第86話 御しきれない!!!
事件の始まりは、職場に上がった悲鳴だった。
書類の束が床に散り、椅子が倒れ、
次の瞬間には職員が二人、仕事机の前で崩れ落ちていた。
「……!」
エリセは目を見開いた。
しかし、「これが事件の始まりだ」と思っただけで、
街では、すでに数日前から同様の出来事が続いていたらしい。
体調不良で休む者が増え、
出勤している職員の負担は目に見えて重くなる。
別部署の慣れない業務が雪だるま式に押しつけられ、
不満は自然と支部長・ターバリへ向かう。
展示会が終わり、せっかく増量した毛髪に
容赦なくストレスが襲いかかっていた。
「人手が足りないんです!」
「このままじゃ回りません!」
そんな声が飛び交う中、
エリセは違う意味で忙殺されていた。
「――――ッ!!」
エリセの部屋に投げ込まれた白い蛇は、
出勤した今も暴れ続けている。
出勤した後も、床を転げながら癇癪を起こしている。
机の脚に尾を叩きつけ、書類棚をよじ登り、
『余は不服であるぞ!』とでも言いたげに、
甲高く威嚇音を立てる。
「ちょ、ちょっと待って!
今それどころじゃ……!」
その足元で、黒蛇がぬるりととぐろを巻く。
視線の先――廊下の向こうに、
見覚えのある人物の姿があった。
レジット。
かつての恋人であり、直属の上司。
黒蛇は一瞬で判断したらしい。
次の瞬間には、床を滑るように加速し、毒牙を剥いた。
「だめっ!」
間一髪で抱え上げる。
黒い鱗が不満げにざわめき、尾がばたばたと空を打つ。
――噛みつけば昏倒。
状況次第では、何度でも。
そういえば展示場でも。
黒蛇は不審者と並べて、必ずレジットを仕留めていた。
(……狙ってたんだ)
その後も止め、宥め、話を逸らし、
あたしは何日も、息つく暇のない日々を送っていた。
そして、街では倒れる人が日々増え続けていた。
倒れた後は目覚めることなく、衰弱していくだけ。
原因も治療法も見つからないまま、
治療院は、ついに音を上げた。
「受け入れきれない」と。
そんな折、術規へひとりの来訪者が現れた。
数日前の魔術具展覧会――
ミリオネス神聖教国の展示区画で話をした、聖具師だった。
「展示会でお会いした、黒いローブの方にご相談があって 」
彼女の顔色は悪く、言葉を選ぶように視線を伏せている。
しかし指名された人物は、この国の人間でも、
術規の所属でもなく――今、ここにはいなかった。
結果として、
唯一の顔見知りであるエリセが、話を聞くことになった。
「教会で使われている祈祷具が……おかしいのです」
それは最初、些細な変化だったという。
礼拝に訪れた男性が、まるで恋愛小説の一節のような、
情熱的な言葉を、思いを寄せる女性に向かって口にした。
美辞麗句。
夢を見るような囁き。
周囲は微笑み、
「信仰の力だろう」
「生への讃美歌のようなものだ」と、
皆、取るに足りない事とみすごしていた。
しかし。
言葉が熱を帯びるほど、
彼らの体温は確実に下がっていった。
肌は冷え、唇は青白く、
それでも彼らは、甘い言葉をやめなかった。
あたかも、愛を語り、未来を誓い、素直になることを、
生命の熱を削る代償とするように。
そして今日もあたしの腕の中では、
白蛇と黒蛇が騒々しく元気に暴れていた。
「余は不愉快ぞっ!」
白蛇は尾をばたつかせ、
空気を振り払うように身をよじった。
まるで、
ここにないはずの何かが、
皮膚の内側にまとわりついているかのように。
「キッシャーーーーーーッッッ」
(……あいつ、また部屋に入ってきた)
「ちょっと!今は噛まないで!
貴重な戦力なの!!
お願いだから!」
「仕事の山が山脈になったっっ!!!」
派手で、騒がしく、どうしようもない日常。
けれど、そのすぐ外側で。
街全体には、
さらに冷たい何かが、静かに広がり始めていたことに
あたしは、まだ――気づけずにいた。




