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木目に染みた時間


ヤスオは言葉を探すふりをして、カップに視線を落とした。

コーヒーはまだ運ばれてきていない。

注文した記憶も、していない気がした。

「……ねえ」

イシコが、初めて問いかけるような調子で言った。

「私たちの思い出って、今いくつあると思う?」

唐突だった。

数えたことなどない。

「いくつって……」

「楽しかったことも、そうじゃなかったことも含めて」

ヤスオは曖昧に笑った。


「全部で一個じゃない? “付き合ってた”っていう」

その答えが気に入らなかったのか、イシコは小さく首を振った。

「違うわ。思い出は一個ずつ、全部別物よ」

彼女はテーブルの上に指を置き、見えない何かを並べるような仕草をした。

「嬉しかった日。腹が立った日。安心した日。疑った日」

最後の言葉だけ、少しだけ強く置かれた。

「それらを、ちゃんと整理しないといけないと思わない?」

ヤスオは返事をする前に、気配を感じた。

背後から、足音が近づいてくる。

音は静かだが、迷いがなかった。

給仕の男が二人、同時にテーブルの横に立った。

古風な制服だった。

フランソア喫茶室の雰囲気には合っているはずなのに、なぜか新品のように見えた。


「ご注文をお持ちしました」

そう言って置かれたのは、ヤスオが頼んだ覚えのない飲み物だった。

ココアと、コーラ。

「……頼んでないですけど」

男は表情を変えない。

「相殺用です」

一瞬、意味が分からなかった。

「なに用?」

「思い出の相殺用でございます」

隣の男が、淡々と続ける。


「当店では、ご関係が整理段階に入られたお客様に限り、特別なご提案をしております」

ヤスオはイシコを見た。

イシコは、すでにココアに手を伸ばしていた。

「前世のしがらみがある方は、特に」

「……前世?」

男たちは、その言葉を説明しなかった。

「相殺とは、差し引きゼロにすることです」

「良い思い出と、悪い思い出を」

「美しい記憶と、不要な記憶を」

二人は、交互に話した。

まるで一つの文章を分け合っているようだった。

「不要って……誰が決めるんですか」

ヤスオが言うと、男たちは同時にイシコを見た。

「ご本人です」

イシコは頷いた。


「私は、汚れた思い出を持ちたくないだけ」

「汚れてるって……」

「疑った時点で、もう汚れているわ」

その論理は、きれいすぎた。

反論しようとすると、自分のほうが不潔に見えてしまう。

「だから、きれいなところだけ残すの」

「一番きれいなところで、止める」

給仕の男の一人が、テーブルの下から奇妙なものを取り出した。

金属と布でできた、軽そうな器具だった。

「こちらを、少しだけお借りします」

「なにそれ……」

「冠のようなものです」

イシコは、ためらいなくそれを受け取った。

「ちょっと待ってよ」

ヤスオは立ち上がりかけたが、足が動かなかった。

なぜか、ここで大きな声を出してはいけない気がした。

「大丈夫よ」

イシコは穏やかに言った。


「あなたが無実なら、何も失わない」

その言葉は、安心させるためのものだった。

だが同時に、逃げ道を塞ぐ言葉でもあった。

店の隅で、本を読んでいた客が、ゆっくりとページを閉じた。

その仕草だけが、やけに丁寧だった。

ヤスオは、自分たちの別れ話が、いつの間にか

「手続き」に変わっていることに気づいた。

そして、ここから先は、

自分の言葉があまり役に立たなくなる予感だけが、はっきりとあった。


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