第102話 帰らなかった少女
帰還からしばらくして、
エリセは落ち着いた呼吸を整えていた。
あの転移の混乱、
途方もない魔術式に埋め尽くされた自宅。
先生がどれ程、安全を考慮して
自分を連れ戻してくれたのか。
その事実が、胸の奥でまだ小さく震えている。
(信じられない……
あたし、どれだけすごい人を好きになったの)
一年という時間をかけて、座標を削り、
世界の拒絶率を限りなく零に近づけた、と。
セラフィスちゃんから聞いた。
(……なんか、セラフィスちゃん
すごく怒ってたけど)
その努力を、空気で、匂いで、
肌で感じてしまった今、
胸の奥に逃げ場のない感情が流れ込む。
「それでエリセ、どうする」
ツィグナトの問いは静かだった。
黒蝶貝の瞳が、逃げ道を与えるように
ただこちらを見ている。
エリセは少しだけ息を吐く。
術規はもう戻れない。
ラゼル=ネイムが切った退職届。
あれから一年も空白があれば、
復職なんてできるはずがない。
ルクスの塔。
魔術師なら誰もが憧れる場所。
けれど――
「あたし一人で行くのは無理」
小さく笑って、肩をすくめる。
「天才しかいない場所とか
ただの罰ゲームでしょ」
「……」
「ネイムさん頼るのも怖いし」
一拍置いて、エリセは言った。
「だから」
視線をまっすぐ向ける。
「先生が一緒なら、行く」
少しだけ首を傾ける。
「……だめ?」
ツィグナトの表情は変わらない。
だがその静かな視線は、拒絶を知らない。
しばらくして、彼は言った。
「帰らないと言っていなかったか」
五百年前。
何度帰れと言っても、少女は首を振った。
恩を返すまで帰らない。
そう言って、頑として動かなかった。
エリセは一瞬、目を瞬かせた。
それから、少し笑う。
「うん。言った」
肩をすくめる。
「でも今は」
ほんの少しだけ視線を逸らし、また戻す。
「先生のいる場所に行きたい」
短い沈黙。
ツィグナトは何も言わなかった。
ただ、踵を返す。
「……先生?」
数歩進んでから、
振り返りもせずに言う。
「行くんだろう」
エリセの顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
そして先生は、
一年放置していた実験が残っていると言って、
工房へ帰っていった。
あの、
星が霧のように湧き上がる空域へ。
別れ際、
いつもと同じすました顔で一言。
「オルディアで会おう」
——その一言だけ残して。
エリセはしばらく立ち尽くした。
胸の奥が少しだけ騒がしい。
(……今)
(約束、した?)
先生はいつも、
何も言わずにいなくなる。
どこへ行くのかも、
次に会えるのかも、
分からないまま。
なのに今回は違った。
(オルディアで会おう)
行けば――、会える。
エリセは
ゆっくり息を吐いた。
それだけで、胸が少し軽くなる。
「……よし」
数日後。
エリセは一人、
魔導列車に乗っていた。
大きな旅行鞄をひとつだけ持って。
中に入っているのは、冬服に本。
筆記具。
採取瓶。
そして——
エリセの小さな相棒たち。
《紅蓮の牙》様。
それから、
古い真鍮の枠に収まった——魔術道具。
手のひらほどの灯。
“シア”。
エリセの家で、五百年受け継がれてきた灯だった。
オルディアへ向かう列車。
先生と約束した場所へ。
列車は一ヶ月かけて進む。
数日前から、窓の外は白一色になっていた。
”白銀の世界”と言えば聞こえはいいが、
隙間風が容赦なく入り込み、
手先も鼻の奥もじんじん痛む。
毛布にくるまっても寒さは変わらない。
それでも——
胸の中は、温かい。
(行けば、会える)
けれど——
(遠い)
(それに、想像以上に寒い!)
他のお客さんに聞いたら、
オルディアの外気温は一年を通して氷点下だという。
(そこまで寒い国だったなんて!
着いたら手持ちの服、全部買い替えないと)
白く曇る窓を袖で拭くと、
遠くの地平線に細く尖った影が見えた。
白亜の塔。
高位魔術具開発局本庁舎。
国民たちは敬意を込めて《ルクスの塔》と呼ぶ。
昼には陽光を反射して眩く、
夜には魔力光を宿して金色に輝く塔。
その頂には魔術灯が掲げられ、
淡い光が、雪空の下で揺れていた。
(……あれが)
エリセは小さく息を呑む。
(ルクスの塔)
魔術師なら、
一度は憧れる場所。
その塔が、
少しずつ近づいてくる。
(遠い……)
毛布に顔を埋めながら思う。
(そりゃ、一瞬で人を運べる転移魔術陣を持ってたら
使いたくなるよね……)
ネイムさんの気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がした。
◇
——オルディア中央駅。
扉が開いた瞬間、
冷たい空気が車内に流れ込んだ。
「……さむっ」
息を吐くと、白く広がる。
長い一か月の列車移動。
ずっと窓の景色を眺め続け、
体を縮めていたせいか、
身体の重みがふっと抜ける。
思わず肩を伸ばす。
駅舎の天井は高く、
見慣れない石の装飾が並んでいた。
どこか金属と香木が混じったような匂い。
ルザリオとは違う、遠い国の空気だった。
(ほんとに来たんだなぁ)
駅を出ると、
すぐにそれは見えた。
首都の中心にそびえ立つ、
白亜の巨塔。
昼の光を受けて、
塔の壁面が眩しく輝いていた。
(……でか)
思わず立ち止まる。
列車の窓からも見えていたはずなのに、
目の前に立つと、印象がまるで違った。
塔の外壁は、
ただ白いわけではない。
陽光を弾くように輝く石材。
細かな粒子を含んだ、独特の質感。
(あれ……)
エリセは目を凝らす。
魔力伝導率が高い建材だ。
しかも――
壁面の継ぎ目に、
細い刻印が走っていた。
魔術式。
それも、一つではない。
塔全体に、層のように刻まれている。
(嘘でしょ)
外壁そのものが
巨大な魔術具になっている。
(こんなの……)
普通の魔術師なら、
一生かかっても設計に辿り着けない。
(これ全部、塔の研究者が作ったの……?)
胸の奥が、じわっと熱くなる。
魔術師なら、
誰もが憧れる場所。
ルクスの塔。
(……ここに)
エリセは小さく息を吐く。
(あたし、ついに来ちゃったんだ)
(ていうか——。
迎え、ないんだけど)
ラゼル=ネイムも、先生もいない。
一瞬だけ、むっとする。
(不親切じゃない?)
けれど次の瞬間、エリセは気づく。
駅からでも、塔がはっきり見える。
むしろ——迷う方が難しい。
(……あ)
ちょっとだけ気まずくなった。
「……まぁ、いいか」
鞄を持ち直し、エリセは塔へ向かって歩き出す。




