第4羽「父さん…そう呼ぶ理由」
夜の野営地。
焚き火の火がぱちぱちと音を立てている。
ミッツーは干し肉を炙りながら、向かいに座るフィーネを見た。
十七歳になった彼女は、火の明かりに照らされて静かに笑っていた。
灰色の髪。青い瞳。ぴんと伸びたうさぎ耳。
昔と変わらないところもあれば、見違えるほど大人になったところもある。
「どうしたの、父さん?」
フィーネが首をかしげる。
ミッツーは肩をすくめた。
「いや。お前が初めて俺を『父さん』って呼んだ時のことを思い出してた」
フィーネの耳がぴくりと揺れた。
「あ……」
少し照れくさそうに笑う。
「懐かしいね」
「もう七年も前か」
「うん」
フィーネは焚き火の炎を見つめた。
赤い火の向こうに、あの日の景色が浮かんでくる。
十歳だった頃の、小さな自分。
まだ今よりずっと幼くて、でも心の中には、ずっと消えない寂しさを抱えていた頃――。
⸻
その家族と出会ったのは、街道沿いの広場だった。
同じく旅をしているうさぎ型獣人の一家。
途中の街まで行動を共にすることになった。
お父さん、お母さん、そして自分より少し年下の男の子。
みんな白い毛並みで、ふわふわの耳を揺らしていた。
「こんにちは!」
男の子は元気いっぱいに話しかけてきた。
フィーネもすぐに仲良くなった。
一緒に走り回り、木の実を拾い、追いかけっこをした。
夜になれば、家族三人が寄り添って眠る姿があった。
「父さん!」
「母さん!」
その呼び声が、フィーネの胸に静かに響いた。
自分も昔は、そう呼んでいた。
ぼんやりとした記憶の中。
優しい声で名前を呼んでくれた人たち。
温かい腕。
柔らかな毛並み。
でも、その姿はもう思い出せない。
顔も、声も、匂いも。
どんどん薄れていく。
思い出そうとすると、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
⸻
数日後、一家と別れる時。
男の子は大きく手を振った。
「またね!」
「うん! またね!」
フィーネも笑顔で手を振った。
けれど、家族の姿が見えなくなった瞬間、心の中にぽっかりと穴が開いたようだった。
その日の夜。
森の中で野営をした。
ミッツーはいつものように焚き火の番をしている。
フィーネは毛布にくるまり、目を閉じた。
でも眠れない。
瞼の裏に浮かぶのは、あの家族の姿。
「父さん」
「母さん」
その呼び方が、胸の奥に何度もこだました。
気づけば、目から涙がこぼれていた。
静かに、声を殺して泣いた。
自分にはもう、本当の父さんと母さんはいないのかもしれない。
ずっと探しているのに、見つからない。
顔も思い出せない。
もし会えても、わからないかもしれない。
そう考えると、とても寂しかった。
「……フィーネ」
優しい声がした。
ミッツーだった。
いつの間にか隣に座っていた。
「眠れないのか?」
フィーネは小さくうなずいた。
涙を拭っても、またあふれてくる。
「……お父さんと、お母さんのこと……思い出してたの」
ミッツーは何も言わなかった。
ただ、そっと頭に手を置いた。
大きくて、少しごつごつした手。
でも、びっくりするほど温かい。
何度も何度も撫でてくれる。
怪我をした時も。
怖い夢を見た時も。
失敗して落ち込んだ時も。
いつもこの手が、安心をくれた。
フィーネは目を閉じる。
胸の痛みが、少しずつ和らいでいく。
その温もりに包まれながら、ふと思った。
――この人が、私の父さんだったらいいのに。
そうしたら、もう寂しくない。
もう、迷子じゃない。
その思いを胸に抱いたまま、フィーネはいつの間にか眠っていた。
⸻
翌朝。
目を覚ますと、朝日が木々の隙間から差し込んでいた。
ミッツーは朝食の準備をしている。
「起きたか」
いつもの声。
いつもの笑顔。
フィーネの胸はどきどきした。
昨日の夜に思ったことが、頭の中で何度も繰り返される。
言ってみたい。
でも、変だと思われるかもしれない。
嫌がられたらどうしよう。
耳が不安そうにしゅんと垂れた。
それでも。
勇気を振り絞って、口を開いた。
「……と、父さん!」
ミッツーの手が止まった。
フィーネの心臓も止まりそうになった。
数秒が、とても長く感じられた。
やっぱり変だったかな。
そう思った、その時。
ミッツーはいつものように振り向いて、にっと笑った。
「おう!」
たった二文字。
それだけだった。
理由も聞かない。
驚いた顔もしない。
ただ、ごく自然に受け入れてくれた。
その瞬間、胸の奥にあった不安が、すっと消えていった。
「……えへへ」
フィーネの耳がぴんと立つ。
尻尾が嬉しそうに揺れた。
「父さん!」
「なんだ?」
「なんでもない!」
ミッツーは不思議そうに笑った。
「変なやつだな」
「えへへ!」
その日から、ミッツーは父さんになった。
血はつながっていない。
耳の形も、姿も違う。
でも、フィーネにとっては間違いなく父さんだった。
⸻
焚き火の前。
現在へと意識が戻る。
フィーネは少し照れくさそうに笑った。
「あの日、すごく緊張したんだよ?」
「そうだったのか」
「もし嫌だって言われたらどうしようって」
ミッツーは目を丸くした。
「そんなこと言うわけないだろ」
「うん。だから、すごく嬉しかった」
フィーネはそっと身を寄せる。
昔と同じように。
ミッツーは自然に頭を撫でた。
大きくて、温かい手。
十歳のあの日と変わらない。
フィーネは目を細める。
「やっぱり、父さんの手……好き」
ミッツーは少し照れながら笑った。
「そうか」
夜空には、たくさんの星が輝いている。
十年前、森で出会った日から。
七年前、「父さん」と呼んだ朝から。
ずっと続いてきた二人の旅。
血のつながりはなくても、家族になれる。
フィーネはそのことを、誰よりも知っていた。
耳をぴょこんと立て、いつものように満面の笑みで問いかける。
「父さん、次はどこ行く?」




