初めて選んだ道
「珍し、一人で起きれたの?」
「うん」
姉ちゃんは、少しだけ目を丸くした。
いつもなら何度呼んでも起きない弟が、今日はもう制服に着替えていた。
「……どうしたの?」
「何が?」
「いや……」
「まあ、いいことだけどね」
「今日朝ごはんいらない」
そう言って机の上の1000円を取る。
「え?」
姉ちゃんが少し驚いた声を出した。
いつもなら、
「食べる」
と言って席につくから。
「……お腹空いてないの?」
「うん」
「珍しい」
「そう?」
「うん」
姉ちゃんは笑った。
「なんか、本当に変だね」
変じゃないよ、これが僕だよ。
*
東京。
日本で一番栄えている煌びやかな街。
そこに行って何をするんだろう。
何をすればいいんだろう。
そもそもお金は足りるのだろうか。
どうやって行くんだろうか。
なんで僕はついて行くんだろう。
苑乃のため?
……分からない
考えがまとまらないまま、通学路を歩く。
「お、今日は早いじゃん」
「うん」
「珍しいな」
「今日もK高の制服は最高だな」
紺色のセーラー服。
昨日、公園で泣いていた苑乃の姿が浮かぶ。
「……」
あれで、良かったんだろうか。
「おーい、聞いてる?」
「あ、ごめん」
「寝ぼけてんのか?」
*
どれくらい遠いんだろう。
電車で行くのか。
新幹線なのか。
いくらかかるんだろう。
財布の中身を思い出す。
千円札が一枚。
家に帰れば少しだけ貯金がある。
……全然足りない。
「宮下」
「……はい」
「次、読んで」
「あ……」
教科書のどこを読めばいいのか分からない。
隣の席の人が、小さく指を差してくれた。
「あ、ありがとうございます」
なんとか読み終える。
「珍しいな、宮下がボーっとしてるなんて」
教室が少しだけ笑う。
「……すみません」
また席に座る。
窓の外では夏の雲がゆっくり流れていた。
東京。
本当に行くんだろうか。
*
「明日からプールの授業が始まるからな。男子、水着忘れるなよ」
先生の声と同時に、教室が少しだけ騒がしくなる。
「やっとプールかー」
「水着どこやったっけ」
「明日雨じゃね?」
みんなが帰る準備を始める。
僕も鞄を持ち上げた、その時。
ピコン。
スマホが震えた。
『今日会える?』
苑乃からだった。
『うん』
『公園とうちどっちがいいかな?』
……。
少し考えてから打ち直す。
『家』
送信。
これくらいなら、自分で決めてもいいのかもしれない。
僕はスマホをしまって、ゆっくり席を立った。
「あ、一輝」
「また明日」
「うん」
校門を出る。
ポケットの中のスマホが少しだけ気になった。
『待ってるね』
*
『いらっしゃい』
「お邪魔します」
「今日は誰もいないから、上がって」
「うん」
昨日と同じ部屋。
昨日と同じはずなのに、少しだけ落ち着いて見えた。
「ジュース飲む?」
「うん」
コップが二つ置かれる。
「……」
「……」
「で」
苑乃が口を開いた。
「昨日の話なんだけど」
「うん」
「東京、本当に行く?」
少しだけ間が空く。
「……うん」
昨日は勢いだった。
でも、一晩経っても、その気持ちは変わらなかった。
「わかった行こう」
「…今から?」
「うん」
「今から!?」
「うん」
「電車あるかな」
「あるんじゃない?」
「いや、お金とか……」
「私の隠し貯金と父親の教育費」
「……教育費?」
「昨日、クレジットカードの口座解約したから」
淡々とした言い方だった。
まるで、他人の話をしているみたいに。
「……そんなことまで」
「もう戻る気ないもん」
「……本当に行くんだね」
「うん」
その返事には迷いがなかった。
昨日の夜、公園で言った「東京」は、慰めのための言葉だと思っていた。
でも違った。
苑乃は、本当に東京へ行こうとしている。
「ねぇ、かずみくん…」
「本当に来て大丈夫?」
返事が出てこない。
家族の顔が浮かぶ。
姉ちゃん。
母さん。
学校。
毎日歩く通学路。
何も変わらない日常。
「……わかんない」
「でも」
「帰っても、昨日までと同じ毎日があるだけだから」
「家でも、学校でも」
「僕じゃなくても代わりは務まる」
「でも」
「昨日、君に『東京に行こう』って言ったのは僕だから」
苑乃は少しだけ目を伏せた。
ほんの一瞬、何か言いたそうな顔をしたけれど、結局何も言わなかった。
「……」
「じゃあ、二人で行こっか」
「うん」
その返事だけでよかった。
東京がどんな街なのかも。
この先どうなるのかも。
何一つ分からない。
それでも――
初めて、自分で選んだ道だった。
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