第94話 神殿の主からの祝福(嫌がらせ)
神殿の空気が、わずかに座り直す。
石畳の下で眠っていた古い座標が、ひとつ、息を吹き返した。
『つまらないね……お前だけとか、ネクレオス』
声は、壁に反響しない。
ただ、神殿そのものが言葉を吐いたように響いた。
旅路の香が落ちる。
沈香の乾いた煙が、目に見えぬ回廊をなぞるように。
黒蛇――ネクレオスが、石畳の上で舌打ちする。
「何や、問題でもあるんか?」
神殿の影が、すう、と伸びた。
そこから現れたのは、ひとりの旅人だった。
深い青のジュラバ。
砂を含んだ布が風に揺れ、長い袖がゆるやかに波打つ。
フードは半分だけ被られ、額には水色のターバン。
その下から、砂漠の陽を梳いたような淡い金の髪が
さらりと流れ落ちていた。
顔立ちは端正で、目元だけが妙に人懐こい。
けれど瞳の奥は、獲物を見つけた神の色をしている。
”彼”は愉快そうに唇を歪めた。
『ツィグナトが来たのかと思ったのに。……君だけか』
「相変わらず失礼な奴っちゃな」
『失礼? 違うよ。期待外れって言ってるだけ』
セリオスは肩をすくめ、軽薄そうに笑う。
『お前には問題どころか、用もない。
――でもまあ、神殿が反応したからね。暇つぶしにはなる』
「暇つぶしで出てくんな」
セリオスは鼻で笑った。
『それより……最近またラゼルネイムが
つきまとっているって本当?』
ネクレオスの尾が、ゆっくり左右に揺れる。
「……まぁ。つきまとわれとるな」
『あいつ、うざいな』
ぴしゃり、と吐き捨てるような一言。
神殿の空気が、ほんの少しだけ冷える。
「お前、神のくせに言葉が雑すぎん?」
『旅の神は旅人を選ぶからね』
セリオスは楽しげに言う。
『ツィグナトの周りは相変わらず虫が多いなぁ。
……嫌になるよ』
「虫て」
『お前だろ、セラフィスだろ、それにラゼルネイムだ』
セリオスは淡金の髪を指で梳き、笑みを深くした。
『全員、執着の匂いがする。吐き気がするくらい』
「……人のこと言えんやろ」
『え? 僕はいいんだよ』
セリオスはあっさり言った。
『僕はツィグナトに嫌われても平気だ。むしろ――』
その言葉の続きを、わざと舌の上で転がす。
『冷たくされると、最高に気分がいい』
ネクレオスが目を細める。
「……気持ち悪い奴っちゃ」
『褒め言葉?』
セリオスは嬉しそうに笑った。
『だってさ。あの男が本気で不快そうに眉を寄せる瞬間を想像してごらんよ、たまらないだろ?
その顔を見せてくれるなら、何度でも旅をしてやるよ』
ネクレオスは深く息を吐いた。
「お前、ナトに殺されるで」
『まさか。神殺しはしないと思うけれど……ツィグナトになら刺されるのも最高に気持ちよさそうだ』
セリオスはさらりと言い、目を細める。
彼の視線が、遺跡の通路を歩く少女へ向いた。
『おや。あの子か。
神殿横の樹木をいい感じに結晶化してくれたのは』
ネクレオスが嫌な予感に目を見開く。
「おい、待て」
セリオスは楽しそうに指を鳴らした。
『えぃっ』
次の瞬間――
エリセの手首が、じわりと熱を帯びた。
まるで見えない火箸で挟まれたみたいに。
「……っ?」
思わず袖をまくったが、肌は何も変わっていない。
なのに、熱だけが残っていた。
ネクレオスが目を見開く。
「……お前っ!!」
『センスが気に入ったから祝福しただけだ。
旅の神らしいだろう?』
「いやいやいや!!やめろや!!」
ネクレオスが慌てて声を上げた。
『必要な人に出会う運、悪くない。
ツィグナトに文句言われるとか、ぞくぞくしてきたよ』
声は軽く言い――
沈香の香りだけを残し、消えた。
遺跡の空気が、元に戻る。
照明も、何事もなかったかのように落ち着く。
ミルアが顔を上げた。
「……やっぱり照明、明るくなってた気がするんだけど」
「照明の回路、もう一回確認しとくか。魔晶石の寿命が近いとか?」
オルムが面倒そうに言う。
エリセは、震える手首を隠すように袖を戻した。
(今の、何……)
ネクレオスが、そろりとエリセの足元に寄った。
そう。エリセ的には何もなかった、いつもの日常。
ただ、足元の黒蛇だけが、妙に静かだった。




