第12羽「父さんの目に映る景色」
夜更けの宿は静かだった。
窓の外では、街灯の明かりが石畳を淡く照らし、遠くで馬車の車輪の音がかすかに響いている。
ベッドの向こうでは、フィーネがすやすやと眠っていた。
灰色の髪が枕の上にふわりと広がり、長いうさぎ耳が片方だけ毛布の外に出ている。
胸元には、銀色のロケットペンダント。
小さな月と星の模様が、月明かりを受けて静かに光っていた。
十年前、森の中で見つけた小さな少女。
あの時は、こんな日が来るとは思ってもみなかった。
ミッツーは椅子に腰掛け、温かいお茶をひとくち飲んだ。
そして、眠るフィーネを見つめながら、静かに目を閉じる。
⸻
あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
まだ駆け出しの冒険者だった頃。
剣の腕も半人前。
治癒魔法も、かすり傷をふさげる程度。
依頼の帰りに立ち寄った森の中で、すすり泣く声を聞いた。
草むらの奥で、小さな獣人の女の子が膝を抱えて震えていた。
灰色の髪。
泥だらけの服。
擦り傷だらけの足。
そして、大きな青い瞳。
泣き腫らしたその目で、俺を見上げていた。
「家族と……はぐれちゃったの……」
その声は、今にも消えそうなくらい弱々しかった。
俺はその時、何を考えたんだったか。
きっと、大したことは考えていなかった。
放っておけなかった。
ただ、それだけだ。
「よし。じゃあ、一緒に探そう」
そう言った瞬間の、あの子の顔。
涙で濡れていたはずなのに、太陽みたいにぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
あの笑顔を見た瞬間、もう後戻りはできなかった。
⸻
最初の頃は、本当に必死だった。
フィーネはまだ七歳。
小さくて、軽くて、よく転び、夜になると時々家族を思い出して泣いた。
そのたびに頭を撫でて、眠るまでそばにいた。
そして、ようやく寝息が聞こえると、俺は宿の裏庭に出た。
木剣を振る。
汗だくになるまで振る。
魔法書を読む。
わからないところを何度も読み返す。
治癒魔法の精度を上げる。
防御魔法を覚える。
もっと強くならなければ。
もっと稼げるようにならなければ。
この子を守らなければ。
その一心だった。
⸻
思い出はいくらでもある。
初めて剣を持った日のこと。
木剣を両手で持ちながら、
「重い……」
とふらついていた。
それでも負けず嫌いで、何度転んでも立ち上がった。
初めて火の魔法が成功した日。
指先に灯った小さな火を見て、
「できた!」
と飛び跳ねた。
耳までぴんと立っていた。
初めてリンゴを丸かじりした日。
あまりのおいしさに、
「世界で一番おいしい!」
と叫んでいた。
たぶん今でもそう思っている。
十歳の朝、初めて「父さん」と呼ばれた日のことも忘れられない。
驚いたが、あの時のフィーネの不安そうな顔を見て、理由を聞く気にはなれなかった。
あの呼び名が、どれだけこの子の支えになっていたのか。
今ならよくわかる。
⸻
気づけば、フィーネは十七歳になっていた。
身長も伸びた。
剣の腕も立つ。
魔法も使いこなす。
上級クエストでも堂々と戦える。
この前のストームグリフォン戦。
あの時、俺は確かに反応が遅れた。
昔なら避けられた一撃だったかもしれない。
身体は正直だ。
経験は増えても、時間は止まらない。
ピークを過ぎたことを認めないわけにはいかなかった。
だが、その直後。
俺の前に立ったフィーネの背中。
「今度は、私が守る番!」
そう叫んだ声。
雷をまとった剣。
真っ直ぐな眼差し。
あの時の姿は、今でも胸に焼き付いている。
誇らしかった。
本当に。
誇らしかった。
⸻
もう、フィーネは一人でも旅ができる。
剣もある。
魔法もある。
人を見る目も育った。
レティシアのような友達もできた。
困った時に助けてくれる人だって、少しずつ増えている。
俺がいなくても。
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
それは、願っていたはずの未来だ。
それなのに。
その光景を想像すると、どうしようもなく寂しい。
朝、隣で眠そうに目をこすりながら、
「おはよう、父さん」
と言う声。
宿選びで温泉を主張する姿。
リンゴを見つけて飛び跳ねる耳。
新しい景色を見て、子どものようにはしゃぐ笑顔。
そして毎日のように聞く、あの言葉。
「父さん、次はどこ行く?」
それがなくなる日が来るのかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥が静かに沈む。
⸻
そして、もう一つの問題。
フィーネの家族探しだ。
正直に言えば、ここまで難航するとは思っていなかった。
森で家族とはぐれた。
最初は、それだけのことだと思っていた。
ならば向こうも必死で探しているはずだ。
どこかの街で、情報がつながると思っていた。
だが、十年。
余りにも長い。しかも、
手がかりはほとんどなかった。
ラビッシュという姓も、浮遊島まで一度も耳にしなかった。
これは、どう考えてもおかしい。
あの紋章。
あの古代都市。
伝承に歌われる耳長き王。
もしラビッシュが王家、あるいはそれに連なる一族なら。
フィーネはただの迷子ではない。
何か別の事情がある。
家族は本当に探していたのか。
あるいは、探せなかったのか。
もしかすると――。
そこまで考えたところで、ミッツーは首を振った。
憶測だけで結論を出すべきではない。
だが、何か大きな事情が隠されているのは間違いない。
⸻
フィーネが寝返りを打った。
「……父さん」
寝言だった。
思わず、ミッツーの口元に笑みが浮かぶ。
椅子から立ち上がり、ベッドのそばへ行く。
毛布を肩までそっとかけ直し、耳を潰さないように整える。
昔から変わらない、いつもの仕草。
額にかかる髪を優しく払う。
青い瞳は閉じていても、あの日森で見た小さな少女の面影が残っている。
この子の本当の家族を見つけてやりたい。
それは、今でも変わらない。
けれど。
旅の終わりが来ることを、心のどこかで恐れている自分もいる。
それでも。
この子の幸せを願う気持ちだけは、何よりも確かだ。
「……どんな答えが待っていても」
小さく呟く。
「最後まで、一緒に行く」
フィーネは安心したように、小さく笑った。
⸻
窓の外には、静かな月が浮かんでいた。
十年前、たった一人で泣いていた少女。
今では多くの思い出を抱え、仲間を増やし、強く優しい冒険者へと成長した。
その姿を、ずっと隣で見てきた。
それが何よりの宝物だ。
たとえいつか、この旅が終わったとしても。
この十年間が消えることはない。
出会った日も。
「父さん」と呼ばれた朝も。
笑った日も、泣いた日も。
すべてが、かけがえのない時間だ。
ミッツーはもう一度、眠るフィーネを見つめた。
そして静かに灯りを消す。
明日になれば、また旅が続く。
答えを探して。
まだ見ぬ景色を求めて。
この笑顔、この声とともに。
「…父さん、次はどこ…行く?ムニャ…」




