第6話 人生初魔法と、異世界の住人になった日
【クリーン】を習得してからというもの、自分は落ち着かなかった。
理由は単純だ。
使いたい。とにかく使いたい。頭の中はそればかりだった。
前世でゲームを遊んでいた頃、新しいスキルを覚えたのに試さず終わるプレイヤーがいただろうか。少なくとも自分は違う。新しい武器を手に入れれば性能を確認する。新しいスキルを覚えれば訓練場へ直行する。そして使い倒す。むしろ試すために覚えると言ってもいい。
まして今回はゲームではない。現実だ。本物の魔法だ。異世界の、本物の魔法である。
興奮しない方がおかしかった。
(早く使いたい……)
何度そう思ったか分からない。
★
だが、ここで一つ問題があった。
ソフィアがほとんど部屋にいるのだ。
授乳、寝かしつけ、おむつ交換、抱っこ、歌を歌う、話しかける、自分を見つめて微笑む。前世では子育て経験が無かったため知らなかったが、赤ん坊の世話というのは想像以上に忙しいらしい。ほぼ付きっきりだ。
おかげで一人になる時間が全くない。
もし目の前で赤ん坊が魔法を使い始めたらどうなるか。想像するまでもない。大騒ぎである。
神童。神の祝福を受けた子。聖人の生まれ変わり。
そんな面倒臭そうな称号が飛んできそうだ。
(絶対に嫌だ)
目立つのは好きではない。前世でもそうだった。仕事は真面目にやる。責任も果たす。だが注目は浴びたくない。出来れば静かに生きたい。
だから今も同じだった。普通に育ちたい。少なくとも赤ん坊の間くらいは。
そのため、自分はひたすら待った。チャンスを。誰もいなくなる瞬間を。
★
そして――数時間後。
ついにその時がやって来た。
ソフィアが部屋を出て行ったのだ。
扉が閉まる。足音が遠ざかる。静寂。
完全な、一人の時間。
(よしっ!!)
内心で盛大なガッツポーズを決める。おそらく世界中を探しても、母親が部屋から出て行ったことをここまで喜ぶ赤ん坊はいないだろう。間違いなく少数派である。
そんなことを考えながら、ふと最近気になっていたことを思い出した。
ソフィアは時々、自分の右目をじっと見ている。かなり真剣な表情で。最初は気のせいだと思った。だが何度も続けば偶然ではない。
(やっぱり魔眼かな)
【鑑定の魔眼】。おそらく関係しているのだろう。鑑定中だけ瞳の色が変わるのかもしれない。魔法陣が浮かぶのかもしれない。前世で読んでいたファンタジー作品なら十分あり得る話だ。
(まあ今は確認出来ないけど)
鏡はない。歩けない。首もまだ完全ではない。赤ん坊というのは予想以上に不便だった。
だが今はそれどころではない。
人生初の魔法だ。こちらの方が百倍重要である。
★
【クリーン】を覚えた時、不思議な感覚が頭の中へ流れ込んできた。
説明書を読んだ後のような感覚。完璧ではない。だが何をすればいいのかは分かる。対象を決める。魔力を集める。魔法をイメージする。そして発動する。どうやらそれで良いらしい。
(意外と簡単そうだな)
もっと複雑だと思っていた。長い詠唱、魔法陣、杖、触媒。そういったものが必要だと思っていたのだ。しかし少なくとも【クリーン】には必要ないらしい。
そして考えているうちに、一つの可能性が浮かんだ。
(これって……覚えてない魔法も使えるんじゃないか?)
