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第97話 またオレか

ツィグナトは再度、

床を指先で撫でるように

術式を書いた。


魔力が走り、

床に無数の幾何学模様が咲いては——

瞬きの間に、消える。


霜が追いすがり、

痕跡を固定しようと伸びる。

けれど光はするりと逃げ、

何ひとつ残さず消えていった。


ツィグナトは顔を上げないまま、

ただ床を見つめ続ける。


「術式の証跡が……滑っていてな」


ネクレオスの背筋に冷たいものが走った。


(お前が掴めんって……どないなってんねん)


残っていない、ではない。

残らないように、最初から作られている。


(どこの化け物がそんなん組むねん……)


ネクレオスは唾を飲み込んだ。


ツィグナトが拳を握った。


その瞬間、

室温がさらに落ちる。


空気が硬くなり、

吐いた息が霧ではなく

細かな氷になった。


ネクレオスは反射的に身を縮める。


(やめてくれ、オレまで冬眠してまう)


そして、そこで。


ネクレオスの脳裏に、

ふっと引っかかるものが浮かんだ。


——白い紙。


(……あ)


ネクレオスは、

そっと凍りつきかけた紙を差し出した。


パリ、と音がする。


「……これ」


ツィグナトが

紙へ視線を落とした。


『退職届』


宛先、術式技術規正機構。

署名欄には、エリセの名。


——震えひとつない彼女の筆跡。


ツィグナトは

それを一瞥しただけだった。


たった一瞥。

それで十分だった。


文字の黒が、黒ではない。


煤のような温い黒ではなく、

僅かに青を含んだ冷たい墨色。


光の角度で、

樹脂のような鈍い艶が滲む。


「……寒冷地用のインク、か」


そして、わずかだが

紙に沁みつく乾いた匂いは——


油と鉄と研磨粉。


空気が、ひとつ深く沈んだ。


まるで空間そのものが

息を止めたように、

ツィグナトの眉がわずかに下がる。


怒りではなく、


確信の形。


「……ラゼル=ネイム」


吐き捨てるように言った声は、

氷より冷たい。


ネクレオスは、

そっと目線を紙へ落とした。


(え、……これヤバい?)


紙から視線を外し、

床の氷へ目を戻す。


そこに術式の残滓は、

ひとつもない。


一瞬だけ目を伏せて、

静かに言った。


「……俺の術式だろうな」


わずかに、口角が動く。


ネクレオスは

思わず舌打ちしそうになる。


(……お前、自分でかけた鍵さえ気付けんって

完璧主義も大概にせぇ)


追えるわけがない。


こいつが作った、


“追わせない”ための術だ。


鍵穴は当然不可視。

足跡は深く沈み、もはや星屑の底に紛れる。


——追えない。


いや、追えなくて当然だ。


床に術式を上書きしながら、低く呟く。


「遊びで……追跡不能を追及したからな。

乗り心地は最悪だろうな。」


一拍置いて、低く付け足す。


「……本来は、使用者を選ぶ。」


ネクレオスの手の中で

白蛇の尾が、ぴくりと揺れた。


(あー、

前に術式はぎ取られたって言うてたん、――これか。

あの技術屋と、また妙なもん……二人で組んで)



胸の奥が、少しだけざらつく。


(魔術も扱えんくせに、理屈だけでここまで届くとか、

ほんま厄介やな)


(……ほんま、腹立つわ)


室内の空気が、また一段落ちた。


窓ガラスが、今度ははっきりと悲鳴を上げた。


ぺき、ぺき、と。


ネクレオスは思わず天井を見上げた。


(うわ、勘弁したって!

割れる、割れるって)


——この冷気は、誰に向けられている。


当然、ラゼルだ。



そう思った、その瞬間。


だが、


ツィグナトの目が

一瞬だけネクレオスへ向いた。


沈黙。


圧。


空気が重くなる。


ネクレオスは固まった。



(……え、オレ?)



ツィグナトは冷ややかに言い放つ。


「……最初から出せ」


(やっぱりオレにもキレてるやん!!)


ネクレオスの心臓がひゅっと縮み、

反射で白蛇を両手で押し出した。


盾のように。


(細いけど)



うとうとしていた白蛇は、

冷気の圧に震える鱗を光らせ、

眠りから突き落とされるように一気に目覚めた。


目が開き、体がぴんと張る瞬間、

小さな風が周囲を撫で、床の書類を淡く舞い上げる。


最前線で暴れ出す白蛇。


尾が空気を切るたび、氷の粒が舞い上がり、

白蛇の銀色の鱗に光を反射してキラキラと散った。

まるで星屑が瞬くように、冷たい光が床や壁に乱舞する。


その煌めきは、必死に食い止めるネクレオスの手元や、

焦りを隠せないセラフィスの瞳にも絶え間なく映り込み、

管理課の室内を、場違いなほど幻想的に染めた。



しかし、ネクレオスは決して離さない。


(あほ、離すわけないやろ。

今のオレの命綱や)


だがツィグナトの視線は

すぐに紙へ戻り、


怒りの矛先は

明確に紙の向こう側へ向いた。


「……悪ふざけが過ぎる」


声は静かだった。


静かすぎて、逆に危険だった。


ネクレオスは白蛇を抱きしめたまま、

身動きも出来ない。


(ラゼル……死ぬんちゃうか)


ツィグナトは退職届を二つに折り、

机へ置いた。


それから、床の氷へ

新たな術式を書き足す。


立ち上がる。


「よし、行け」


「どこに?」


答えはない。


ツィグナトは親指で床を指した。


エリセが消えた場所。


そこには、いつの間にか

穴が開いている。


底の見えない闇。


ネクレオスは目を細めた。


「行くわけないやん。

乗り心地最悪って言うたん、お前やろ」


魔晶灯が、

最後の抵抗みたいに瞬く。


割れたガラス片が霜をまとい、

白く光る。


動かないネクレオスに、

ツィグナトはかかとで床を鳴らした。


その瞬間。


穴が広がる。


ネクレオスとセラフィスが、

まとめて飲み込まれた。


なぜかツィグナトは落ちない。


「お前っ、どんだけ器用なんやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」


背中は怒りを帯びているのに、

術式だけは寸分違わない。


(……そこは崩れへんのかい)


冷気が裂ける。


視界が反転する。


落ちながら、ネクレオスは叫んだ。


「……お前、行かへんの!?」


ツィグナトは振り返らない。


淡々と術式を閉じながら、短く答えた。


「客が来た」


その瞬間。


彼の横の空間が、

ふにゃりと柔らかく歪む。


裂け目から、

もふっとした影が飛び出した。


丸い耳。

短い前脚。


ラゼル=ネイムの使い魔――カンガルーのカンカン。


「ん″!」


床に着地し、

きょとんとツィグナトを見上げる。


ツィグナトはわずかに視線を落とした。


「案内しろ」


カンカンがぴょんと跳ねる。


空間が、もう一度折れる。


その光景を、

落下しながらネクレオスは見た。




(……は?)


つまり。


自分たちは投げ落とされ、

ツィグナトは“招かれて”行く。


(……絶対そっちがえぇやん)


闇に呑まれながら、最後に思う。


(エリセ……無事でおれよ。

 ほんで、ラゼルは——南無)

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