に顔をうずめた。
「だからこそ、一緒にいられる時間は大切なんだ」
その言葉を聞きながら、フィーネは静かに泣き続けた。
⸻
夕暮れ。
馬車を降りて、二人は次の街道を歩き始めた。
フィーネの歩幅はいつもより少し小さい。
でも、その手にはルナから最後にもらった手紙が握られていた。
「フィーネの旅のお話、大好き。
これからも、たくさんの景色を見てきてね。」
フィーネは涙を拭き、空を見上げた。
雲の切れ間から、青い空がのぞいている。
「……私、旅を続ける」
小さく、でもはっきりと呟く。
「ルナに見せたい景色が、まだたくさんあるから」
ミッツーは静かにうなずいた。
「ああ」
フィーネは深呼吸し、少しだけ笑った。
悲しみは消えない。
寂しさもなくならない。
でも、大切な人と過ごした時間は、ずっと心の中に残る。
そして、その思い出がこれからの旅を支えてくれる。
フィーネは空の向こうにいる友達を思いながら、振り返った。
涙のあとが残る顔で、それでも確かに笑って。
「父さん、次はどこ行く?」




