第19羽「夢か遥かな記憶か」
その夜。
潮の香りを含んだ風が、宿の窓をやさしく揺らしていた。
セレーナ・テラスの夜は、内陸の街とはどこか違っていた。遠くから聞こえる波の音が、静かな子守歌のように途切れることなく続いている。
フィーネはベッドの中で目を閉じていた。
昼間はレティシアとの再会を喜び、夕方にはカフェでたくさん笑い、夜には美味しい魚料理を食べた。
楽しい一日だった。
けれど、その奥ではずっと、胸のどこかが小さく揺れていた。
ラビーシャ。
追放者たち。
結界に守られた街。
そして、自分の名字――ラビッシュ。
父さんの推理は、きっと何かに近づいている。
でも、その先にある真実は、まだ見えない。
フィーネは布団の中でロケットペンダントを握りしめた。
中には、ルナの写真が入っている。
「……おやすみ、ルナ」
小さく呟き、目を閉じる。
波の音が遠くなり、意識はゆっくりと眠りの中へ溶けていった。
⸻
気がつくと、やわらかな光の中に立っていた。
空気は澄み、草の匂いがする。
聞こえてくるのは、たくさんの笑い声。
フィーネは辺りを見回した。
そこには、見渡す限りの兎型獣人たちがいた。
長い耳を揺らしながら行き交う人々。
露店には果物やパンが並び、子どもたちが駆け回っている。
誰もが穏やかな表情をしていた。
どこか懐かしい。
初めて見るはずなのに、胸の奥がきゅっと温かくなる。
「フィーネ」
優しい声がした。
右を見る。
背の高い男性が微笑んでいた。
柔らかな灰色の髪。
長い耳。
青い瞳。
自分とよく似た顔立ち。
左を見る。
美しい女性が、優しく目を細めている。
白に近い銀色の髪。
穏やかな笑顔。
フィーネは二人と手をつないでいた。
小さな、小さな自分の手。
七歳よりも、もっと幼い。
「お父さん……?」
そう思った瞬間、不思議と胸が温かくなった。
「お母さん……?」
言葉にしなくても、心が知っていた。
二人はフィーネを見下ろし、優しく微笑んでいる。
それだけで、世界のすべてが安心に満ちていた。
⸻
場面が変わる。
馬車の中。
小さなフィーネは父の膝の上に座っている。
窓の外には森と山の景色。
馬車が揺れるたびに、身体がふわふわと上下する。
「きゃっ」
笑うと、母もくすりと笑った。
「楽しいかい?」
父の声。
「うん!」
「もうすぐ着くよ」
どこへ向かっているのかはわからない。
けれど、父と母が隣にいる。
それだけで、何も怖くなかった。
⸻
また景色が変わる。
宿の部屋。
ベッドの上に、父と母と自分。
三人で並んで横になっている。
父の腕が優しく頭を撫でる。
母のぬくもりがすぐそばにある。
「おやすみ、フィーネ」
「おやすみなさい」
小さな自分がそう答える。
そして安心しきったように目を閉じる。
フィーネの胸に、言いようのない懐かしさが広がった。
そうだ。
こんなふうに眠ったことがある。
確かにあった。
夢のはずなのに、胸の奥が熱くなる。
⸻
最後の景色。
深い森の中。
木漏れ日が揺れている。
父と手をつないで歩いていた。
小さなフィーネは楽しそうに足元の花を見ている。
ふと、父が立ち止まった。
そしてしゃがみ込み、真剣な眼差しでフィーネを見つめた。
「フィーネ」
その声は優しかった。
だが、どこか切迫した響きもあった。
「大事なことを教えるよ」
小さなフィーネは首を傾げる。
父は胸に手を当て、静かに言った。
「君の名前は、フィーネ・ラビッシュ」
その言葉が、森の中に澄んで響く。
父はフィーネの両肩に手を置いた。
「よく覚えておきなさい」
その瞳には、強い想いが込められていた。
