第98話 星を撃つ男
ルザリオからはるか北方に位置する冷涼な国
——オルディア。
その首都の中心に、
そびえ立つ白亜の巨塔こそ、《ルクスの塔》。
正式には、高位魔術具開発局本庁舎と呼ばれる、
国の頭脳である。
世界中から集った魔術師たちが、
その内部で日夜、
新たな魔術具を生み落としている。
塔の中でも。
研究者たちが最も近づきたがり、
最も恐れる場所がある。
最上階に位置する、
トップマイスター、
ラゼル=ネイムの研究室だ。
そこは研究室というより、
趣味の悪い宝物庫だった。
古代の魔術具。
封印された巻物。
宝石のような魔晶。
それらが無造作に積まれ、
壁際には書類の塔が傾いている。
奥の壁には、
静かな雪の夜と淡い星明りを描いた古いタペストリーが、
不自然なほど丁寧に掛けられていた。
それが星域ネビュリスにある
ラゼル=ネイムの工房へ通じる扉だと、
知る者はほとんどいない。
――ツィグナトでさえ、まだ知らない。
その部屋の中央。
床に置かれた転移陣の前で、
ラゼル=ネイムは胡坐をかいて座り込んでいた。
「…………」
術式は完璧のはずだった。
なにせ、あのツィグナトの陣である。
光は安定し、揺らぎもない。
それなのに。
――来ない。
ラゼルは、ゆっくりと首を傾げた。
「……あれ?」
間抜けた声が漏れる。
「おっかしいなぁ。
ちゃんと起動したのに」
陣の縁を指先でつつく。
「エリセちゃーん?」
変化はない。
沈黙が長引くにつれ、
ラゼルの顔色がゆっくりと青ざめていった。
「え、待って」
彼は立ち上がり、室内を歩き回る。
「いや、待って待って待って。
これ、間違いなくナトの陣だよね?
前に貰ったやつだよね?
ルクスの支給品じゃない……うん、それは確かだ」
言葉が止まる。
――失敗するわけがない。
つまり。
「失敗じゃない」
ラゼルは唇を噛んだ。
「じゃあ、どこ行ったんだ?」
胸の奥が冷えていく。
ラゼルは両手で頭を抱えた。
「いや、嘘だろ。
事故が起きる要素なんてどこにもなかったじゃないか。
転移陣は移動時間省いてあげただけで」
早口になっていく。
「解呪の礼にルクスで正規雇用してあげようって、
便宜を計っただけなのに」
そして。
急に顔を上げた。
(転移中の事故を彼女本人が解決とか、
100%無理だろ……)
「……そうだ、ナトに相談!」
部屋の隅に置いてあった小さな籠へ駆け寄る。
「カンカン!!」
籠の中から、もふりと丸い耳が現れた。
小さな前脚を縁にかけ、
使い魔のカンガルー“カンカン”が眠たげに顔を出す。
「……ん″?」
「ん″?じゃないよ!
お願い、ナトを探して!!
今すぐ連れてきて!!」
必死に両手を合わせると、
カンカンは一度だけ首を傾げ、ぴょんと床へ降りた。
次の瞬間。
空間が柔らかく折れ曲がり、カンカンの姿は消える。
「よし……!」
ラゼルは再び転移陣の前に戻るが、
落ち着かず室内を歩き回る。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
だが同時に、ナトが激怒する未来も容易に想像できた。
「いや、怒るよね。
めちゃくちゃ怒るよね。
でも僕、最初から言ってたし。
気に入ったからエリセをオルディアに呼ぶって」
言い訳を口にした瞬間、
背骨の奥がひやりと冷える。
嫌な予感は経験則だ。
前も部屋が死んだ。
ラゼルは机上の資料や触媒、
設計図を慌ただしくかき集め始めた。
インク壺に星図板。
あれもこれも奥のタペストリーへ手早く押し込む。
もちろん、壊されて困るものから先にだ。
「おっと、ノートも……」
そのときだった。
背後の転移陣が、低く唸る。
空気が、裏返った。
「え?」
わずかに遅れて、絶叫が響く。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!!」
「待って、エリセじゃない!?」
しゅぽんっ。
しゅぽんっ!!
