第60話 最後のプールと、先生の企み、そして遠足前夜
チェスガン学園のプール授業が始まってから二ヶ月。照り付ける夏の日差しの中で始まった水泳の授業も、今日で最後だった。
最初は水に顔を付けるだけで大騒ぎだった生徒もいた。泳げない者もいた。水を怖がる者もいた。だが二ヶ月という時間は思っていた以上に長かったらしい。
「ふむ……」
プールサイドで腕を組んでいたロナルド先生が、妙に感慨深そうな顔で呟いた。
「今年の一年生は優秀だな」
そして先生の視線がこちらへ向く。嫌な予感しかしない。
「普通ならまだ水遊びの延長程度なんだが……」
ちらっ。
「今年は二十五メートル泳げる生徒が多すぎる」
ちらっ。
「しかも泳ぎ方が妙に洗練されている」
ちらっ。
完全に自分を見ている。
「先生」
「なんだ?」
「僕は悪くないですよ?」
「まだ何も言ってないぞ」
「顔が言ってます」
「ふむ」
否定しないんだ。この先生、最近どんどん扱いやすくなってきた気がする。いや、単純に油断しているだけかもしれない。
★
「しかしなぁ……」
ロナルド先生は再びプールを見渡した。その先ではクラスメイト達が元気に泳ぎ回っている。
ブラットは豪快なクロール。ブルーノは無駄にフォームが綺麗だ。クライブはなぜか犬かきが異常に速い。シンシアさんは眼鏡を外して必死に平泳ぎ。コーデリアさんは楽しそうにクロール。
そして――エレナは水面を走っていた。
「相変わらず意味が分からないな……」
自分は思わず呟く。今でも理解できない。魔法じゃない。スキルでもない。純粋な身体能力だけで水面を跳ね回っている。猫って何だっけ?
「レイ」
「なんです?」
「お前、本当にエレナに勝ったのか?」
「勝ちましたよ?」
「どうやって?」
「僕も知りたいです」
先生が吹き出した。
「それは本人が言う台詞じゃないだろ」
だって本当にそうなんだから仕方ない。あの日勝てたのは【パラレル思考】と【魔導】の進化と、エレナの油断と、自分の執念が全部重なった結果だ。今やったら勝てる気がしない。むしろ最近のエレナはどんどん強くなっている。怖い。幼なじみが怖い。主に身体能力が。
「それにしても……ブラットとブルーノは速いな」
確かに速い。二人とも既に自分より速い。地味にショックである。前世ではそこそこ泳げたのに。
「先生」
「なんだ?」
「教えた側が追い抜かれる気持ち分かります?」
「分からんな。俺は基本的に追い抜かれる側じゃないからな」
「うわぁ……」
「その反応は何だ」
「ちょっと腹立ちました」
「素直だな」
先生が笑う。悔しいが、この人はこういう時だけ格好いい。普段は結構残念なのに。
★
「しかしな」
ロナルド先生は少しだけ真面目な顔になった。
「一年生でここまで泳げるなら、二年生から面白くなりそうだ」
「……何を企んでるんです?」
「企んでない」
嘘だ。絶対企んでる。
「先生、顔が悪人ですよ」
「俺は善人だ」
「自分で言う人は怪しいです」
「それは否定できん」
納得するな。先生としてどうなんだ。
そんな会話をしていると。
「レイくーん!」
「レイさんー!」
コーデリアさんとシンシアさんがこちらへ向かって泳いできた。最近この二人は本当に仲が良い。というか何故か自分もセット扱いされている。
「レイくん、一緒に競争しましょう!」
「レイさんも泳ぎましょう!」
満面の笑みだった。断れる空気ではない。
「分かった分かった」
自分は観念してプールへ入る。冷たい水が気持ちいい。あと少しで秋だ。この感覚もしばらく味わえなくなる。
「じゃあスタート!」
コーデリアさんの掛け声で泳ぎ始める。
結果は――三位だった。
一位はブルーノ。二位はブラット。三位の自分。
「ぐぬぬ……」
納得いかない。
「レイくん遅かったですね!」
「レイさん頑張ってください!」
