墓標
島原遊郭。
琴がいつものように夜遅く輪違屋に帰って来ると、寝室に、といっても大部屋だが、花香太夫が待ち構えていた。
「明里、ちょっとお願いがあるのやけど」
「はい?」
小さく眉間に寄せた皺に、警戒心が滲む。
あの淫らな誘惑以来、積極的な接触を避けてきた相手だった。
花香は遊妓たちの寝静まった部屋から、琴をもう一度廊下に引っ張り出した。
「あんた、いま休業中なんは承知どすけど、明日のお座敷だけ、付き合うてくれへんやろか」
プライベートのお誘いではないことを知って、琴は緊張を解いた。
「それはまあ、太夫の頼みなら。けど、どうして?」
「ちょっと訳アリのお座敷どしてなあ。お客は例の壬生浪や。ほんで主賓は、あの酒乱の局長はんどす」
「あーなるほど」
「しかも、この宴席ゆうのが、なんや加藤屋敷(水口藩)とのイザコザが発端らしゅうて。…ほれ、河原町に直心影流の大きな道場がおすやろ?そこの先生が仲裁に入らはって、ようやく収まったんやけど、結局、詫びを入れた水口藩の方が、手打ちの席を設けることになったらしいんよ」
「じゃあ、藩の公用方あたりが、ご機嫌をとってくれるでしょ?」
花香はさらに声のトーンを落として、琴に顔を近づけた。
「かもしれへんけど、たぶん水口藩もご存じない裏事情がおすのや」
ここまでの経緯は琴も聞いていたが、なにやら雲行きが怪しくなってきた。
「その芹沢ゆうのが、角屋にずいぶんツケを溜め込んどって、しかも酔うた勢いで女中に手え出したりするもんやさかい、主人は自分とこの子を、お座敷に出さんて言うてはるのや」
「え?じゃあ、給仕も私たちだけで?」
花香はここで、じっと琴の眼を見つめた。
「…どない?」
「…ちょ、顔、近づけないで!分かりました!私も行きますから」
琴が承諾すると、花香はなぜか唇を尖らせた。
「なんやつまらん。あんたが渋ったら、色仕掛けで落としたろ思たのに」
琴は、大部屋に後ずさり、花香を突き飛ばして襖をピシャリと閉じた。
「ほんと、悪趣味ね!」
蒸し暑く寝苦しい京の夜、琴は、うっすらと聴こえる虫の声を聴きながら色々と考え事をするうちに、ここ数日の疲れも手伝ってようやくウトウトと微睡に堕ちて行った。
しかし、寝返りを打った途端、すぐそばに人の息遣いを感じて、また花香太夫が襲ってきたものと跳ね起きた。
「姐さん、ふざけるのも…!」
声を荒げると、しかし相手もひどく驚いた様子で、足をくずしながら畳に後ろ手を突いた。
「あ、あーびっくりした。起きたはったん?大声出しな」
琴は目をこすりながら暗闇に目を凝らした。
薄紅色の長襦袢を着た桜木大夫が唇に人差し指を立てている
「太夫?こんな時間にどうしたんです?」
「堪忍え?ちょっと内密の話しがおしてなあ」
桜木が、形の良い眉を八の字に寄せると、それだけで妙な妖艶さがある。
「内密の?」
琴は、桜木に誘われて、また廊下に出た。
廊下の羽目板が素足にひんやりと心地よかった。
「桂先生から聞きましたんやけど、東山で先生方の密議に賊が押し込んだんやて」
琴の眼が小さく見開いた。
「賊、ですか?」
「そや。どうやら例の壬生浪の仕業らしゅうて、奉行所やら守護職に謀議の廉で訴え出たそうどす。そやけど、あまりに話が大きすぎたせいか、今のとこ何処にも本気で取り合うてもろてへんみたい」
