第23羽「ギルドのうさぎ耳の女性」
翌朝、フィーネはふかふかの羽毛布団の中でゆっくりと目を覚ました。
頬に触れる枕は驚くほど柔らかく、身体を包み込むクッションはまるで雲のようだった。
淡い花柄のシーツ、窓辺に吊るされたレースのカーテン、小さなテーブルの上に飾られた野の花。
昨夜の宿決定戦は、結局いつも通りフィーネの勝利だった。
「父さんの選んだ宿、ちょっと渋すぎるんだもん」
昨夜そう言って胸を張ったフィーネに、ミッツーは肩をすくめて笑った。
「やっぱりこうなるんだな」
呆れたようでいて、どこか嬉しそうなその顔を思い出し、フィーネは布団の中で小さく笑った。
こういう何気ないやり取りが、たまらなく好きだった。
世界のどこにいても、どんなに大きな不安を抱えていても、父さんと一緒なら、いつもの朝がやってくる。
それだけで、心が少し軽くなる。
ベッドから起き上がり、窓を開ける。
朝の澄んだ空気が部屋に流れ込み、遠くから馬車の車輪の音と人々の話し声が聞こえてきた。
今日から、いよいよ最後の道のりだ。
フィーネは胸元のロケットペンダントにそっと触れた。
「…ルナ…行こう」
小さく呟き、自分に言い聞かせるように微笑んだ。
⸻
朝食を終え、二人は馬車乗り場へ向かった。
市場には焼きたてのパンの香りが漂い、商人たちの威勢のいい声が飛び交っている。
街はいつも通り穏やかで、旅人を送り出す朝の光に満ちていた。
その温かな風景とは対照的に、フィーネの胸の奥では、静かに鼓動が速くなっていた。
エルディアース。
そこには、自分の過去があるかもしれない。
本当の名前。
本当の家族。
失われた記憶。
ずっと追い求めてきたものが、すぐそこまで迫っている。
でも同時に、怖かった。
もし何も見つからなかったら。
もし、すべてが自分の想像とは違っていたら。
もし――。
そこまで考えたとき、不意に大きな手が頭に置かれた。
「大丈夫だ」
ミッツーの穏やかな声。
フィーネが顔を上げると、父の優しい眼差しがそこにあった。
「父さんがついてる。何があってもな」
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていた胸の奥がふっとほどけた。
熱いものが込み上げてくる。
そうだ。
ずっとそうだった。
森で出会ったあの日から、父さんはいつだって自分の隣にいてくれた。
怖い時も、泣きたい時も、嬉しい時も。
一人だと思ったことは、一度もなかった。
フィーネは唇をきゅっと結び、それから安心したように微笑んだ。
「……うん」
その声は少し震えていたが、もう先ほどまでの不安はなかった。
⸻
馬車に揺られながら、三日が過ぎた。
途中で野営をし、小さな村を二つ通り抜ける。
夜空を見上げ、焚き火を囲み、朝露の道を進む。
旅の時間は、静かに、しかし確実に目的地へと近づいていった。
そして四日目の午後。
馬車の窓から見える遥か彼方に、巨大な城壁と白い街並みが現れた。
エルディアース。
フィーネの呼吸が止まった。
胸の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
手のひらにじっとりと汗が滲む。
無意識にロケットを強く握りしめていた。
あの街のどこかに、自分の過去がある。
そう思った瞬間、期待と不安が一度に押し寄せてきて、胸が苦しくなった。
⸻
馬車がゆっくりと停車する。
扉が開き、人々が次々と降りていく。
フィーネは立ち上がったものの、すぐには足が動かなかった。
あと一歩踏み出せば、すべてが変わるかもしれない。
そう思うと、足が鉛のように重かった。
すると、先に降りたミッツーが振り返り、静かに手を差し出した。
「おいで」
その笑顔を見た瞬間、フィーネの胸の中にあった恐れは、陽だまりの雪のように溶けていった。
フィーネはぱっと顔をほころばせ、その手に飛びついた。
「うん!」
しっかりと握られた温かな手。
それだけで、どこへでも行ける気がした。
⸻
「まずはギルドだな」
街の喧騒の中を歩きながら、ミッツーが言う。
