第24羽「山脈の街へ」
「ここから何日も歩いて、エルダール山脈の奥深くにある街よ」
フェルマの静かな声が、部屋の空気をわずかに震わせた。
その言葉を聞いた瞬間、フィーネの胸がどくん、と大きく鳴った。
エルダール山脈。
山奥の街。
結界に守られた場所。
それは、レティシアの手紙、そしてエレノアから聞かされた、ずっと探し続けてきた街のことだった。
フィーネは思わず隣のミッツーを見上げた。
ミッツーもまた、驚きを隠せない表情でこちらを見ている。
本当にあった。
ただの伝説ではなかった。
そして――そこに行ける。
胸の奥で、期待と不安が同時に膨らんでいく。
嬉しいはずなのに、心臓は痛いほど速く脈打っていた。
フェルマは二人の表情を見つめ、少しだけ目を細めた。
その瞳には、懐かしさと、長い時間を経てようやくたどり着いたものを見つめるような、深い感情が宿っていた。
「山脈を越えるのはとても危険なの。命を落とす旅人も少なくないわ」
そう言ってから、フェルマは少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「だから、“私たち”は魔法を使うの。少しズルいかもしれないけれどね」
“私たち”。
その言葉に、フィーネの耳がぴくりと動く。
その響きは不思議とあたたかかった。
自分がまだ知らないはずの場所なのに、どこか懐かしく感じる。
「転移魔法よ。あらかじめ強い魔力で魔法陣を描いておけば、その場所と場所を結ぶことができるの。ただし、とても高度な術。幸い、私たちの一族には、それを扱える者がいるの」
フェルマの声には、誇りと感謝が滲んでいた。
それは、ただ便利な魔法を説明しているのではなく、代々受け継がれてきた、大切な力について語っているようだった。
「さあ、行きましょう」
促されて、二人は家の奥へと進んでいく。
ミッツーは歩きながら、家に入った時から感じていた魔力の気配を思い出していた。
あの時、家の奥から静かに漂っていた、澄んだ強い力。
それがこの転移魔法陣のものだったのだと、ようやく腑に落ちる。
フェルマが扉を開く。
その先にあったのは、薄暗く静まり返った部屋だった。
床いっぱいに描かれた巨大な魔法陣が、淡い銀色の光を放っている。
幾重にも重なった紋様はまるで星座のように精密で、見ているだけで吸い込まれそうなほど美しかった。
部屋の空気はぴんと張り詰めており、息をすることさえためらわれるような神聖さがあった。
フェルマは魔法陣の中央に立ち、優しく手を差し伸べた。
「どうぞ」
フィーネはその光を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ここに足を踏み入れれば、ずっと探していた真実にたどり着く。
本当の家族。
失われた記憶。
自分がどこから来たのか。
知りたい。
でも、怖い。
もし望んでいたものと違っていたら。
もし自分の居場所が変わってしまったら。
フィーネは無意識に胸元のロケットペンダントを握りしめた。
中にいるルナ。
遠くにいるレティシア。
これまで出会ってきた、大切な人たち。
そして――隣にいる父さん。
フィーネは小さく息を吸い込んだ。
その肩がわずかに震えていることに、ミッツーは気づいていた。
「大丈夫だ」
低く、穏やかな声。
それだけで、張り詰めていた心が少しずつほどけていく。
フィーネはミッツーを見上げた。
いつもの優しい目。
何度も何度も、不安な時に支えてくれた表情。
森で出会った日から、ずっと変わらない。
フィーネはこくりと頷いた。
そして、小さな手でミッツーの手をぎゅっと握る。
ミッツーも、その手をしっかりと握り返した。
温かい。
大きくて、安心する手。
そのぬくもりを感じた瞬間、
フィーネの中にあった恐れは、静かに薄れていった。
――何があっても、父さんがいる。