桜木は、いわゆる勤王派から贔屓にされている芸妓で、長州の祐筆、桂小五郎の愛人と言われている。
無自覚に傷口をえぐってくる桜木の言葉に、琴は苦々しい気持ちで相槌を打った。
「なるほど。だったら、ひとまずは安心じゃないですか」
「アホ言いな。聞かれた計画は本物どす。明里、あんた明日花香太夫のお座敷に出はるんどすやろ?」
桜木は、そのお座敷の主賓が浪士組の筆頭局長であることもすでに知っているらしい。
「あ、ええ」
「もしお座敷で『攘夷親征』ゆう言葉が出たら、うちに知らせとくれやす」
もう間違いなかった。
やはり、隊内の話が桂小五郎、長州側に漏れている。
しかも、内容から察するに、それは琴のごく身近にいる誰かだった。
翌日。
三条大橋の北東、法城山晴明堂心光寺にて。
陽光が石畳に白く反射し、蝉の声が遠くで重苦しく響いている。
仏生寺弥助の墓前に、永倉新八と芹沢鴨が二人、立っていた。
「ふん、ご立派な戒名までもらっちまって、冗談きついぜ。なあ、仏生寺さん、これでも飲んで、正気を取り戻しなよ」
芹沢鴨はそう言って、「仙徳院及豊居士」と刻まれた墓石に、柄杓で荒っぽく水をかけた。
飛び散った水滴が芹沢の着物の裾を濡らす。
「んじゃ、またな。京にいるうちに、もう一遍くらい、顔を出すよ」
それだけ言うと、芹沢は身を翻した。
「よお、手を合わせていかなくていいのか?」
永倉がその背中に声をかけて呼び止めた。
芹沢は振り返ると、どこか寂しげに口元を歪めた。
「やめとくよ。こんな時代だからな。どうせまた、すぐ会えるさ。俺はただ、旦那が本当にくたばったのか、この眼で確かめに来ただけだよ」
「ちぇ、らしくねえなあ」
永倉はいつになく弱気な言葉を吐く芹沢を、わざと突き放すように腐した。
「どうも、こういう場所は苦手でな。先に行くぜ?今日は水口藩のおごりで宴会だ。遅れんな」
芹沢は捨て台詞を吐いて、さっさと行ってしまった。
永倉は芹沢の後姿に苦笑して、仏生寺の墓に向き直って静かに手を合わせた。
背後に忍び寄るような人の気配を感じても、永倉は振り返らなかった。
「なんだよ?俺と芹沢さんが果し合いでもするんじゃねえかって、心配してつけてきたのか?」
藤堂平助は、永倉に菖蒲の花束を差し出した。
「そんなんじゃありませんよ。これ、道すがら咲いてたんだ。この時期にゃ珍しいでしょ?」
「時代遅れの旦那にゃお似合いだな」
「…剣のみに生きた男、か」
藤堂がつぶやく。
「んな、かっこいいもんじゃねえよ」
永倉は憎まれ口を叩きながら、遅咲きの菖蒲とユニコーンの根付をそなえた。
藤堂は俯いて、足元の小石を蹴っ飛ばした。
「どうかな。オレは伊東先生に感化されて、少々アタマでっかちなとこもあるが、そんなオレですら、まだ少しは信じてるんだ、剣の力を。古臭い武士道ってやつを、まだ捨てきれないんスよ」
「けっ、言ってろ。こっちがこっ恥ずかしくならあ」
「けどなんつーか、気が付けば時代の流れから独り取り残されて、それでもまだ剣だけで世界に立ち向かえるって信じてるなんて。バカだけど、そういう生き方を否定されるのって、なんだか悔しいじゃないスか」
「ハ、やめとけやめとけ。見ろよ…剣のみに生きた男の…これが末路さ」
永倉は何かに腹を立てているような口ぶりで、ギリと歯を食いしばった。
藤堂をその場に残したまま、永倉は一度も振り返ることなく、陽炎の立つ墓地を立ち去った。




