第26羽「心の真実」
「よく戻って来た、フィーネよ」
ローブを纏った老人の静かな声が、広間の中にゆっくりと広がった。
その声には、驚きも、疑いもなかった。
まるで、いつか必ずこの日が来ることを知っていた者のように。
まるで、長い長い冬の果てに、ようやく春が訪れたことを確かめるように。
その言葉が響いた瞬間だった。
「フィーネ……!」
女性が堪えきれないように駆け出した。
灰色の長い髪。
青い瞳。
そしてフィーネと同じ、長いうさぎ耳。
その顔を見た瞬間、フィーネの胸の奥で何かがはっきりと形を結んだ。
――この人だ。
理屈ではなかった。
説明もいらなかった。
目の色。
耳の形。
声の震え。
そして、自分を見つめるその表情。
そのすべてが、言葉よりも先に答えを伝えていた。
この人は、私のお母さんだ。
女性はそのままフィーネを強く抱きしめた。
「おかえりなさい……おかえりなさい、私のフィーネ……!」
声は涙で震えていた。
細い肩が小刻みに揺れている。
腕に込められた力は、十年という歳月を埋めようとするかのように強かった。
失っていた時間を、一瞬で取り戻そうとするように。
⸻
フィーネはその腕の中で、じっと目を見開いていた。
温かい。
懐かしいような、知らないような、不思議なぬくもり。
胸の奥で、忘れていた記憶の欠片が微かに揺れる。
優しい手。
柔らかな声。
膝の上で眠ったような遠い感覚。
確かに感じる。
この人は、本当に自分の母親だ。
視線を上げると、少し離れた場所に立つ男性がいた。
同じ灰色の髪。
同じ青い瞳。
父。
口元を震わせながら、必死に涙をこらえている。
その隣には、小さな男の子。
不安そうに、しかし興味深そうにこちらを見つめている。
弟。
その言葉が自然と胸に浮かんだ。
――これが、私の本当の家族。
十年間探し続けた答えが、今、目の前にあった。
ずっと知りたかったこと。
ずっと会いたかった人たち。
それなのに――。
フィーネの胸の中に最初に湧き上がった感情は、喜びだけではなかった。
戸惑い。
驚き。
そして、どうしようもない違和感。
この人たちは確かに自分の家族だ。
でも。
「家族」という言葉を思い浮かべたとき、
最初に浮かぶ顔は、別の人だった。
森の中で手を差し伸べてくれた人。
何度も頭を撫でてくれた人。
怖い時に「大丈夫だ」と言ってくれた人。
父さん。
フィーネはそっと母親の肩に手を置いた。
優しく、傷つけないように。
感謝を込めて。
そしてゆっくりと身体を離した。
母親の腕の力がふっと緩む。
涙に濡れた青い瞳が、不思議そうに揺れた。
フィーネは一歩退がり、迷うことなくミッツーの隣へ戻った。
そして、ぴたりとその横に立つ。
まるで、それが自分のいるべき場所であるかのように。
⸻
ミッツーは、その一連の動きを黙って見つめていた。
胸の奥に、複雑な感情が押し寄せる。
ここまで連れてきた。
ずっと探し続けた家族と、ついに再会した。
それは間違いなく喜ばしいことだった。
だが同時に、どこかで恐れていた。
もしこの瞬間、
フィーネの心が自分から離れてしまったらどうしよう。
もし本当の家族のもとへ戻り、
自分の役目が終わってしまったら。
そんなことを考えてしまう自分を、
情けないとも思っていた。
だが――。
フィーネは、迷うことなく自分の隣へ戻ってきた。
小さな手が、震えながらも自分の手を探す。
ミッツーはその手をしっかりと握った。
温かい。
いつもと同じ、小さな手。
その瞬間、胸の奥に張りつめていたものが静かにほどけた。
嬉しかった。
そして、胸が締めつけられるほど愛おしかった。
この子は、本当の家族を見つけてもなお、
自分を父と呼んでくれる。
その事実が、何よりも心に沁みた。
ミッツーは何も言わなかった。
ただ、いつものように隣に立ち、
いつものようにその手を握り続けた。
それが今の自分にできるすべてだった。
⸻
フィーネの母親は、その様子を見つめていた。
一瞬、青い瞳が大きく見開かれる。
驚き。
戸惑い。
そして、胸を刺すような痛み。
当然だった。
十年もの間、毎日毎日会いたいと願ってきた娘。
ようやく抱きしめることができた、その娘が、
真っ先に戻ったのは、自分のもとではなかった。
