第90話 ラゼルネイム
これはラゼル=ネイムが、
まだ「ラゼルネイム」と名乗っていた頃の話だ。
ラゼルネイムは、感情の溜まり場が好きだった。
歓声と嘆きが交差し、
祈りと呪詛が絡まり合い、
期待と失望が何層にも積み重なる場所。
王都の中央広場でもいい。
聖堂の裏でも、処刑台の影でも構わない。
要は――
人の想いが、濃く、混ざり合っていること。
「ここは、いいな」
屋根の上で、ラゼルネイムは小さく笑った。
眼下には、王都の中央広場が広がっていた。
昼の市場が引いたあとで、屋台の残り香と、
花売りの甘い匂い、劇場へ向かう人々のざわめきが、
ゆるやかに混ざり合っている。
待ち合わせの場所を間違えた恋人。
贈り物を手にしたまま、行き場を失った人間。
祈るように腕輪を撫でる指と、
それを睨むように見る別の視線。
感情が、歩きながら擦れ合っている。
今回の魔術具は、細い鎖と小さな真珠でできた
華奢な腕輪だった。
上品な香りを身に纏わせる、社交用の魔術具。
恋人に贈り、
拒まれ、
祈りに変わり、
やがて憎しみに変質する――
ありふれた流れだ。
「さて」
指を鳴らす。
「ここまで感情が集まれば、そろそろだ」
腕輪の鎖が、脈打つように淡く光った。
最初に生まれたのは、妖精アテだった。
声だけが、先に届く。
甘く、やわらかく、判断を促す囁き。
透き通った小さな妖精が、人々の耳元に寄り添う。
――迷いを糧とする存在。
「うん、予想通り」
ラゼルネイムは記録帳を開き、筆を走らせる。
「ふーん。
香りを纏う魔術具だと媒介は香り、効果範囲は——」
六人が迷い、
十人が選び、
選択が重なって、空気が少しだけ歪んだ。
その歪みが満ちた瞬間、
アテは満足したように、魔術具へと溶け戻る。
代わりに、影が立った。
誰かの背後に。
誰の意思でもなく。
「……弱いな」
ラゼルネイムが、そう呟いた。
それが、精霊モロだった。
輪郭は曖昧で、触れられない。
ただ、迷いや選択に疲弊した人間の背後に立つ。
「……へえ」
ラゼルネイムは、純粋に感心した声を出した。
「迷いで削られた核を喰ってるのか」
誰かが膝をつき、
誰かが声を失い、
誰かが倒れていく。
「やっぱり、アテのあとにモロが出ると、収束が早いな」
その背後で、
影が、ゆっくりと“何か”を掬い上げていた。
だがラゼルネイムは、それらにほとんど注意を払わない。
見ているのは、魔力の変質。
感情の波形。
そして――生まれる“瞬間”。
「十分だな」
軽く指を振る。
腕輪に走っていた魔力が、ぷつりと途切れた。
不満そうに唇を尖らせて、アテが顔を出す。
モロは何も言わず、霧のように薄れていく。
「今回はここまで」
次の瞬間、腕輪は灰になった。
妖精も精霊も、悲鳴ひとつ残さず消えた。
――そのとき。
ぎゅむ、という不思議な音が、少し離れた上方で鳴った。
視線を上げると、
向かいの屋根の縁に、
濃灰色の外套を纏った青年が立っていた。
瓦の影に溶け込むように、
最初からそこにいたみたいに。
「……またあんたか」
ラゼルネイムは、自然にそう言った。
名は知らない。
けれど、わかる。
あれも、自分と同じだ。
星座に名を冠した、こちら側の存在。
彼の足元で、黒く細い何かが、ジタバタ動いていた。
「それ、何?」
視線だけ向けると、
答えはなく、沈黙だけが返ってくる。
――聞くな、とでも言いたげな。
ラゼルネイムは、楽しそうに笑った。
「今、ちょっと再現してたんだ。
気になる現象があってさ。
けど、もう片づけたよ。
壊れたし、散ったし、役目は終わり」
ツィグナトは答えず、視線を下げる。
乗合馬車の停留所の陰。
かろうじて息をしている一人の少年。
ラゼルネイムも気づいていた。
気づいた上で、無視していた。
「……ああ」
肩をすくめる。
「精霊が触れたわけじゃない。
死体が転がれば、こういうのは起きる。
運が悪かった、それだけさ」
ツィグナトは、足元の“それ”を軽く蹴り落とした。
黒い影は弧を描き、
眼下の少年の足元へ、寸分違わず落ちる。
次の瞬間、ぶわっと魔力が弾け、
死にかけていた少年が唐突に息を吸い込んだ。
「!?」
ラゼルネイムが目を見開く。
「治癒した!?
なに今の……蛇?」
ツィグナトは答えない。
――ああ、こいつは、説明しないやつだった。
(まぁ、観測対象外かな。)
「なあ」
ラゼルネイムは、少しだけ声色を変えた。
「人が死ぬのを止めに来たなら、遅いよ。
ここ、もう静かだ」
「だから来た」
短い返答。
「騒ぎの中心は面倒だ。
――だが、この歪みには足が向くこともあるだろうな」
ラゼルネイムは、ほんの一瞬だけ考える。
――嫌っているのか。
それとも、設計そのものが歪むのが気に食わないのか。
「歪み、ね」
ラゼルネイムはくつくつと笑った。
「これ、悪くなかっただろ?」
灰になった魔術具を指す。
「感情を代替燃料として許可する設計。
生まれるものも、予測通りだった」
「……動線が甘い」
ツィグナトが言う。
「いや、わざとか」
(!)
「そう」
目を輝かせて、ラゼルネイムは即座に頷いた。
「その穴から、燃料とは別に感情を拾わせてたんだ!」
「完成品を、わざわざ検証しづらくした理由は?」
「完成品って、褒めてる?」
「観察対象としてはな」
ラゼルネイムは一瞬、言葉を失った。
――そこを見るのか。
それから、ゆっくりと口角が上がる。
「……面白いな、あんた」
人が死ぬより。
妖精が生まれるより。
「こうして話してる方が、ずっと退屈しない」
ツィグナトは答えない。
ただ、背を向ける。
「次は、もう少し静かな場所でやれ」
「ええ?
約束はできないな」
ラゼルネイムは笑った。
ツィグナトは何も言わなかった。
ただ、その沈黙だけが、妙に長く残った。
――否定も肯定も、示さない。
後になって、ラゼルネイムは思う。
この夜、初めて――
結果ではなく、“問い”を向けてきた相手がいたのだと。
だがこのときの彼は、まだ知らない。
アテとモロが消えた空白よりも、
この日、自分が何を軽く扱っていたのか分からないまま
終わってしまったことのほうが。
ずっと厄介なものになるということを。




