別れ話に、席は足りている
フランソア喫茶室の扉は、見た目よりずっと重かった。
押した瞬間、四条河原町のざわめきが背後で切断される。音が消えるというより、置き去りにされた感覚だった。
白いドーム状の天井。
ステンドグラスを通した光が、店内をやわらかく分断する。
古い喫茶店にありがちな匂い――コーヒーと、長く使われてきた布、そして説明しきれない時間の匂いが混じっていた。
ヤスオは一瞬だけ、ここが「話を終わらせる場所」として選ばれた理由を考えた。答えは出なかった。
すでにイシコは席についていた。
姿勢がよく、鞄は椅子の横にきちんと置かれている。カップにはまだ口をつけていない。
「今までどうもありがとう」
挨拶としては正しい。ただ、早すぎる気がした。
「素敵な思い出となった時、素敵な思い出とします」
言葉は丁寧だったが、決定事項のように響く。願望でも予感でもなく、断定――まるで、彼の未来まで決めているかのようだった。
ヤスオの胸に、小さな違和感が生まれる。
嫌な予感というほどではない。だが、踏み外した段差の上に立っているような、奇妙な感覚だった。
「……なんか、引っかかるな」
イシコは反応せず、冷たい眼差しを彼に向けたまま微動だにしない。
「だってさ、素敵な思い出になるって分かってるなら、今が幸せって言ってるみたいなもんじゃない?」
自分で言いながら、理屈っぽいと思った。
こういう言い方をすると、話がこじれることも知っていた。
沈黙が落ちる。
「もうちょい、ポップに話そっか」
場を軽くするつもりで言った。
ヤスオ自身、なぜここで軽さを持ち出したのか分からなかった。
「なんでもさ、その時だけに執着せず、相対的に考えたほうがいいよ。過去の二人の思い出を、全体的に見て……相殺していこうよ」
「浮気した人が、別れ際の雰囲気をコントロールしようとしないで」
イシコの声が、ヤスオの言葉に重なった。
感情がないわけではない。ただ、整理されすぎている。
「いやいや、浮気してないって」
「この目で見たから」
断定だった。疑いではなく、報告に近い。
ヤスオは息を吸い、頭の中であの日の光景を正確に再生しようとした。
「京都観光してただけだよ」
「……ヤスオ、出身地は?」
「京都」
「高校は?」
「堀川高校だけど、大学は同志社に二年間通って、その後大阪の大学に編入したよ」
イシコは一拍置き、まるでその情報を精査するかのように、じっと彼を見つめた。
「だから?」
声は静かだったが、論理は鋭かった。
「自分の生活圏で、道に迷う観光客を案内することってある?」
ヤスオは言葉を探した。
「道に迷ったとは言ったけど親戚だよ。親戚が来ててさ」
「親戚?言った?」
「言ってないけど、観光客とも言ってない」
イシコは、彼の目をまっすぐに見つめたまま瞬きもしない。
「楽しそうだった」
「……え?」
「女の人と、楽しそうに歩いてた」
ヤスオは、その言葉の中身よりも、「楽しそうだった」という評価に戸惑った。
楽しそうかどうかは、見る人が決めるものだからだ。
店内の隅、いつからそこにいたのか分からない客が、本をめくる音を立てた。
紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
まるで空気に溶けず、独立して存在しているかのようだった。
ヤスオは、うまく説明できていないことだけは理解していた。
そして、この場で必要とされる説明が、事実ではなく「納得」なのだということも。
だが、その納得の形が、どうしても見えなかった。
イシコの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
その笑みは、優しさのものではない。
——まるで、彼を永遠に一途なまま閉じ込めるための、静かな宣告のようだった。