それだけで、前へ進める。
フィーネは一歩を踏み出し、魔法陣の中へと入った。
フェルマはそんな二人を見つめ、
胸の奥にこみ上げるものをそっと押さえ込んだ。
十年。
長いようで、あまりにも長い時間だった。
何度も祈り、
何度も諦めそうになりながら、
それでも帰ってくる日を信じ続けてきた。
今、自分の目の前にいる。
あの日、失われた小さな少女が、
立派に成長して。
しかも、その隣には、
これほど優しい目をした男がいる。
――この子は、ちゃんと愛されて育ったのだ。
そのことが、フェルマには何よりも嬉しかった。
フェルマは目を閉じ、聞き慣れない古い言葉を静かに唱え始めた。
すると魔法陣の光が一気に強くなる。
床の紋様が輝き、幾千もの星が舞い上がるように銀の粒子が空中へと散っていく。
フィーネは思わず目を見開いた。
身体がふわりと浮き上がるような感覚。
重力が遠のき、世界そのものが光へと溶けていく。
ミッツーの手のぬくもりだけが、
唯一の現実のように感じられた。
そして――。
光が静かに消えた。
フィーネはゆっくりと目を開く。
そこは、もう先ほどの部屋ではなかった。
息を呑む。
天井は驚くほど高く、
白い石柱が何本も立ち並んでいる。
磨き上げられた大理石の床には、
淡い光が水面のように揺れていた。
色とりどりのステンドグラスから差し込む光が、床や柱を静かに染めている。
どこからともなく澄んだ空気が流れ、世界そのものが祈りに包まれているようだった。
神殿。
そう呼ぶしかない、厳かで神聖な場所。
フィーネは言葉を失った。
ここに来た。
本当に。
夢ではない。
足元がふわふわとして、
今にも泣き出しそうになる。
怖い。
嬉しい。
信じられない。
様々な感情が一度に押し寄せ、
胸の奥が熱くなる。
ミッツーもまた、静かに周囲を見渡していた。
これほどの魔法。
これほどの場所。
そして、この先に待っている真実。
自分の知らない世界に踏み込んだことを実感する。
だが、それ以上に強く感じていたのは、
隣に立つフィーネの存在だった。
この子の旅は、ここへたどり着くためにあった。
そして、自分の役目もまた、この子をここまで連れてくることだったのだ。
ミッツーは、そっとフィーネを見下ろす。
震えながらも、前を見つめるその横顔は、出会った頃の幼い少女ではなかった。
立派に成長した、自分の娘。
誇らしさと、少しの寂しさが胸に広がる。
フェルマはそんな二人を見つめ、目元を柔らかく緩めた。
ようやく、この時が来た。
失われた十年の先に、確かに繋がった絆。
「こちらです」
フェルマの声は、先ほどよりも少しだけ震えていた。
二人はその声に導かれ、神殿の奥へと歩き出す。
石造りの廊下には足音だけが静かに響く。
進むたびに、フィーネの鼓動はさらに速くなっていった。
胸の中で心臓が鳴り続ける。
その音が周囲に聞こえてしまうのではないかと思うほど大きい。
手のひらには汗がにじんでいた。
不安になって、再びミッツーの手を握る。
ミッツーは何も言わず、ただいつものように、その手を包み込んだ。
それだけで、フィーネは前を向くことができた。
やがて、一つの部屋の前でフェルマが立ち止まる。
扉が静かに開かれる。
その先には、数人のうさぎ型獣人が待っていた。
杖をついた老人。
その傍らに立つ男女。
そして、小さな子供。
家族。
その言葉が、フィーネの胸の中でそっと形になる。
息が止まりそうだった。
足がすくみそうになる。
それでも、一歩、また一歩と進む。
ミッツーの手の温もりを感じながら。
そして二人は、その四人の前に立った。
ローブを纏った老人が、ゆっくりと一歩前に出る。
その瞳には、長い年月を越えてきた深い愛情と、ようやく再び巡り会えた喜びが満ちていた。
老人は静かに口を開いた。
「よく戻って来た、フィーネよ」




