第22羽「穏やかな午後」
昼過ぎ、馬車はゆるやかな丘陵地帯の中に現れた城壁都市へと到着した。
「クレストンだよ」
御者の声とともに、車輪の振動が少しずつ静かになっていく。
窓の外には、明るい色の石で築かれた城壁と、赤茶色の屋根が重なる穏やかな街並みが広がっていた。
門の向こうでは、人々が行き交い、荷車がゆっくりと進み、パンの焼ける香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
エルダール山脈の険しさを思わせるような重苦しい雰囲気は、ここにはない。
どこにでもあるような、温かな街だった。
馬車を降りたエレノア・シルヴェリアは、相変わらず落ち着いた微笑みを浮かべながら二人に向き直った。
「私はここで失礼します」
風に揺れる銀色の髪が、陽光を受けて柔らかく輝く。
「エルディアースまではまだ少しあります。この先には大きな街があまりありませんから、今日はここで休んでおくとよいでしょう」
「そうするよ」
ミッツーが頷く。
フィーネも小さく頭を下げた。
「ありがとうございました、エレノアさん」
エレノアは緑色の瞳を細め、優しく微笑んだ。
「どうか、あなたたちの旅路に幸運がありますように」
その言葉は、ただの別れの挨拶ではなく、祈りのように聞こえた。
エレノアの後ろ姿が人混みの中に消えていくまで、フィーネはじっと見つめていた。
あの焚き火の夜に聞いた伝承の言葉が、まだ胸の奥で静かに響いている。
――ラビーシャ。
――追放者たち。
――結界に守られた街。
そこに、自分の過去があるかもしれない。
そう思うと、胸の鼓動が少しだけ速くなる。
だが、隣に立つミッツーの気配を感じると、不思議と心が落ち着いた。
「父さん、今日はここに泊まろう」
「ああ。急いでも、山は逃げないからな」
その言葉に、フィーネはふっと笑った。
「そうだね」
⸻
クレストンの街は、どこか懐かしさを感じさせる場所だった。
石畳の道。
軒先に花を飾った家々。
笑い声。
市場のざわめき。
遠くで鳴る鐘の音。
人々の暮らしの温もりが、街の空気そのものになっているようだった。
エルディアースへ向かう旅は、今までとは少し違う。
足を進めるたびに、自分の過去へと近づいていく。
そう思うと胸がざわつく。
けれど、この街の穏やかな午後の光は、その緊張を少しずつ溶かしてくれた。
「まずは買い物だな」
「うん!」
二人は市場へ向かった。
干し肉や保存食、薬草、ランタン用の油。
必要なものをひとつずつ揃えていく。
そんな中、小さな雑貨屋の前でフィーネの足が止まった。
木製の看板。
色とりどりの小物。
可愛らしい飾り。
見た瞬間に、リュミエールが脳裏に浮かぶ。
雑貨屋「ノルン」。
そして、レティシアの笑顔も。
「いらっしゃい!」
「これ、フィーネに似合うと思う!」
あの明るい声が聞こえてくるようだった。
フィーネは胸元のロケットペンダントをそっと握った。
ひんやりとした、それでいて温かい感触。
その中には、ルナの想いが眠っている。
そして、心の中にはレティシアの笑顔がある。
同行したいと言ってくれたレティシア。
本当は、一緒にいてほしかった。
楽しい時も、不安な時も、隣にいてくれたらどんなに心強かっただろう。
でも。
これは、自分と父さんの旅だ。
七歳のあの日から続いてきた、二人だけの旅。
自分の記憶を取り戻す旅であり、本当の家族を探す旅であり、そして何より、父さんと歩いてきた十年の答えを見つける旅だ。
レティシアにはレティシアの旅がある。
だからこそ、また会えた時には、何もかもを笑顔で話したい。
「全部分かったよ!」と。
その時を思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
⸻
街の中央には、丸い噴水のある広場があった。
水が陽光を受けてきらきらと輝いている。