「二人とも慰め方が雑じゃない?」
すると水面を歩いていたエレナがやって来た。
「レイは運動音痴だから仕方ないにゃ」
「誰が運動音痴だ!」
「レイにゃ」
「即答!?」
ひどい。幼なじみがひどい。
★
そんな平和な時間が過ぎていく。だが一人だけ例外がいた。
「いやだぁぁぁぁ!!」
アランである。
「顔だけでいい! 顔だけ付けろ!」
「むりだぁぁぁ!!」
先生に捕獲されていた。二ヶ月経っても水への恐怖は克服できなかったらしい。
少しだけ同情する。でも。
ごめん。ちょっと面白い。
「レイ」
エレナが小声で言う。
「笑ってるにゃ」
「笑ってないよ」
「口元がにやけてるにゃ」
「気のせい」
「最低にゃ」
否定できない。
(アランが氷の魔大陸への恐怖を抱えている理由を聞いた後だから、笑う気にはなれないけれど……それはそれとして今は面白い)
複雑な気分だった。
★
こうして最後のプール授業は終了した。夏が終わる。そして秋が来る。そんな季節の変わり目だった。
★
数日後。ロナルド先生が教室へ入るなり大声を上げた。
「明日は遠足だ!」
教室がざわつく。遠足。前世でも何度も経験したイベントだ。だが異世界では初めてだった。
「目的地は学園近くの山だ!」
黒板へ地図が描かれる。
「昼頃にバーベキュー場へ到着。昼食後は自由行動。夕方には帰還する」
普通の遠足に聞こえる。本当に普通だろうか。異世界だから怪しい。
すると先生が案の定続けた。
「なお」
ほら来た。
「武器は携帯してもらう」
やっぱり異世界だった。
教室が一気にざわつく。
「先生!」
ブラットが手を挙げた。
「魔獣出るのか?」
「基本的には出ない」
「基本的には?」
「絶対とは言わん」
先生は肩を竦める。
「魔獣より猪や狼の方が可能性は高いだろうな」
なるほど。つまり出る可能性はある。
(帰り道の馬車で魔犬に遭遇した経験を思い出す)
あの時は元騎士団のおじさんがいなければ終わっていた。慢心は禁物だ。
「まあ安心しろ」
先生が笑う。
「何か出ても俺達教師が倒す。お前達は自分の身を守ることだけ考えていればいい」
その言葉には妙な説得力があった。実際、ロナルド先生は強い。普段は残念なだけで。
その言葉で教室の空気も少し落ち着いた。
★
その日の夜。自分は寮の部屋で遠足の準備をしていた。
『ますたー』
頭の中へセシリアの声が響く。
『またへんなものをつくっています』
「変なものじゃないよ」
多分。おそらく。きっと。
『そのじてんであやしいです』
最近のセシリアは妙に辛辣だった。学習しているのだろうか。
「遠足だからね。山へ遊びに行くんだ」
『おお』
感心したような声。
『たのしそうです』
「僕も楽しみだよ」
そう言いながら装備を確認する。
【魔導圧縮銃】 【脱兎のブーツ】 【神木の小太刀】
そして大量のポーション。
我ながら準備が良すぎる気もする。遠足だよね?冒険じゃないよね?
『ますたー』
「ん?」
『やまにはなにがいるのですか?』
「狼とか猪かな」
『おおかみ』
少し興味深そうな声だった。
『みてみたいです』
「僕は見たくないかな」
『どうしてです?』
「襲われるから」
『なるほど』
セシリアが納得した。
『ではみないほうがいいですね』
「そうだね」
自分は笑う。最近はこうして話す時間が少し楽しかった。誰にも言えない秘密を共有している相手。それがセシリアだった。
『ますたー』
「なに?」
『あしたはたのしみですね』
「うん」
そう。楽しみだった。異世界での遠足。友達との山歩き。バーベキュー。自由時間。きっと楽しい一日になる。
――何も起きなければ。
そんな嫌な予感を胸の奥へ押し込みながら、自分はベッドへ潜り込んだ。
明日は遠足。そして後に、自分は知ることになる。こういう平和な前振りの後に限って、大抵何かが起きるのだと。




