酒の上の不埒 其之壱
その夜。
島原遊郭、角屋-
「ここです」
水口藩士が案内した店の揚屋の前で、
浪士組筆頭局長、芹沢鴨の目つきが一瞬変わったことに、その時は誰も気づかなかった。
芹沢は門の前で、隊士たちを振り返り、
「いいかあ、おまえら?!今日はお行儀よくだ。水口藩のお歴々もいらっしゃるんだから、壬生浪士組の品位に関わるような真似は方々慎んでくれよ?」
そう命じて、不自然なほど大笑した。
一行は角屋の奥座敷松の間に案内された。
「おお、いつ見ても見事な臥龍松よ」
上機嫌の芹沢鴨と、仲裁役の戸田一心斎を上座に置き、近藤ら幹部と水口藩士が差し向いに座る。
当然といえば当然ながら、気まずい対面だった。
しかし、輪違屋の美女たちがやってくると、雰囲気も多少は和らいだ。
水口藩側がお詫びの席を設けるといった体裁なので、呼ばれたのは浪士組の酒席でお馴染みの顔ぶれである。
華麗な花香太夫、妖艶な花君太夫、可憐な糸里天神、御侠な一之天神。
ここに、不機嫌な明里天神(中沢琴)が加わって、ごく穏やかに酒宴は始まった。
これが悪夢のような夜になろうとは、このとき、芹沢以外の誰もが想像していなかった。
芹沢が真っ先に目を付けたのは、目新しい明里天神(琴)だった。
もちろん、芹沢ら水戸派は、琴の完璧なメイクに欺かれて、それが新入り隊士の楠小十郎と同一人物とは露ほども気づいていない。
「なあ、あんたみたいのを、こっちじゃ別嬪さんっていうんだよな?」
琴は目を細め、口の端を少しだけ持ち上げて、巧妙に笑顔を作った。
「嬉しい。先生みたいなのを、こちらじゃ世之介(女たらしの意)って呼ぶんです」
「ハ、喜ばせてくれるじゃねえか。こっちに来て飲め」
「光栄ですけど、よろしいんですか?わたし、別嬪どころか、廓じゃ嘉志久女郎なんて綽名されてるんですよ?」
琴は、酌を迫る芹沢を煙に巻いた。
「嘉志久?」
「そう。飯炊き専門で、客とは寝ないって意味」
独りで杯を傾けていた新見錦は、聞き覚えのある声の主に思い当たり、ハッと顔を上げた。
関門海峡に赴く前、最後に酒を飲んだ女だ。
目が合った瞬間、琴が小さくウインクすると、新見は何かを察したように、黙って視線を外した。
琴の恋人、山南敬介が、そんな二人の合図に目敏く気づいて、顔をしかめる。
芹沢は、お気に入りの大鉄扇で、ポンと自分の膝を打った。
「なるほど、『炊く』ってわけか。岡場所じゃあるまいし、そんな天神など聞いたこともねえが」
「それでも、今日みたいに手が足りないときなんか、こうしてお誘いがかかるんです」
「ふん…そういえば仲居の姿が見えんな」
芹沢は面白くもなさそうに鼻を鳴らすと、座敷を見渡した。
相変わらず場の空気を読まない沖田が、話題に乗じて軽口をたたく。
「芹沢さんが、尽忠報国の士なんて名乗るのもどうかと思いますよ」
芹沢は、それを受けて明里にニヤリと笑いかけた。
「お聞きの通り、俺はならず者でな。抱けないと言われれば、余計抱きたくなる」
「では、口説いてごらんになれば?」
琴は、はぐらかすように挑発した。
新見がコトリと盃を置き、
「なにも飯盛女の酌で飲むこともないでしょう」
さりげなく口を添えると、花香太夫がすかさず芹沢に侍った。
「そうどすえ。芹沢先生は今日の主賓なんやし」
二人のフォローで琴は上手く芹沢をあしらって、山南の傍らに避難した。
「ずいぶん新見さんと息が合ってるじゃないか」
盃を一口で煽った山南が皮肉ると、琴は少し嬉しそうな顔で銚子に手を添えた。
「あら、こんなに放ったらかしといて、ヤキモチ?」