周囲では子どもたちが走り回り、笑い声を上げていた。
犬の耳を揺らしながら追いかけっこをする子。
小さなうさぎ耳をぴょこぴょこ動かしながらはしゃぐ子。
噴水の縁に腰掛けて足をぶらぶらさせる子。
その光景は、あまりにも平和で、あまりにも眩しかった。
「少し休むか」
ミッツーが言い、二人はベンチに腰掛けた。
心地よい風が吹く。
噴水の水音が、静かに耳に届く。
しばらく無言で子どもたちを眺めていたあと、ミッツーがふと思い出したように笑った。
「そういえば、ここみたいな噴水のある街で、昔お前が落っこちたことがあったな」
フィーネの耳がぴくりと動いた。
「え?」
「八つか九つくらいだったかな。噴水の縁を走り回って――」
ミッツーは手で丸い軌道を描く。
「そのまま足を滑らせて、ぼちゃん」
フィーネの頬がみるみる赤くなった。
「……あったっけ?」
「ずぶ濡れになって、わんわん泣いてた」
「し、知らないなぁ」
「服を乾かすのに苦労したんだぞ」
「知らないったら知らない!」
フィーネはそっぽを向いた。
だが、実はぼんやりと覚えている。
冷たい水。
驚いて涙が出たこと。
そして、ミッツーに抱き上げられた温かさ。
あの頃の自分は、まだ幼かった。
不安になるたびに、父さんの服をぎゅっと掴んでいた。
思えば、この十年の間に本当にたくさんのことがあった。
旅をして。
喧嘩して。
笑って。
泣いて。
病気になって。
出会って。
別れて。
ひとつひとつの出来事を、二人で積み重ねてきた。
血は繋がっていない。
それでも。
いや、だからこそ。
この十年が、自分たちを親子にしてくれたのだ。
フィーネは隣に座るミッツーを見上げた。
少し伸びた赤みがかった茶色の髪。
穏やかな横顔。
旅の中で増えた細かな傷跡。
いつも自分を見守ってくれる瞳。
そして、優しく呼ぶ声。
この人がいたから、ここまで来られた。
本当の家族に会えるかもしれない。
けれど、そのことと、この想いは何ひとつ矛盾しない。
むしろ、はっきりと分かる。
私は――
父さんの娘でよかった。
そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
泣きたくなるような、でもとても温かな気持ちだった。
「ん? どうした?」
ミッツーが不思議そうに首を傾げる。
フィーネは慌てて笑顔を作った。
「ううん、なんでもない!」
それから少しだけ身体を寄せ、そっと肩を預けた。
ミッツーは何も言わず、ただそのまま受け止めてくれた。
噴水の水音。
子どもたちの笑い声。
青い空に浮かぶ白い雲。
穏やかな午後の景色の中で、フィーネは静かに目を細めた。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
そんなことを思った。
⸻
やがて日が傾き始める。
広場の石畳が、黄金色に染まっていく。
「さて、宿を探すか」
「うん!」
フィーネは元気よく立ち上がった。
そして、いたずらっぽく笑う。
「今日は宿決定戦だね!」
「負けないぞ」
「ふふっ」
いつものように言い合いながら歩き出す。
でも、今日は少しだけ特別な気持ちだった。
父さんの選ぶ宿にしてあげてもいいかな。
そんなことを考えながら、フィーネはちらりと隣を見た。
ミッツーはいつものように穏やかに歩いている。
その姿が、夕日に照らされて柔らかな金色に染まっていた。
明日からまた旅が続く。
自分の過去へ向かう旅。
本当の家族へ近づく旅。
けれど、どんな真実が待っていたとしても。
自分には、帰る場所がある。
隣には、父さんがいる。
それだけで、もう怖くなかった。
夕暮れの街を並んで歩きながら、フィーネは穏やかな笑顔を浮かべた。
そして、胸の中でそっと呟く。
――ありがとう、父さん。
――私を見つけてくれて。
――ずっと一緒にいてくれて。