けれど、次の瞬間、
その痛みを包み込むような別の感情が湧き上がった。
安堵。
この子は、一人ではなかった。
捨てられたのではない。
孤独に泣きながら生きてきたのではない。
こんなにも優しい目をした男に、
大切に育てられてきたのだ。
そのことが分かった瞬間、
胸の奥からあふれてきたのは感謝だった。
母親は涙を拭いながら、
ミッツーへ深く頭を下げた。
まだ言葉にはできない。
ありがとうという一言では到底足りない。
それでも、その眼差しにはすべての思いが込められていた。
⸻
やがて老人が、一歩前へと進み出た。
白い髭を胸まで垂らし、
長い年月を生きてきた瞳が静かにフィーネを見つめる。
その眼差しは、まるで遠い過去そのものを見つめているようだった。
「そうじゃな……」
老人の声は低く、深く、
古い鐘の音のように広間へと響いた。
「すべてを話そう」
老人は杖を軽く床に打ちつけた。
乾いた音が石造りの部屋に反響する。
「遥か、古のことからな」
そして、その語りは始まった。
⸻
「はるか千年以上の昔――」
老人の声は、まるで神話を吟じる詩人のようだった。
「我らの祖先は、大空に浮かぶ島に王国を築いた」
フィーネの脳裏に、
雲海の上に浮かぶあの巨大な浮遊島の光景が浮かぶ。
緑豊かな大地。
白い宮殿。
風に揺れる旗。
跳ねるように走り回るうさぎの民。
「その国は平和であった。穏やかで、豊かで、永く安寧の時代を謳歌していた」
老人の声は、遠い夢を語るように柔らかかった。
「やがて、我らは地上の民とも交流を持つようになった」
その時、老人の声に影が差す。
「そしてある日――地上より、一つの赤き果実がもたらされた」
フィーネの耳がぴくりと動く。
赤い果実。
リンゴ。
旅の中で何度も食べた、大好きな果物。
「時の王がそれを口にした時、異変は始まった」
老人の声が静かに低くなる。
「高熱に倒れ、その身には赤き紋様が浮かび上がった」
「民は恐れた。果実の呪いだと」
広間の空気が重くなる。
「王が床に伏す間、国は乱れた。王座を狙う者たちの野心によって」
「そして王とその一族は、呪われし血と断じられた」
老人の瞳がフィーネへ向けられる。
「その名こそ――ラビッシュ」
フィーネの胸が大きく震えた。
ミッツーの手を握る指先に力がこもる。
「やがてその名は歪められ、ラビーシャとなり、“追放者たち”を意味する言葉となった」
すべてが繋がる。
吟遊詩人の歌。
エレノアの語った伝承。
自分の姓。
失われた記憶。
そのすべてが、一本の糸になって胸の中で結ばれていく。
⸻
老人の語りは続く。
「追放された王族は、このエルダール山脈の奥深くへと逃れた」
「ここに村を築き、街となり、やがて再び国となった」
「だが、呪いは終わらなかった」
老人の声がさらに重みを帯びる。
「およそ百年に一度、王の直系に赤き紋様を宿す子が生まれた」
フィーネの呼吸が止まる。
「民はその子を恐れた」
母親の肩が震える。
父親は唇を噛みしめる。
「そして七歳の年、国の外へと追放した」
フィーネの視界が揺れた。
七歳。
自分が森にいた年齢。
すべてが、そこに繋がる。
「もし生きて戻ることができれば、呪いを克服したと見なす」
老人は静かに目を閉じた。
「だが……これまで戻った者は、一人としておらなんだ」
⸻
そこまで聞いて、
フィーネはようやく理解した。
なぜ、自分はあの森にいたのか。
なぜ、一人だったのか。
なぜ、ずっと探し続けていたのか。
すべての答えが、今ここにあった。
胸の奥に熱いものが込み上げる。
悲しい。
悔しい。
でも、不思議と孤独ではなかった。
隣には、変わらずミッツーがいる。
その大きな手を、フィーネはさらに強く握った。
ミッツーもまた、
何も言わずにその手を握り返す。
フィーネは目を閉じた。
七歳のあの日、
森の中で泣いていた自分。
そして、そこへ現れた一人の冒険者。
もしあの日、父さんと出会っていなかったら。
今の自分はいなかった。
本当の家族を知ったこの瞬間でさえ、
心が一番安らぐ場所は変わらない。
フィーネはそっとミッツーの肩に寄り添った。
そして心の中で、静かに呟いた。
――父さん。
ありがとう。




