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第95話 『退職届』

定期点検が問題なく終わって、夕方。


術規本部の建物に戻ると、空気がひんやりと変わった。

外の風の匂いから、紙と薬品と金属の匂いへ。


扉をくぐった瞬間、肩に乗っていた緊張がすとんと落ちる。

「戻りましたー」

廊下は静かで、魔晶灯は規則正しく灯り、職員たちはそれぞれの机に沈んでいた。


夕方の本部は、ひどく落ち着く。

空いた小会議室で、ミルアとオルムが書類を広げ始めた。

エリセも鞄から束を引っ張り出す。


点検記録。

術符使用報告。

補修図面。

異常報告――ゼロ。




「何もなくてよかったね」

オルムが肩を回し、ミルアが笑った。

「ほんと、今日は平和でした!」


書類を封筒に入れて棚へ差し込む。

それだけの作業なのに、今日はすごく気分が軽い。

(喧騒も感電もなくて……平和……)


そう思った瞬間、ふと、鼻の奥に沈香の匂いが蘇った。

遺跡で嗅いだ、あの匂い。

指先に残る、あの灼けるような熱。

胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。


――たぶん、気のせい。

そう思うことにした。




日が落ちかけた廊下を歩く。

窓の外は赤く、建物の影が長く伸びていた。


すれ違う職員たちの足音も、紙をめくる音も、

全部いつも通りだ。

日常の音。



階段へ向かった、そのとき。

足元で、黒蛇が小さく鳴いた。

「……?」



エリセは立ち止まり、視線を落とす。


黒蛇が床に腹をつけるように固まっていた。

瞳が、いつもより鋭い――気がする。


「どうしたの。……眠い?」

返事はない。

黒蛇は廊下の奥、誰もいない曲がり角をじっと睨んでいた。


エリセは少しだけ背筋が冷えた。

(なに……?)


だが次の瞬間。

曲がり角の向こうから、ぬるり、と白いものが現れた。


最初に見えたのは、光沢のある鱗。

白磁みたいに冷たい色。

――白蛇。


エリセが目を丸くするより先に、白蛇はふん、と鼻を鳴らした。

「余を置いていくなど……無礼千万」

「……ショ?」

黒蛇が呆れたように、目を細める。

(100%、寝過ごした自分のせいやな)


エリセは視線を行ったり来たりさせた。

「え、え? え? なんで??

あなた達どうやって、

あたしの行く先々に移動してるの……?」

白蛇は当然のようにエリセの足元へ寄り、

靴先をぐるりと一周した。


まるで「当然であろう」と言わんばかりに。


黒蛇も何事もなかったように、エリセの足元へ戻る。

すっかりいつもの調子だ。

「……びっくりするなぁ、もぉ」

エリセは苦笑して、また歩き出した。







「管理課」の扉を開ける。


中は薄暗く、書類棚の匂いが濃かった。

机の上には、昨日片づけきれなかった書類がまだ残っている。


同僚はまだ戻ってきていないようだった。


窓から夕焼けの光が差し込み、紙の白がほんのり染まる。

エリセは鞄を椅子に掛け、机に向かった。


ガラスペンを取る。

業務報告。

書き慣れた文面。

いつもの仕事。


――そのはずだった。



視界が、ぐにゃりと歪んだ。

「……え?」



机の角が波打つ。

紙の文字が伸びる。


魔晶灯の光が一瞬だけ強くなったかと思うと、

次の瞬間、真っ暗になった。



音が、消えた。

耳の奥に水が詰まったみたいに、世界が遠ざかる。

「な、に……っ」


椅子から立ち上がろうとした。

その瞬間――


 

