第89話 灯だけが聞いていた
エリセは、夜更けの自宅へと戻った。
静かな家の中で、今日一日の出来事が、
ようやく現実として胸に落ちてきた。
黒蛇が、魔術具《灯》を尻尾にぶら下げたまま、
ぶんぶんと左右に振り回し、エリセのもとへ寄ってきた。
「わわ、黒蛇ちゃん、それは――」
慌てて抱き上げる。
「それはね、あなたのご主人が作った魔術具なんだよ。
あたしも父さんからもらった物だから、
どうやって手に入れたのかは知らないんだけど……
すごく大事な道具だから、乱暴に扱ったり、
イタズラしたらだめ」
軽く手入れをする。
「……今日、色々あったからね。
余計に、大事にしなきゃ」
エリセはいつものように
《灯》に明かりをともした。
今となっては《灯》は、主をツィグナトとする魔術具だ。
だから、彼女に“道”を示すことはない。
それでも。
明かりをともすだけなら、エリセにもできた。
教会で久しぶりに見たセラフィス。
額は、まだ少し赤かった。
幼く可憐な姿だけに、その痕が痛々しい。
人間の薬が効くかは分からないが、
エリセは、セラフィスが変じた白蛇の額に、
そっと塗り薬を塗ってやった。
「……先生はね」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「いつも最小限しか言わないし。
無表情だし、共感力もないし」
小さく、息を吐いた。
「でも……」
奪われたと思っていた。
守られた、なんて考えもしなかった。
「出会った最初からずっと……」
《灯》の温かな光が、机の上で揺れる。
「……ずっと、優しかったんだね」
今さら気づいたって、
あの人に会う方法なんて、どこにもない。
「先生……」
声が、少しだけ震えた。
「あたし、あなたが好き」
しばらく、何も音がしなかった。
胸の奥で、何かが静かに崩れた気がした。
白蛇は、塗り薬の匂いが気になるのか、
机の上でぐったり伸びている。
黒蛇は、机に供えた茄子に
顔を書いた紙を貼り付け、満足そうだ。
エリセの小さな慟哭を、
《灯》だけが、静かに聞いていた。
――後日。
喫茶店の窓際で、
エリセは湯気の立つカップを両手で包みながら、
聖具師の話を聞いていた。
「……ひとめぼれだったんです」
ぽつりと落ちた言葉は、
言い訳にも、告白にも聞こえた。
展示会で見かけた、あの魔術師。
魔術具について語るときの、
過剰なほど静かな集中。
澱みのない思考。
「深海の底に沈んだ星のような瞳……
見ていると、自分の心が吸い込まれていくみたいで……」
視線を伏せたまま、聖具師は微かに笑う。
「まつげの長ささえ、罪な方……」
いつの間にか。
祈りは、神へではなく、想像へと向いていたのだと。
「神に祈っていたつもりでした」
その声は、ひどく静かだった。
「でも……私は、祈祷していなかった」
——展示会。
魔術具を前にしたときの、あの背中。
計算と理論の向こう側に、感情を持ち込まない人。
思い浮かんだ顔を、エリセは否定しなかった。
否定する理由が、なかったからだ。
(……似ている、じゃない)
(条件が、揃いすぎている)
まつげが長い、という評価だけが、ひどく個人的で。
だからこそ、逃げ場がなかった。
エリセは、カップの縁へ視線を落とす。
湯気の向こうで、聖具師の言葉が、ゆっくりと沈んでいく。
(先生は、意図していない)
それは、はっきりしている。
——でも。
昨夜、ようやく自分が認めた気持ちが、
今、他人の言葉で、形を持って差し出されている。
同じ人を見て、
同じように、心を掴まれた誰かがいる。
その事実を、
エリセは、まだ整理できなかった。
誰かが、神に向けるはずだった祈りを、
人に向けてしまうことは、きっと、ある。
それが正しいのか、間違っているのか。
あたしが考えることじゃない。
エリセは、持参していた紙束をテーブルに置いた。
紐で綴じられた、少し古びた資料。
「先日、同行した職員が見つけたものです」
表紙には、無遠慮な文字が並んでいる。
『“心を持つ魔術具”という幻想について――
情緒依存型呪具の発生条件と回避不能性』
ページをめくった聖具師の指が、途中で止まった。
——これを“自立”と呼ぶ設計者は猿だ。
本稿は、その幻想が、どのように人を殺すかを、
設計段階から解体する。
「……前書きは、置いておいて」
エリセは少し困ったように付け足す。
(どうしてあの人は毎回……台無しです、ラゼルさん)
「オルディア、ルクスの塔のトップマイスター。
ラゼル=ネイムさんの論文です。
今回、私たち術規でも調査をはじめました。」
聖具師は、ゆっくりと息を吐いた。
責められているわけではない。
それでも、胸の奥に溜まっていたものが、
静かにほどけていく。
「欠陥でも、失敗でもなくて」
エリセは、はっきりと言う。
「――設計の時点で、破綻を内包している。
そういう類のものだそうです」
つまり。
あなたのお父様の聖具が、悪かったわけではない。
その理解が、言葉以上に伝わったのだろう。
聖具師は、しばらく俯いたまま、何も言えずにいた。
◇
その頃、とある治療院に切迫した声が響いた。
「姉ちゃん!!」
長椅子に横たわっていた少女のひとりが、
かすかに息を吸った。
蒼白だった頬に、ほんのりと赤みが戻っていく。
「体温が……戻ってる……?」
治癒師が目を見開いた。
それを合図にしたかのように、
他のベッドの患者たちも、次々と目を覚まし始める。
数日続いていた悪夢が。
ようやく、現実から剥がれ落ちていく。
誰もが、まだ何も言わない。
ただ――穏やかな表情で、呼吸をしていた。
今回の事件が、ようやく「終わった」のだと、
誰もが、遅れて理解しはじめていた。