「登録しておけば情報も集めやすい」
「うん。それに……」
フィーネは少し表情を明るくした。
「もしかしたらレティシアから手紙も届いてるかもしれないよね」
「ああ、そうだな」
その言葉に、フィーネの心が少し和らぐ。
大切な人たちが、自分の旅の続きを見守ってくれている。
そう思うだけで、勇気が湧いてきた。
⸻
エルディアースの冒険者ギルドは、これまで訪れたどの街よりも大きかった。
広いホールには冒険者たちの声が飛び交い、依頼書が並ぶ掲示板の前には人だかりができている。
フィーネは緊張しながら受付へ進んだ。
「お名前をどうぞ」
受付係の問いに、フィーネはいつものように胸を張った。
「フィーネ・ラビッシュです!」
その瞬間だった。
少し離れた場所で書類を整理していた一人の女性が、はっと顔を上げた。
長い灰色の髪。
青みがかった瞳。
そしてフィーネと同じ、長いうさぎ耳。
その女性――フェルマの手がぴたりと止まった。
瞳が大きく見開かれる。
まるで信じられないものを見たように。
唇がわずかに震え、息を呑む音が聞こえた気がした。
「……ラビッシュ?」
かすかな呟き。
その声には驚きだけでなく、戸惑いと、そして押し殺した感情が滲んでいた。
フェルマはフィーネを見つめたまま、次の言葉を探しているようだった。
目の奥で、何かが激しく揺れている。
懐かしさ。
驚愕。
そして、長い間待ち続けていた者だけが見せるような、切実な感情。
しかし彼女は一度深く息を吸うと、すぐに穏やかな微笑みを作った。
完璧に見える笑顔。
けれど、その笑顔の裏で、胸が大きく波打っていることをフィーネは知らなかった。
フェルマはゆっくりと歩み寄った。
「あなた……ラビッシュとおっしゃるの?」
フィーネは不思議そうに瞬きをした。
「はい」
「どこから来たの?」
「ベルフォードです。父さんと出会った森の近くの街です」
その答えを聞いた瞬間、フェルマの表情がもう一度揺れた。
瞳が震え、喉が小さく上下する。
ほんの一瞬、言葉を失ったように立ち尽くす。
遠い記憶と、今目の前にいる少女とが重なったのだろう。
だがすぐに、彼女は微笑みを取り戻した。
「……そう。随分遠くからいらしたのね」
声は穏やかだったが、わずかに震えていた。
「もしよろしければ、旅のお話を聞かせていただけないかしら?」
フィーネはミッツーを見上げた。
ミッツーもまた、フェルマをじっと見つめていた。
一見落ち着いているが、その目は鋭く、相手の内面を見極めようとしている。
二人は無言で視線を交わした。
――この人は何か知っている。
そう確信していた。
ミッツーは少しだけ考え、それから静かに頷いた。
「お話を伺います」
フェルマの表情に、ほっとしたような色が浮かんだ。
「ありがとう。こちらへ」
⸻
案内されたのは、ギルドから少し離れた静かな小さな家だった。
扉を開けた瞬間、ミッツーはわずかに目を細めた。
家の奥から、かすかな魔力の気配を感じたのだ。
強力なものではない。
だが確かに、何かがある。
結界のような、守りのような、懐かしい気配。
ミッツーはそれに気づいたが、あえて何も言わなかった。
今は、フィーネのための時間だ。
二人はテーブルについた。
フェルマはしばらく黙って立っていた。
胸の前で両手を重ね、何度か息を整える。
これから語る言葉の重みを、自分自身に言い聞かせているようだった。
やがて彼女は椅子に腰を下ろし、静かに口を開いた。
「私の名前はフェルマ」
その声には、覚悟が宿っていた。
「突然ごめんなさいね」
一度目を伏せ、そしてまっすぐフィーネを見つめる。
その瞳には、涙の光がかすかに揺れていた。
「実は……あなたたちを案内したい場所があるの」
フィーネの背筋が伸びた。
フェルマは続ける。
「ここから何日も歩き、エルダール山脈の奥深くにある街よ」
その言葉を聞いた瞬間、フィーネとミッツーは同時に息を呑んだ。
そして、顔を見合わせる。
あの結界の街。
ずっと探し続けてきた、すべての答えが待つ場所。
ついに、その扉が開こうとしていた。