床が抜けた。

「――!」


声を上げる前に、足元で跳ねた黒蛇が

エリセの袖に噛みつき、机の足に尾を巻き付けた。

「キュワッ!!」

同時に、白蛇が鋭く身を翻す。

「不埒――!」


白蛇の姿がぶれる。

次の瞬間、そこにいたのは、

白金の髪と金の瞳を持つ幼い少女だった。

—―セラフィス。

小さな手が、裂け目へ向けて突き出される。


「余の前から持ち去るは不敬……!」


空間の裂け目に、白い文様が浮かび上がった。

裂け目を縫い留める鎖のように、幾重にも重なっていく。


「施行者よ――

影に沈み、その命脈、凍てつき絶えるがよい」


空気が凍りつくほどの殺意。

世界そのものが、彼女の言葉に怯えた。


……はずだった。


裂け目が、ぎしり、と軋んだ。

まるで笑ったように。


次の瞬間——


ガキン


乾いた音とともに鎖が砕けた。

白い文様が、薄氷のように剥がれ落ちる。

呪言が、霧散した。



「――!」

セラフィスが目を見開いた。



黒蛇の尾が机の脚をきしませ、雷が迸りかける。

引き戻せない。

身体はもう半分以上、

裂けた空間の向こうへ引きずり込まれていた。


机の端へ伸ばしたエリセの指が、空を掴む。

次の瞬間には机も床も、全部遠ざかっていく。


最後に見えたのは、散らばった書類と倒れた椅子。



そして、


セラフィスがめいっぱい伸ばしてくれていた、


小さな白い手 。




黒蛇は尾をほどき、

エリセの袖に噛みついたまま裂け目へ身を投げた。





底が、ない。



  落ちる。




    落ちる、落ちる、落ちる。



だがそれは重力ではなく、

見えない糸に強引に引きずられていく感覚だった。


転移魔術――そんな穏やかなものじゃない。


これは、

拉致だ。

(なんでっ――!!)







そして――


裂け目が、ぱたりと閉じる。




直後。


ぺっ、と。

小さく歪んだ空間から吐き出された黒い影が、

机の上へ落ちた。

書類を押し潰し、ずるりと体を伸ばす。

――黒蛇。



噛みついていたはずの布の感触が、唐突に消えていた。


鱗の隙間で、雷が小さくぱちぱちと鳴る。

引き剥がされた怒りが、燻っていた。


「ネクレオス!」

かん高い声が響いた。


セラフィスが床に片膝をつき、

裂け目があった場所へ手を伸ばす。

指先は空を掻く。

何もない。


「……閉じた、だと?」

彼女の瞳が細くなる。

呪いの鎖で縫い留めたはずの空間は、

最初から存在しなかったかのように平滑だった。


「……この場を保て。痕跡を散らすな」

「……っ」


黒蛇は短く舌を鳴らし、ゆっくり首を巡らせた。


机。倒れた椅子。ガラスペン。鞄。

夕焼けの光だけが、静かに差している。

そして――


「……エリセは?」



いない。

たった一人、綺麗に抜き取られていた。


その時。

ひらり、と白い紙が舞い落ちてきた。


黒蛇の背に触れ、滑るように机へ落ちる。


紙の表題は、たった三文字。






『退職届』



宛先は術式技術規正機構。

本文は短い。

『一身上の都合により、退職いたします。

 提出日――』

署名欄には、震えひとつない筆跡で。


『エリセ・ノアリス』



本人の筆跡と酷似している。

だが――本人が書いたものではない。


黒蛇固まったまま、その文字を見つめた。

そして、ゆっくりと顔を上げる。



「……は?」




机の影の奥。

誰もいないはずの空間で、ふっと笑う気配がした。


愉快そうな、甘い笑い声。


そして次の瞬間、気配は消える。


残ったのは、退職届一枚だけ。




暗い空間の中。

エリセは落ち続けていた。


上も下もない。

前も後ろもない。

ただ、冷たい無がある。


視界は黒いのに、目の奥が痛いほど眩しい。

骨がきしみ、内臓が浮き上がる。


(息が……できない……!)


喉が焼ける。



次の瞬間、突然、空気が戻った。

肺が痛いほど膨らみ、エリセは咳き込む。

「げふっ……!」


その咳に混じって、香りが来た。


甘さのない、乾いた木の香。

沈香。



遺跡で嗅いだ、あの匂い。


「……っ!」


香りが、空間の裂け目に染み込んでくる。

見えない煙が座標を撫でるように滑り、転移の流れが微かに軋んだ。


――方向が、変わった?


エリセの身体が、強引に引き寄せられる感覚がする。

もう、上も下もわからない。

世界に振り回される中――


遠くで、誰かが笑った。


『……旅路の匂いがする』

知らない声は軽い。


楽しそうで、残酷なほど無邪気だった。

『ああ、いいね。君――運が悪い』



沈香の煙が、ひと筋の道を作る。


その道へ、エリセの身体が叩き込まれた。


「――!!」

叫び声が空間に吸い込まれる。


そして——、





ドンッ!


硬い石床に叩きつけられ、息が詰まった。


「……っ、いったぁ……!」


視界が戻ると、そこは見知らぬ聖堂だった。


高い天井。

巨大な柱。

煤けた祈祷画。

そして――古式甲冑の聖職者たちが、尻もちをついたままのエリセを取り囲んでいる。


(な、なにこれ……

展示型の歴史博物館? 

実演アトラクション?

お願い、誰か「ドッキリ大成功」って出てきて)


床に倒れていた年配の男が、

血に濡れた手でエリセのローブを掴んだ。


「……すま、な……い……お嬢……ちゃん……逃げ……」



声の途中で、その身体は砂のように崩れ落ちた。

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