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第93話 日常を裏切る沈香の香り

今日は出勤が早い。


寝室の布団は、まだひとつ大きく盛り上がっていた。


布団には膨らみが一つ。

白銀の髪がすこしだけ覗き、

反対側からは黒い尾がぐったり垂れていた。


「……よし」


エリセはそっと扉を閉め、息を殺しながら家を出た。

扉が閉まった瞬間、黒い尾がぴくりと動いていたことに

気付かないまま。


そもそも普段だって、

別にエリセが連れ歩いているわけではない。

蛇達がなぜか勝手についてきて、

そして勝手に騒いでエリセを巻き込んでいく。


此処何日か続く日々を振り返ると

今日は足取りも軽くなるというもの。

(今日は平和だ……!)

返品したくても返品先がわからない困った現実。



ここは観光ルートとして整備され、

一般公開されている遺跡だった。


——管理遺跡《セリオス神殿跡》

かつて古代魔術具が発掘されたこの場所は、

旅の神セリオスを祀る神殿跡だ。

外壁のあちこちには、

鞄と羽――セリオスの紋章が刻まれている。


神殿の入り口には、

セリオスが騎乗したと伝えられる一対のペガサス像。

門番のように立っているが、頭部は無残に砕かれていた。

壁面のレリーフも、ところどころ削り取られている。

代わりに彫り込まれているのは、旧教会の紋章。


ここがどれほど強引に「塗り替えられた」のか。

その痕跡だけが、静かに残っていた。


――少なくとも、エリセはそう思っていた。


けれど、削られた壁の隅。

崩れた石段の側面。

観光客の目線から外れた柱の裏。


そこに、違う形が残っている。


(……双蛇)


息を呑んだ。

それは、見間違えるはずのない紋章だった。

あの人が使う魔術の残滓みたいに、妙に整いすぎている線。


(なんで、こんなところに)

胸の奥が、じわじわ熱くなる。

怖いとかじゃない。

ただ――落ち着かない。


ここは研究されつくした遺跡で、

もう何も出ないから観光地として解放された。

そういうことになっている。


でも。


(……本当に?)


あたしたちが気づいていない何かが、

まだ動いてるんじゃないの?

国宝化している遺跡を、

エリセの一存で再調査なんてできるはずもない。


それでも。


(……うずうずする)

視線が勝手に、次の壁を探してしまう。

双蛇の痕跡を。


石造りの回廊。

風化した柱。

苔むした床石。


「ここも、特に問題報告はなし。

転倒事故も、去年の秋以来ゼロ」

淡々と説明するのは、術規の――ミルアだった。

現地用の軽装の上に分厚い資料を抱え、

足取りは迷いがない。


隣には、外部委託の土木作業員オルム。

小型の測定器を肩に掛け、

観光気分みたいに機嫌よく歩いている。

「観光地ってさ、思いがけないところが傷むんだよね。

ほら、ここ」

日焼けした指が、床石のわずかな浮きを示した。


「樹木の根っこかな。雨水が入り込んでる」

エリセが覗き込むと、

オルムは「さすが」とでも言うように笑う。

「ミルアさん、

とりあえず補修前に強制乾燥かけられます?」


「はいはい。子には除草剤を流し込んでおくわ。

枯れたら落ち着くでしょ」

「はいはーい! あたし結晶化の術符持ってきた!」

結晶化の術符は高価だ。

けれどエリセは、なぜか三枚も持っている。

――迷惑料として、レジットから徴収したやつだ。


「術規の支給品より、こっちが旅の神様に似合うでしょ。

セリオス様って、ペガサスに乗るんだし」


根元に術符を埋めると、木々は凍ったように透き通った。

枝先は羽のように広がり、

空を蹴る者の訪れを森が覚えているみたいだった。


風に揺れるたび、結晶の葉が触れ合う。

ちり、と街道の鈴の音のような響きが落ちる。


その後は遺跡内の風化の補修跡の経過観察にはじまって、

補強や修理、防災施設の劣化確認……


「ここは摩耗してきたかな。

そろそろ皮脂や汗を弾く薬剤の塗りなおしが必要っと。」

記録していると天井の魔晶灯が、

一瞬だけ、普段より明るくなった。


「――ん?」

オルムが天井を見上げる。

「今、明るくなりませんでした?」

「自動調光設備はついてなかったはずなんだけど。」

エリセは周囲を見回し、ミルアは資料をめくる。


エリセの視界の端に黒蛇が入りギクリとする。

(へ、蛇!? ……いや、

おとなしそうだし先生の黒蛇ちゃん?

けど、どうやってここに??)

エリセが首を傾げた時、ふわりと香りが来た。


甘さのない、乾いた木の香。

焚かれた沈香が、石の隙間に染み込むみたいに――一瞬で消えた。


(……沈香の香り?)

エリセは眉を寄せた。


観光遺跡で、香を焚いているわけがない。

今日の点検で、そんな予定もない。

なのに、確かに香りがした。

石の冷たさの中に、異物のように漂う香。


「……今ちょっと香りが、測定器どうなってます?」

エリセが言うと、オルムは鼻をひくつかせた。

「ん? 特に何も……外からじゃないのか?」


ミルアは即答だった。

「観光客の香水とかじゃない?」

(……香水じゃない、気がするけど)


もっと、古い。

もっと、遠い。


——一瞬だけ、どこか別の場所と繋がったみたいな匂い。


エリセは首を傾げたが、すぐに仕事に戻った。


「次は奥の回廊ですね」

「はい。通常ルートで」

エリセは歩き出す。


背後で、黒蛇が一歩、遺跡内部へ踏み込んだ瞬間、

魔晶灯が、もう一度だけ――やさしく輝度を上げた。

それは歓迎の光。

誰にも気づかれず。


エリセは、ほんの少しだけ振り返った。

だが、そこにはただの遺跡と、整った観光通路しかなかった。


神殿は、来訪者を認識していた。

ただし、それを知覚できる資格を

3人が持っていなかっただけのこと。


——神殿の奥で、目に見えぬ扉がひとつ開いた。


エリセ達の知らないところで。


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