第21羽「ハーフエルフの語る伝承」
セレーナ・テラスの朝は、どこまでも青かった。
窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋へ流れ込んでくる。
白いカーテンがふわりと揺れ、その向こうには港に停泊する船の帆が朝日に輝いていた。
フィーネは荷物を背負い終えると、くるりと振り返った。
「準備できた!」
いつものように明るい声だった。
けれど、その青い瞳の奥には、昨日までとは違う光が宿っていた。
期待。
不安。
そして、決意。
自分の名前の意味を知るための旅が、いよいよ本格的に始まる。
ミッツーは剣の位置を確かめながら、娘のように育ててきた少女を見つめた。
七歳で出会ったときは、小さく震えていた子だった。
今では自分よりも速く走り、頼もしく剣を振るい、そして自らの過去に向き合おうとしている。
誇らしい。
けれど同時に、胸の奥には言葉にならない感情もあった。
この旅の先で、フィーネは本当の家族に出会うかもしれない。
それは喜ぶべきことだ。
そう分かっていても、心のどこかが静かに揺れていた。
フィーネはそんなミッツーの表情を見上げると、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「父さん」
「ん?」
「今度は陸路だね」
その一言に、ミッツーは眉をひそめる。
「……まだ言うのか」
フィーネの耳がぴんと立つ。
「だって、船の上で顔が真っ青だったし」
「俺は船が苦手なだけだ」
「知ってる」
くすくすと笑う。
その笑い声を聞いて、ミッツーの胸の中の重苦しさが少しだけ和らいだ。
「さあ、行こうか」
「うん!」
二人は宿の扉を開けた。
新しい旅の始まりだった。
⸻
セレーナ・テラスの馬車乗り場は、朝から多くの旅人で賑わっていた。
商人たちが荷を積み込み、御者が馬のたてがみを撫で、旅人たちはそれぞれの目的地へと思いを馳せている。
フィーネは青空を見上げる。
雲ひとつない快晴。
けれど胸の中は、晴れやかなだけではなかった。
足取りは軽い。
なのに、心のどこかは重い。
早く知りたい。
でも、知るのが怖い。
そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、フィーネはミッツーの隣に立っていた。
そのとき。
「失礼いたします」
穏やかな女性の声がした。
振り向くと、一人の婦人が立っていた。
肩まで伸びる淡い銀髪。
やや長く尖った耳。
落ち着いた緑の瞳。
年の頃は五十代ほどに見えるが、エルフの血を引く者の年齢は外見だけでは測れない。
品のある旅装束を身につけた、ハーフエルフの女性だった。
「私はエレノア・シルヴェリアと申します」
丁寧に一礼する。
「もしよろしければ、次の街まで護衛をお願いできませんか」
ミッツーは首をかしげた。
目の前の女性は、貴族のような派手さはない。
荷物も多くなく、見るからに狙われそうな様子でもなかった。
「何か心配事でも?」
エレノアは少しだけ視線を落とした。
「このところ、街道の魔物の数が増えていると聞きまして」
静かな声だったが、その言葉には確かな警戒心があった。
ミッツーは少し考えたあと頷いた。
「分かりました。引き受けます」
エレノアの表情がやわらぐ。
「ありがとうございます」
フィーネも笑顔で耳を立てた。
「よろしくお願いします!」
⸻
馬車は北へ向かって走り出した。
海沿いの街を離れるにつれ、潮の香りは次第に薄れ、代わりに草原の爽やかな風が頬を撫でる。
フィーネは窓から顔を出し、流れていく景色を眺めていた。
遠くには、かすかに連なる山々。
そのさらに向こうに、エルダール山脈がある。
そして、その麓にはエルディアース。
自分の過去へ続く場所。
胸の奥がそわそわする。
楽しみなのか、不安なのか、自分でも分からない。
そんなフィーネの様子を、エレノアは静かに見つめていた。
⸻
その日の夜。
馬車は街道沿いの広場で野営することになった。
焚き火が揺れ、鍋からは温かなスープの香りが漂う。
フィーネはパンを頬張りながら、ミッツーとエレノアの話を聞いていた。
