翠紅館会議 其之伍
「それを抜く気なら、死ぬ覚悟を決めなさい」
琴は、小鉄の言葉を借りて警告した。
「なんで?死ぬのは僕じゃない」
躊躇なく抜き放ったその刀は、彼の丈に合わせて長くはないが、目立って反りが深い。
琴と少年の刀は、激しく火花を散らした。
少年の有利は明らかだった。
なぜなら琴は、少年を傷つけまいと手心を加えている。
足場の悪い茂みの中で苦戦しながらも、琴は何度も少年の刀を弾き返した。
「自分たちが何をやろうとしてるか分かってるの?上手くいきっこない」
「ああ、ちゃんと分かってるよ、お姉さん。あなたたちこそ、(老中)小笠原なんかにまんまと油揚(徳川家茂)を攫われて、今どんな気分?これからどうするつもり?」
落下の衝撃で気を失っていた小鉄は、剣戟の音に目を覚ました。
「いててて」
木の枝がクッションになったのか、大きな怪我こそなかったが、節々が痛む。
足を引きずりながら音のする方に向かった小鉄は、
ひらひらと舞うように剣を交える二人に眼を奪われた。
この蒸し暑さの中、双方、汗すらかいていない。
まるで、この世のものならぬ存在、狐火が飛び交う様を思わせる。
琴の薙いだ刀は、また少年にヒラリと交わされた。
「別に幕府方に肩入れする気はないけど、公方様は老中に連れ去られたわけじゃないでしょ」
「同じことだと思うけどね。小笠原は命拾いしたよ。朝廷が妙な横やりを入れて奴らを大坂に足止めしなければ、都に足を踏み入れた瞬間、僕が首を掻き切ってやるつもりだったのに」
「そんなことをすれば、大勢が死ぬ」
「それって、異人に媚びへつらう奴らのこと?あんなのは畑の野菜と一緒さ。時勢を説いたところで、どうせ理解もできない。いい頃合いで刈り取って、漬物にするくらいしか、使い道はないんだ。奴らが何人死んだところで、それがどうだって言うのさ」
「ふざけないで!」
思わずカッとなり踏み込んだところで、琴は蔦に脚を絡み取られた。
「しまっ…!」
琴の短い叫びに、小鉄はハッと我に返った。
隙ありとみた少年は、また身体を深く沈める。
「多分、あなたの方が強かったのに、運が悪かったね」
しかし、逆袈裟斬りのモーションに入ったところで、
小鉄の長ドスが少年の袖口を松の木の幹に縫い付けた。
「くっ!」
動きを封じられた少年は、体勢を崩し、刀を取り落とした。
しかし、軌道を逸れた刀は、小鉄の右肩に傷をつけていた。
「やれやれ、ガキの思い上がりは始末に負えんなあ?少々、お灸を据えてやらなあかんみたいや」
小鉄は右腕から滴る血など気にも留めず、短刀を抜いた。
「…またおまえか」
少年は憎悪に燃えた眼で、小鉄を睨め上げている。
しかし、
「おーい、河上―っ!何処だ―っ?!」
「大丈夫か―っ?!」
遠くから叫ぶ声が聴こえて、
松林の隙間から、翠紅館の攘夷志士たちがゾロゾロ斜面を降りてくるのが見えた。
琴は巻き付いた蔦を引きちぎると、小鉄に駆け寄った。
「大丈夫?」
小鉄は「河上」と呼ばれた少年の刀を踏みつけながら、強がってみせた。
「なに。こんなもんカスリ傷じゃ。今さら、一つ二つ傷が増えたとこで、なんてことあるかい」
琴がその刀を拾い上げ、遠くに投げ捨てると、
小鉄はそれを目で追いながら少年に尋ねた。
「同田貫(肥後の名刀)か。えらい分不相応な得物を持っとるやないか。小僧、おまえ肥後か」
少年は応えず、気が抜けたように、その場に座り込んでいる。
「それじゃ。さよなら、坊や」
琴はひとこと掛けると、小鉄に肩を貸した。
そのまま木々の間を縫うようにして難を逃れた二人は、
一町(約110m)ほど行ったところで、低木の茂みに身を潜めた。
琴は、胸に巻いていた晒を解くと、それを細く裂いて小鉄の腕を締め付けた。
「ねえ」
「あ?」
包帯を巻く琴の横顔を見つめながら、小鉄はぶっきらぼうに応えた。
「郷目付だったうちの父もね、お城でご家老とケンカして、そのまま逐電(逃亡)したの」
「…え?それで?」
興味を引かれた小鉄は、続きを促した。
「それきり」
「それきりって、なんや。そのあと、家族はどうやって食うていってん?」
「最初は遠戚に身を寄せたけど、母と私の他に弟が二人もいたからね。すぐに煙たがられて、私は吉原(遊郭)に売られた」
「吉…え?…えらい簡単に言ってのけるやないか」
琴は包帯の結び目を作ると顔を上げた。
「別に。どう言ったって事実は変わらないし…。さ、とりあえずこれで血は止まる。あとでちゃんと医者に診せて」
「こんなお飯事で、いちいち医者にかかっとれるかい」
小鉄がまた減らず口を叩いたとき、
二人の頭上から、よく通る少年の声が響いてきた。
「勝山!…滝夜叉姫!…聴いてる?もし、次に会うことがあったら、 きっと君を殺す。きっとだ」
「…いったい、何者なの…?」
琴の呟きが届いたかのように、少年は続けた。
「僕は肥後勤王党、河上彦斎。覚えておいて。ああ、あと言い忘れたけど、元服して、もうずいぶん経つはずだから、次は子ども扱いしなくていいよ」
河上彦斎!
それは肥後藩士でも、随一と謳われた使い手の名前だった。
二人は目を見合わせた。
「あのガキ、ええ歳した大人やんけ!」
「なるほど。ただの見張り役じゃなかったわけか。どおりで手古摺るはずね」
「…ちゅうか、覚えとれよ。今度会うたら、ただじゃ済まさんからなあ!」
侠客は、腕に刻まれた刀傷を押さえながら、
彦斎への遺恨と琴への奇妙な連帯感が綯い交ぜになった、
なんとも言いようのない気分を味わっていた。




