第96話 冬眠する姫と秒殺の魔術師。そして逃げ遅れた苦労性(慢性)
第96話
笑い声。
甘い気配。
そして、消えたエリセ。
——どう考えても緊急事態だった。
(……これはアカン)
黒蛇はぽふん、と黒いくせ毛の少年へ姿を変えた。
室内を一瞥し、ネクレオスは右腕の腕輪
——深淵転写の環へ指を滑らせる。
「……触んな」
ネクレオスの宣言に腕輪から紫黒の光が走り、
室内の影が濃くなる。
境界が沈み、空気が重く落ちた。
まるで、この一室だけが深い水底へ沈められたように。
壁も床も天井も、外界と断たれる。
ここはもう、誰にも触れさせない。
(今すぐナトに知らせな——)
セラフィスが袖の奥から、
灰色がかった一本の羽を取り出した。
光を吸うような色。煤の匂いがする。
ネクレオスが目を細める。
「……それ、まさか」
「まさかも何もあるか。呼ぶぞ」
セラフィスは羽を床へ落とした。
ネクレオスは躊躇なく、雷をほんの一滴だけ落とす。
ぱちっ。
火花が弾け、羽の先端が赤く燃え上がった。
燃え方が異様だった。炎というより、怒りが燃えている。
銀色の煙が渦を巻き、
その中心から、巨大な鳥影が立ち上がった。
燃えるような翼。
火ではなく、星屑を撒き散らす幻獣――シムルグ。
シムルグは一度だけ、虚空を睨んだ。
まるで“傷をつけた相手の匂い”を嗅ぎ当てるみたいに。
次の瞬間。
低い鳴き声が空気を裂き、骨の内側を震わせた。
乾いた翼音と灰の匂いだけを残して、
鳥影は空間の向こうへ飛び去った。
「……あれ、ナトが持っとる尾羽の気配を追ったんやろ」
ネクレオスがぼそりと呟く。
セラフィスは当然のように頷いた。
「奪われたものを追う。奪った者を殺す。
――それがあれの性よ。
……まあ、ナトなら殺されずに、
召喚された“ここ”の座標くらい掴み取るであろうがな」
「……便利やな。怖いくらいに」
「ふん。便利なものか。
あれは狂暴で執念深い……
呼び出すだけでも、正気の沙汰ではないわ 」
その言葉が終わるより早く、空気が変わった。
廊下の魔晶灯が一斉に揺らめき、光が細くなる。
壁の隙間から冷気が滲み、床に白い霜が走った。
次の瞬間。
――空間そのものが凍りついた。
ネクレオスは反射的に息を呑む。
(え、もう?)
冷気は「寒い」ではない。
「殺す」温度だ。
トン。
軽やかな音を立てて、男が降り立った。
まるで、階段を一段下りただけのように。
そして男の手には、羽の焦げた匂いに混じって――
無残に折れた鳥の死骸がぶら下がっていた。
ネクレオスの喉が引きつる。
「……瞬殺かよっ」
隣でセラフィスが、ほんのわずかに肩を強張らせた。
「……なぁ」
ネクレオスが声を落とす。
「あれ、希少種やろ……」
セラフィスは視線を逸らし、ぷる、と唇を震わせた。
「し、知らぬ。余は知らぬぞ」
ネクレオスは無言で、
セラフィスの小さな手をぎゅっと握った。
セラフィスも反射で握り返す。
(怖っ)
(生き残り数羽しかおらんのに……っ)
濃灰色の外套の裾が揺れるたび、空気が軋む。
彼が歩いた床には、氷の結晶が花のように咲いた。
ネクレオスは一瞬、目を細める。
(……不機嫌、やな)
当然だ。
エリセが消えたのだ。
ツィグナトが現れると室温がさらに落ちた。
紙の匂い。
薬品棚の金属臭。
そのすべてが冷気に押し潰され、乾いた氷の匂いへ変わる。
「ナト、エリセが——」
ツィグナトは返事をしない。
視線だけを机へ落とし、そのまま床へ膝をついた。
左手を床に添え、指先で何かを撫でるように滑らせる。
そこに霜が広がっていった。
まるで魔術陣の「残響」を、冷気で浮かび上がらせるように。
ネクレオスは机に、セラフィスは椅子に座り様子を見守る。
(……これ、部屋の機械とか魔術具、全部終わるやつちゃうか)
測定器の液晶が黒く沈み、
棚の奥でガラス瓶がきしむ音がした。
魔晶灯が、ぱち、と弱々しく瞬く。
次の瞬間。
パラパラ、と。
ガラスカバーが割れ、欠片が床へ落ちた。
(……あーあ)
ネクレオスは目を細める。
(エリセごめんな。これ、帰ってきたら絶対怒るやつやで)
ツィグナトは無言だった。
呼吸の音すら聞こえない。
瞬きすらしなかった。
ただ、床を撫で、霜を走らせ、
魔力の「痕跡」を拾い続ける。
——それが、三十分続いていた。
管理課は完全に別世界になっていた。
息を吸うたび、肺が痛い。
空気が冷えすぎて、音が遠い。
窓ガラスが、ぴし、と小さく鳴いた。
(耐えろ……頼むから耐えろ)
ネクレオスは祈った。
神に祈る?
オレが神やっちゅうねん。
ツィグナトはようやく顔を上げた。
その目は、暗く澄んでいた。
怒りが沈殿した湖みたいに、静かで深い。
「……術式が、ない」
ぽつりと呟いた声は低く、冷たかった。
ネクレオスは喉を鳴らす。
(オレの結界の中で、それが出来るんか……?)
ネクレオスは言い返そうとして、やめた。
寒さで舌が回らない。
それに、セラフィスは椅子の上で冬眠しかけている。
(いつの間にか蛇になっとるし)
「なぁ、ええ加減冷気引っこめてくれへん?
コイツ、冬眠してまう」
ツィグナトは返事をしない。
その沈黙が、いちばん怖い。
ネクレオスは眠る白蛇の尾を掴み、
小さく振り回しながら周囲を見回した。
棚の上の試薬瓶。
机の引き出しに入っている結晶化術符。
保全用の魔術具ケース。
どれも霜をまとい、すでに息絶えかけていた。
(……これ、室温マイナス五十度いったんちゃう?)
窓ガラスが、また鳴く。
ぺきり。
小さな悲鳴。
(やめてくれ。
割れたら後片付けするのオレちゃうけど、エリセが泣く)
ツィグナトは立ち上がった。
氷の結晶が彼の膝から剥がれ、床に散る。
そして、静かに言った。
「……追えない」
ネクレオスは目を細めた。
(は?)
追えない?
この男が。
世界最高峰の魔術師が。
そんなことがあるのか?