悲しみ。
愛情。
祈り。
何かを託すような、切実な眼差し。
「何があっても……」
そこで景色が揺らいだ。
木漏れ日が白い光に溶けていく。
父の姿が遠ざかる。
「待って!」
フィーネは手を伸ばした。
「お父さん!」
⸻
はっと目を開けた。
薄暗い天井。
潮の香り。
遠くの波音。
セレーナ・テラスの宿の部屋だった。
フィーネはしばらく身じろぎもせず、天井を見つめていた。
胸が早鐘のように鳴っている。
「……夢?」
そう呟く。
けれど、胸の奥に残る感触はあまりにも鮮明だった。
手をつないだ温もり。
父の声。
母の笑顔。
自分の名前を呼ぶ声。
夢にしては、あまりにもリアルだった。
「……」
布団の中でロケットペンダントを握る。
「夢……なのかな」
答えは出ない。
窓の外が少しずつ明るくなっていく。
夜明けの光とともに、夢の輪郭は少しずつ薄れていった。
けれど、最後の言葉だけは胸の中に残っていた。
――フィーネ・ラビッシュ。
――よく覚えておきなさい。
⸻
朝食の後、レティシアが笑顔で言った。
「今日は海辺を案内するね」
「ほんと!?」
フィーネの耳がぴんと立つ。
「行く!」
ミッツーは机の上に紙を広げていすた。
「俺は少し考えを整理しておく」
昨夜の推理を、きちんと書き留めておきたいのだろう。
フィーネは少し名残惜しそうにしたが、すぐに笑顔になった。
「じゃあ行ってくるね!」
「ああ。気をつけて」
⸻
海沿いの道は、朝の光にきらきらと輝いていた。
潮風が心地よく吹き抜ける。
白い帆船。
飛び交うカモメ。
露店から漂う焼き魚の香り。
「海って、本当にきれいだね」
「でしょ?」
フィーネとレティシアは手をつなぎながら歩いた。
昨日の余韻のまま、二人とも楽しそうに笑っている。
「この街、好き!」
「私も大好き」
その時だった。
フィーネの足がふいに止まる。
少し先を、兎型獣人の親子が歩いていた。
父と母に手を引かれた、小さな男の子。
楽しそうにぴょんぴょん跳ねている。
その光景を見た瞬間――
胸の奥で何かが弾けた。
「あっ……!」
昨夜の夢。
いや、あれは。
父と母の手。
笑い声。
温もり。
名前を教えてくれたあの森。
すべてが一気に鮮明によみがえる。
フィーネの瞳が大きく見開かれる。
「夢じゃない……」
レティシアが驚いて振り向いた。
「フィーネ?」
フィーネは震える声で言った。
「夢じゃないかも……!」
そして、レティシアの手をぎゅっと握る。
「父さんのところに行こう!」
「う、うん!」
二人は石畳の道を全力で駆け出した。
潮風を切って。
胸の鼓動を響かせながら。
真実に、また一歩近づくために。
⸻
宿の階段を駆け上がり、フィーネは勢いよく扉を開けた。
「父さん!」
机に向かっていたミッツーが顔を上げる。
「どうした?」
フィーネは息を切らしながら叫ぶ。
「思い出したの!」
青い瞳が震えている。
涙が今にもこぼれそうだった。
「お父さんとお母さんと、一緒にいたの!」
ミッツーの表情が変わる。
フィーネは昨夜の夢のことを、途切れ途切れに、しかし懸命に語った。
両親と手をつないだこと。
馬車の旅。
三人で眠ったこと。
森で名字を教えられたこと。
「……『よく覚えておきなさい』って」
最後まで聞き終えたミッツーは、ゆっくりと立ち上がった。
真剣な眼差しでフィーネを見つめる。
そして静かに言った。
「それが、閉じ込められていた記憶だとすると……」
その先の言葉を、誰もまだ知らない。
けれど確かなことが一つある。
フィーネの失われた過去は、ついに自らの声で語り始められたのだった。