「バカ」
「けどこの調子じゃ、貴方だけにかまってあげる訳にも…」
酒宴もようやく興がのってきたという頃合いで、
芹沢が立ち上がり、上座から皆に問題の書状をひらひらと振ってみせた。
「おう、みんな!この詫び状の件だがな。こんな手形を振り出したことが世間様に知れちゃあ、水口のお歴々にとって非常に都合が悪いそうなんだ。だから、ここは酒と肴と綺麗どころに免じて、こいつを謹んでお返ししようと思うが、どうかね?」
隊士たちは、口々に感想を述べたが、そのほとんどが下世話な冗談か、口汚い野次だった。
芹沢の動議はパフォーマンスで、もとより誰の許可を求める気もなかったが、ただ新見にだけは念を押した。
「新見、いいな?」
「ええ。別によろしいのでは」
新見の声には、以前の冷たさはなく、むしろ何の温度も感じられなかった。
間を取り持った剣豪戸田一心斎は、すっかり面目を潰されて終始不機嫌だ。
佐伯がパンと手を打ち鳴らした。
「よっしゃ!ほな、これにて手打ちでんな。おい!戸田先生と局長の酒が切れとるやないかい!なにしとんねん、早よ持ってこんかい」
山南は店の対応に渋面を作った。
「不味いな。どうなってる?」
琴が肩を寄せてささやく。
「ここの主人ね、以前、芹沢との間に色々あってヘソを曲げてるみたいなの。『色々』のところは省くけど、店の仲居に接客させるつもりはないって」
「経緯は、だいたい想像はつくからいい…え?じゃあ、君たちだけ?」
「そうみたいね。行ってくる」
琴は席を立って、階下に追加の酒を頼みに行った。
一方。
そうした緊迫感を察しない原田左之助は、無頓着に残された酒を胃袋に流し込んでいく。
「なあ聞いてくれよ、傾城。こいつら、俺の話を信じないんでやんの」
酌をする一之天神の肩を抱き寄せながら、座った眼で仲間たちを見渡す。
「なんどす?」
一之が小首を傾げると、永倉が、
「またその話かよ!猿猴だかいう物の怪がいるとかいないとか。いーのいーの、どうせ退屈な話なんだから放っとけば」
そう言って、一之の腕を引き寄せる。
聞き上手の一之天神は、永倉の盃と原田の承認欲求の両方を満たした。
「へええ。うち、聞きとおす」
原田は、自分から一之に這い寄って熱っぽく語り出した。
「だから、河童に毛が生えたみたいなバケモンでね…」
「お!嵐山の話しの続きか?」「それは興味深い」
信じやすい松原忠治と河合耆三郎は、焼いた鮎を咥えながら身を乗り出した。
「…だから猿猴はホントにいるのよ。なあ?」
原田は、水口藩士と話していた藤堂平助の肩を揺すって同意を求めると、
「は?あ、あー。ええ」
藤堂は迷惑そうに、おざなりな相槌を打った。
「あれ?なに?おまえひょっとして信じてないでしょ?あんな、土方さんのインチキカッパ話は信じたくせに!」
「いえ、あれも別に信じちゃいないっす」
「だよなあ」
阿部が深々と頷いた。
戻ってきた琴が上座に酒を給仕している最中に、
仕出し屋の料理が届いて、廊下には重ねられた膳が渋滞し始めた。
「どうした?!酒がねえぞお!」
「料理が遅すぎねえか?」
平山五郎や野口健司も騒ぎ始め、とうとう一之天神や糸里天神も配膳に追われることになった。
仏生寺を売ったという女中どころか、この店の女中がひとりもいない。
酒が進むほどに、芹沢の目も座ってきて、
「なるほど、そうきたか」
と薄気味の悪い笑みを浮かべ、だんだんと口数も少なくなってくる。
平間のいう「危険信号」である。
「おい!仲居はどうした?!」
また誰かが叫んだ。