そのとき。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
ミッツーが立ち上がる。
「来るぞ」
闇の中から現れたのは、十数体の魔物たち。
牙をむき、赤い目を光らせながら一斉に襲いかかってくる。
「多い!」
フィーネの耳がぴんと立った。
だが、その瞳に恐れはない。
「父さん、右お願い!」
「了解!」
フィーネは剣を抜き放ち、駆け出した。
月光を受けて灰色の髪が舞う。
一閃。
先頭の魔物が倒れる。
左手に魔法陣が浮かび、光の矢が夜を切り裂く。
ミッツーは後方から支援しつつ、近づいた敵を的確に斬り伏せた。
戦いは長くは続かなかった。
やがて最後の一体が倒れ、静寂が戻る。
フィーネは剣を収め、大きく息をついた。
「ふぅ……」
エレノアは感嘆したように目を細めた。
「見事でした」
⸻
焚き火のそばに戻り、エレノアは二人に深く頭を下げた。
「おかげで助かりました。本当にありがとうございます」
そして、穏やかに微笑む。
「改めて、お名前を伺ってもよろしいですか」
ミッツーが答える。
「ミッツー・アルシアンです」
フィーネも胸を張った。
「私はフィーネ・ラビッシュ!」
その瞬間。
エレノアの表情が、ほんのわずかに変わった。
緑の瞳が静かに見開かれる。
「……ラビッシュ」
その名を、確かめるように繰り返す。
フィーネの胸がどきりと鳴った。
ミッツーも息をのむ。
エレノアはしばらく焚き火を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「これは、古い伝承です」
火の粉が夜空へ舞い上がる。
「何百年、いえ、千年以上前、空から耳の長い人々が降りてきたと伝えられています」
フィーネの耳がぴくりと動いた。
「彼らはこの地に留まることなく、エルダール山脈の奥深くへと姿を消しました」
エレノアの声は静かで、どこか遠い昔を見つめるようだった。
「それ以来、誰も彼らを見た者はいないとされています」
フィーネは無意識に息を止める。
ミッツーも黙って聞いていた。
「いつの頃からか、人々は彼らのことを『ラビーシャ』と呼ぶようになりました」
焚き火がぱちりと音を立てる。
「追放者たち――という意味です」
フィーネの胸が大きく脈打った。
ラビーシャ。
レティシアの手紙。
浮遊島の刻印。
父の夢の記憶。
すべてが一本の線で結ばれていく。
エレノアは続けた。
「さらに、ごく稀に、山脈を越えようとした旅人が結界に包まれた街のようなものを見たという話もあります」
フィーネの青い瞳が揺れる。
「結界の……街……」
「ええ。ただし、誰もそこへ辿り着けたという話は聞きません」
静かな沈黙が訪れた。
風が草を揺らす。
焚き火の炎がゆらゆらと揺れる。
フィーネとミッツーは、言葉を失っていた。
仮説だったものが、伝承によって裏付けられた。
フィーネの家族は、本当にそこにいるのかもしれない。
ミッツーはそっとフィーネを見る。
フィーネの手は小さく震えていた。
だがその瞳には、確かな光が宿っていた。
恐れと希望が入り混じった、強い光。
エレノアは優しく微笑む。
「もしあなたがその名を持つ者なら」
フィーネは顔を上げる。
「長い旅の先に、きっと答えが待っているでしょう」
⸻
翌朝。
馬車は再び北へと走り始めた。
車輪の音が規則正しく響く。
窓の外には、新しい街の城壁が見え始めていた。
フィーネはその景色を見つめながら、胸元のロケットペンダントを握る。
「ルナ…私…」
怖い。
でも、知りたい。
そして何より――会いたい。
自分の本当の家族に。
その隣でミッツーは静かに座っていた。
娘のように育ててきた少女の横顔を見つめながら、胸の中でそっと願う。
どうか、この旅の先に幸せがありますように。
フィーネは窓の外から視線を戻し、ミッツーに笑いかけた。
その笑顔には、不安とともに確かな決意があった。
そして、小さく頷く。
ミッツーも頷き返す。
言葉はない。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
馬車は街へと近づいていく。
そして二人の旅もまた、真実へと確実に近づいていた。




