第93話 日常を裏切る沈香の香り
今日は出勤が早い。
寝室の布団は、まだひとつ大きく盛り上がっていた。
布団には膨らみが一つ。
白銀の髪がすこしだけ覗き、
反対側からは黒い尾がぐったり垂れていた。
「……よし」
エリセはそっと扉を閉め、息を殺しながら家を出た。
扉が閉まった瞬間、黒い尾がぴくりと動いていたことに
気付かないまま。
そもそも普段だって、
別にエリセが連れ歩いているわけではない。
蛇達がなぜか勝手についてきて、
そして勝手に騒いでエリセを巻き込んでいく。
此処何日か続く日々を振り返ると
今日は足取りも軽くなるというもの。
(今日は平和だ……!)
返品したくても返品先がわからない困った現実。
◇
ここは観光ルートとして整備され、
一般公開されている遺跡だった。
——管理遺跡《セリオス神殿跡》
かつて古代魔術具が発掘されたこの場所は、
旅の神セリオスを祀る神殿跡だ。
外壁のあちこちには、
鞄と羽――セリオスの紋章が刻まれている。
神殿の入り口には、
セリオスが騎乗したと伝えられる一対のペガサス像。
門番のように立っているが、頭部は無残に砕かれていた。
壁面のレリーフも、ところどころ削り取られている。
代わりに彫り込まれているのは、旧教会の紋章。
ここがどれほど強引に「塗り替えられた」のか。
その痕跡だけが、静かに残っていた。
――少なくとも、エリセはそう思っていた。
けれど、削られた壁の隅。
崩れた石段の側面。
観光客の目線から外れた柱の裏。
そこに、違う形が残っている。
(……双蛇)
息を呑んだ。
それは、見間違えるはずのない紋章だった。
あの人が使う魔術の残滓みたいに、妙に整いすぎている線。
(なんで、こんなところに)
胸の奥が、じわじわ熱くなる。
怖いとかじゃない。
ただ――落ち着かない。
ここは研究されつくした遺跡で、
もう何も出ないから観光地として解放された。
そういうことになっている。
でも。
(……本当に?)
あたしたちが気づいていない何かが、
まだ動いてるんじゃないの?
国宝化している遺跡を、
エリセの一存で再調査なんてできるはずもない。
それでも。
(……うずうずする)
視線が勝手に、次の壁を探してしまう。
双蛇の痕跡を。
石造りの回廊。
風化した柱。
苔むした床石。
「ここも、特に問題報告はなし。
転倒事故も、去年の秋以来ゼロ」
淡々と説明するのは、術規の――ミルアだった。
現地用の軽装の上に分厚い資料を抱え、
足取りは迷いがない。
隣には、外部委託の土木作業員オルム。
小型の測定器を肩に掛け、
観光気分みたいに機嫌よく歩いている。
「観光地ってさ、思いがけないところが傷むんだよね。
ほら、ここ」
日焼けした指が、床石のわずかな浮きを示した。
「樹木の根っこかな。雨水が入り込んでる」
エリセが覗き込むと、
オルムは「さすが」とでも言うように笑う。
「ミルアさん、
とりあえず補修前に強制乾燥かけられます?」
「はいはい。子には除草剤を流し込んでおくわ。
枯れたら落ち着くでしょ」
「はいはーい! あたし結晶化の術符持ってきた!」
結晶化の術符は高価だ。
けれどエリセは、なぜか三枚も持っている。
――迷惑料として、レジットから徴収したやつだ。
「術規の支給品より、こっちが旅の神様に似合うでしょ。
セリオス様って、ペガサスに乗るんだし」
根元に術符を埋めると、木々は凍ったように透き通った。
枝先は羽のように広がり、
空を蹴る者の訪れを森が覚えているみたいだった。
風に揺れるたび、結晶の葉が触れ合う。
ちり、と街道の鈴の音のような響きが落ちる。
その後は遺跡内の風化の補修跡の経過観察にはじまって、
補強や修理、防災施設の劣化確認……
「ここは摩耗してきたかな。
そろそろ皮脂や汗を弾く薬剤の塗りなおしが必要っと。」
記録していると天井の魔晶灯が、
一瞬だけ、普段より明るくなった。
「――ん?」
オルムが天井を見上げる。
「今、明るくなりませんでした?」
「自動調光設備はついてなかったはずなんだけど。」
エリセは周囲を見回し、ミルアは資料をめくる。
エリセの視界の端に黒蛇が入りギクリとする。
(へ、蛇!? ……いや、
おとなしそうだし先生の黒蛇ちゃん?
けど、どうやってここに??)
エリセが首を傾げた時、ふわりと香りが来た。
甘さのない、乾いた木の香。
焚かれた沈香が、石の隙間に染み込むみたいに――一瞬で消えた。
(……沈香の香り?)
エリセは眉を寄せた。
観光遺跡で、香を焚いているわけがない。
今日の点検で、そんな予定もない。
なのに、確かに香りがした。
石の冷たさの中に、異物のように漂う香。
「……今ちょっと香りが、測定器どうなってます?」
エリセが言うと、オルムは鼻をひくつかせた。
「ん? 特に何も……外からじゃないのか?」
ミルアは即答だった。
「観光客の香水とかじゃない?」
(……香水じゃない、気がするけど)
もっと、古い。
もっと、遠い。
——一瞬だけ、どこか別の場所と繋がったみたいな匂い。
エリセは首を傾げたが、すぐに仕事に戻った。
「次は奥の回廊ですね」
「はい。通常ルートで」
エリセは歩き出す。
背後で、黒蛇が一歩、遺跡内部へ踏み込んだ瞬間、
魔晶灯が、もう一度だけ――やさしく輝度を上げた。
それは歓迎の光。
誰にも気づかれず。
エリセは、ほんの少しだけ振り返った。
だが、そこにはただの遺跡と、整った観光通路しかなかった。
神殿は、来訪者を認識していた。
ただし、それを知覚できる資格を
3人が持っていなかっただけのこと。
——神殿の奥で、目に見えぬ扉がひとつ開いた。
エリセ達の知らないところで。