爆ぜる光とともに、
まずネクレオスが吐き出された。
彼は床を転がり、その勢いのままゴミ箱を掴む。
「おぇええええええ……」
続いて、白蛇が飛び出した。
白光を引きながら人型へと転じ、
音もなく着地する。
そして。
振り返りきっていないラゼルの背へ、
ためらいなく蹴りを叩き込んだ。
衝撃が肩甲骨のあいだを貫く。
ラゼルの身体は前方へ弾き飛ばされ、
胸から石床へ叩きつけられた。
肺から空気が押し出され、
視界が白む。
「小僧……」
低く濁った声が落ちる。
「小娘は何処ぞ?」
頬を床に押しつけたまま、
ラゼルは荒い息を吐いた。
背中がじくじくと痛む。
だが。
彼は肘を突き、ゆっくりと上体を起こす。
「……いきなり蹴るとか、随分乱暴だな」
そのとき。
天井が歪んだ。
梁が塗り潰され、漆黒が滲み出す。
無数の星が浮かび上がり、
研究室は夜に侵食された。
空気が沈む。
音が遠のく。
「……へえ」
セラフィスが、星空の下に立っていた。
神圧が静かに降りる。
嵐ではない。
ただ、重く確実に落ちてくる。
「……貴様のせいで、貴重なシムルグを失った」
空間が震える。
「速やかに白状すれば痛みは短くしてやろう。
だが黙るというなら――」
ラゼルは、ゆっくりと立ち上がった。
背骨が軋む。
だが笑う。
「白状って、何を?」
その軽さが、空気をわずかに凍らせる。
「貴様が背負うその座ごと、地に堕としてやろう。
——造星の徒よ。
己の星に焼かれる覚悟はあるか」
「僕の星は、簡単には燃えないよ」
その一言で。
均衡が切れた。
セラフィスの唇がわずかに開く。
「天に連なる星火よ。
その主を裁き、座ごと灼き落とせ」
星がひとつ、
ぼろりと崩れ落ちた。
砂のように光が散る。
同時に、ラゼルの胸元へ細い亀裂が走る。
傷ではない。
皮膚の下で星光が暴れ、脈動している。
熱が逆流する。
己の星が
己を灼いていた。
指先が白く発光し、
意思に関係なく震えている。
「……直結か、深いな」
それでも彼は笑う。
「——予備が、あるんだよね」
ラゼルは息を吐き、
白煙の立つ指で腰の機杖を抜いた。
細身の銃身に刻まれた星図が淡く点灯する。
「仮星、装填」
引き金を引いた瞬間、
肩口まで亀裂が大きく裂け、
光が噴き出した。
だが弾丸は夜空へ走り、
崩れた星座の空隙に撃ち込まれる。
歪な灯がはまり込み、
暴走がわずかに鎮まった。
セラフィスがそれを見下ろす。
「星を撃つか」
その声に、冷えが宿る。
「堕ちたものよ」
「僕は造星の徒だからね」
夜空がわずかに暗転する。
「星を壊すなんて、
神様にでもなったつもり?」
軽い声で言う。
「随分乱暴な……
あ、セラフィス暴神だっけ」
唇がわずかに歪む。
次の瞬間。
神圧が落ちた。
頭上から見えない塊が
叩きつけられたように、
床が沈む。
膝に衝撃が走る。
支えきれず、
片膝が石床へ落ちた。
圧は、ただ重い。
純粋な質量。
押し潰すだけの力。
胸元の亀裂が脈打ち、星火が暴れる。
「っ……!」
だが、まだ折れてはいない。
まだ、抗える。
空間が震え、何かが弾けた。
肩口をかすめ、紙片が舞う。
(……本?)
視界は星空。
だが肩に触れたのは、紙の感触。
遅れて、理解する。
(侵食されているのは
視界と感覚の上層だけだ。
位相は動いていない。
ここは僕の研究室のまま)
神域の投影。
実体ではない。
ならば。
ラゼルは歯を食いしばり、
震える手を横へ伸ばす。
星空の下には棚など見えない。
だが指先が触れたのは、
見慣れた木材の縁だった。
手探りで、引き寄せる。
冷たい金属。
(あった)
セラフィスが眉を寄せる。
「抗わず、跪け、造星」
言葉が落ちる。
今度は重さではない。
世界の理が、静かに傾いた。
世界が告げる。
“お前は立つ存在ではない”と。
膝ではなく、
存在の支柱が抜かれる。
骨が鳴り、
両脚の力が消え、
両膝が石床に叩きつけられた。
鈍い音が響く。
荒い息が漏れる。
視界の星が二つ、揺らいだ。
それでも。
ラゼルは笑う。
「まったく……
僕の研究室で、
僕に勝てると思うなんて。」
円環を、床へ放った。
星空を滑るように見えたそれは、
実際には研究室の石床を転がっている。
セラフィスの足元で跳ね、弾けた。
六条の銀が奔る。
四肢と唇へ絡みつき、術式が噛み合う。
神力が逆流する。
一瞬、
セラフィスの瞳が揺れた。
拘束が固定された途端、夜空に亀裂が入る。
星々が砂となり、梁が戻る。
天井が再構築され、結晶灯が明滅する。
侵食が剥がれ落ちた。
残ったのは、ひび割れた水晶と、
膝をついたまま息を整えるラゼル。
そして。
拘束された暴神。
そこは、見慣れたラゼルの研究室だった。
支配権が、戻ったのだ。




