第20羽「君の名前は…」
「それが閉じ込められていた記憶だとすると……」
宿の部屋に響いたミッツーの声は、静かだった。
けれどその静けさの奥には、確かな緊張があった。
勢いよく部屋に飛び込んできたフィーネは、まだ息を切らしていた。
灰色の髪は乱れ、長いうさぎ耳は落ち着きなく揺れている。
青い瞳には、驚きと戸惑いと、そして言葉にできない不安が浮かんでいた。
その隣では、レティシアもは心配そうにフィーネの肩に手を添えている。
ミッツーは立ち上がると、慌てて言葉を続けようとはしなかった。
代わりに、そっとフィーネの肩に手を置く。
「フィーネ。まずは深呼吸だ」
その声を聞いた瞬間、フィーネの震えていた肩が少しだけ落ち着いた。
「……うん」
小さく頷く。
だが、その瞳にはまだ涙がにじんでいた。
ミッツーは優しく微笑む。
「大丈夫。ゆっくりでいい。思い出したことを、最初から話してみるんだ」
フィーネはこくりと頷いた。
近くの椅子に腰を下ろし、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
レティシアもその隣に座り、黙って見守った。
窓辺では、セレーナ・テラスの潮風がカーテンを揺らしている。遠くから、かすかに海鳥の鳴き声が聞こえた。
フィーネは目を閉じた。
そして、ゆっくりと語り始める。
⸻
「昨日の夢……ううん、多分、夢じゃなかった」
声はかすかに震えていた。
「草原を歩いてたの。私の右と左には、大人のうさぎ型獣人の男の人と女の人がいて……」
「お父さんとお母さん、だと思うの?」
レティシアがそっと尋ねる。
フィーネは頷いた。
「うん。二人とも、すごく優しくて……私、ずっと笑ってた」
その言葉を口にした瞬間、フィーネの表情が少し柔らかくなった。
「馬車に乗って旅をしたことも思い出した。宿で三人で並んで寝たことも……」
ミッツーは黙って聞いている。
一言も挟まず、ただ真剣な眼差しでフィーネを見つめていた。
「それから……森に入ったの」
フィーネの声が小さくなる。
長いうさぎ耳が不安そうに下がった。
「父さん……」
その言葉に、ミッツーは優しく答える。
「あぁ、聞いてる」
フィーネは一度唇を噛み、続けた。
「そこで……お父さんが、私に言ったの」
青い瞳に涙が浮かぶ。
「『君の名前は、フィーネ・ラビッシュ。よく覚えておきなさい』って」
部屋の空気が静まり返った。
波の音だけが、遠くに聞こえている。
その一言は、幼い娘に向けられた最後の願いだったのかもしれない。
自分の名前を忘れないように。
いつか、家族へたどり着けるように。
生き延びるための、たったひとつの手がかりとして。
フィーネは自分の胸を押さえた。
「私……」
声が震える。
「私の名前を教えてくれたのは、本当にお父さんだったんだ……」
そこで言葉が途切れた。
真実が形を持ち始めた瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気にあふれ出す。
「本当に、家族がいたんだ……」
ぽろり、と涙がこぼれた。
「会えるかもしれないって、嬉しいのに……」
もう一粒。
「でも、もし……」
肩が震える。
「もし、何か悪いことが起きてたらって思うと……」
次の瞬間。
フィーネは立ち上がり、ミッツーに飛びついた。
「父さん……っ」
ぎゅっとしがみつく。
まるで七歳のあの日に戻ったように。
ミッツーは驚いた様子も見せず、その小さな身体をしっかり抱きとめた。
灰色の髪を優しく撫でる。
長いうさぎ耳の根元をそっと包むように手を添える。
「怖いよ……」
フィーネの声は幼い子どものようだった。
「知りたいのに……怖い……」
ミッツーは静かに微笑む。
「うん」
その一言には、すべてを受け止める温かさがあった。
そして、耳元で優しく囁く。
「大丈夫だ」
フィーネの背をゆっくり撫でる。
「父さんがついている」
その言葉を聞いた瞬間。
フィーネの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
けれどそれは、不安の涙だけではなかった。
安心の涙だった。
今の自分には、帰る場所がある。
支えてくれる人がいる。
血のつながりを超えて、本当に大切な家族がいる。
「……うん」
フィーネはミッツーの胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
レティシアはその光景を見つめながら、胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。
フィーネの本当の家族を探す旅。
でも、その隣にはもう、確かな父がいる。
そのことが、とても尊く思えた。
レティシアはそっと目元をぬぐう。
「……本当に、素敵」
ミッツーとフィーネは少し照れたように笑った。
⸻
しばらくして、フィーネはようやく落ち着きを取り戻した。
鼻をすすりながら椅子に座り直す。
「えへへ……泣いちゃった」
「たくさん泣いたな」
ミッツーがハンカチを差し出す。
フィーネは受け取って目元を拭いた。
「ありがとう、父さん」
その笑顔には、もう先ほどまでの取り乱した様子はなかった。
ミッツーは机の上の地図を広げた。
「ここまでの話を整理すると、向かうべき場所は一つだ」
指先が、エルダール山脈の麓にある街を示す。
「エルディアース」
フィーネとレティシアは地図をのぞき込んだ。
「ここに行けば……」
フィーネが呟く。
「何かわかるかもしれない」
ミッツーが静かに頷いた。
レティシアは顔を上げる。
「私も行く!」
迷いのない声だった。
「フィーネのこと、最後まで一緒に見届けたい」
フィーネの青い瞳が揺れる。
嬉しさと、申し訳なさと、感謝。
さまざまな感情が入り混じった表情になる。
「レティシア……ありがとう」
そして、優しく微笑んだ。
「でも、レティシアにはレティシアの旅があるでしょ?」
「でも……」
「大丈夫」
フィーネはしっかりと言った。
「私には父さんがいる」
その言葉に、ミッツーは黙って頷く。
「それに」
フィーネはレティシアの手を握った。
「レティシアも、自分の旅を続けてほしい」
レティシアの目に涙がにじむ。
「……うん」
フィーネは笑う。
「また絶対に会えるよ」
「うん。絶対に」
二人は強く手を握り合った。
⸻
夕方。
宿の前で、レティシアと別れの挨拶を交わす。
潮風が優しく吹き抜けていく。
「気をつけてね」
「レティシアも」
「手紙、また書くから!」
「私も!」
そして二人はもう一度抱きしめ合った。
離れるとき、レティシアは涙をこらえながら笑う。
「フィーネなら、きっと大丈夫」
フィーネも頷く。
「うん!」
その隣でミッツーが穏やかに手を上げた。
「また会おう」
「はい!」
レティシアは何度も手を振りながら去っていく。
その姿が見えなくなるまで、フィーネはずっと手を振っていた。
⸻
夜。
旅支度を整えたあと、フィーネは窓の外を見つめた。
遠くには星が瞬いている。
「父さん」
「ん?」
「ちょっと怖いけど……」
フィーネは振り返り、まっすぐミッツーを見た。
青い瞳に、確かな光が宿っている。
「私、確かめたい」
ミッツーは優しく微笑んだ。
「そうだな」
フィーネは胸のロケットを握り、ルナの温もりを感じる。
「私の記憶を」
そして、力強く言った。
「フィーネ・ラビッシュとして」
長いうさぎ耳が、ぴんと立つ。
ミッツーは頷いた。
「行こう」
フィーネは大きく頷く。
「うん!」
こうして再び、父と娘の旅が始まる。
目指すは、エルダール山脈の麓の街――エルディアース。
失われた記憶の先にある真実を求めて。
そして、自分の名前に込められた意味を知るために。