その瞬間、胸が高鳴る。
火を出す。雷を落とす。空を飛ぶ。結界を張る。前世で見たアニメやゲームの魔法だって再現できるかもしれない。もちろん希望的観測だ。だが可能性があるだけでワクワクする。
異世界に来た意味がある。そんな気がした。
だがまずは目の前の魔法だ。最初の一歩を成功させなければ何も始まらない。
★
問題は魔力操作だった。これが思った以上に難しい。
心臓付近に存在する暖かな流れ。それが自分の魔力だ。今では【魔力感知】のおかげで比較的はっきり分かる。だが分かるのと動かせるのは別だった。
心臓から腕へ。腕から手へ。手から掌へ。
たったそれだけ。しかし途中で散る。集中が切れる。まとまらない。何度やっても失敗する。
(難しいな……)
前世でプラモデルを作っていた時を思い出した。小さなパーツを接着する時のような繊細さが必要だった。少しでも気を抜けば失敗する。力を入れすぎても失敗する。ちょうど良い加減というものが、最初はまるで分からない。
だが不思議と嫌ではなかった。むしろ楽しい。
異世界に来て初めての魔法なのだ。楽しくないはずがない。
何度も挑戦する。失敗する。また挑戦する。前世でも、出来ないことを出来るようにする過程が、実は一番好きだったかもしれない。
そして。
ようやく――。
掌へ、暖かな流れが集まり始めた。
(きた……!)
自分の小さな掌の中。そこに淡い霧のような魔力が、渦を巻いている。暖かい。優しい。だが確かな力を感じる。
興奮で心臓が早鐘を打つ。
失敗したくない。ここまで来て失敗したら泣く。本気で泣く。
だから慎重に。慎重にイメージする。身体の汚れを取り除く魔法。綺麗にする魔法。浄化する魔法。
(クリーン!!)
心の中で強く念じた。
その瞬間だった。
★
掌の魔力が、弾けるように消える。
同時に――自分の身体が淡く光った。
「あうっ!?」
思わず声が漏れる。
眩しい。だが痛みはない。むしろ暖かい。心地良い。優しい光が身体を包み込んでいく。まるで春の日差しを浴びているような感覚。皮膚の表面を柔らかな風が撫でていくような感覚。
そして理解する。
これは。ソフィアが使っていた魔法と同じだ。
間違いない。成功した。魔法が発動した。自分が。この手で。本当に魔法を使ったのだ。
一瞬、思考が止まる。
信じられなかった。本当に出来たのか?夢じゃないのか?だが身体を包む暖かな余韻が現実だと教えてくれる。
(成功した……)
胸の奥から何かが込み上げる。
(成功した!!)
次の瞬間。歓喜が爆発した。
前世では存在しなかった力。どれだけ願っても手に入らなかった奇跡。それが今、自分の手の中にある。
もし立てる身体なら飛び跳ねていただろう。拳を突き上げていただろう。叫びながら走り回っていたかもしれない。
だが今は赤ん坊だ。
だから。
「あーうっ! あうっ! あうあうっ!!」
全力で手足をばたつかせた。
本人のテンションは人生最高レベルだった。しかし傍から見れば、ただ機嫌の良い赤ん坊でしかない。
それでも構わなかった。
★
自分は今、間違いなく異世界の住人になったのだから。
魔法使いへの第一歩を踏み出したのだから。
前世では仕事に追われ、趣味のゲームすら満足に出来なかった。魔法なんて夢の話だと分かっていながら、それでも憧れ続けていた。
だが今は違う。
この世界では、魔法は夢ではない。現実だ。自分が今しがた証明した。
(もっと覚えよう)
クリーンは始まりに過ぎない。この先に何があるのか、まだ何も分からない。だが分からないからこそ面白い。前世では答えが見えていたから辛かった。終わりの見えない残業。増え続ける仕事。それが当たり前の毎日。
ここは違う。
何が待っているか分からない。どこへでも行ける。何にでもなれる。
(楽しみだな)
そう思いながら、レイは小さな手のひらをじっと見つめた。
さっきまで魔法を宿していた手。まだ何も掴んでいない、赤ん坊の小さな手。
でもこれからは違う。
この手で、魔法を使うのだ。
こうしてレイは、誰にも知られることなく人生初の魔法成功を噛み締めるのだった。




