第5話 母という名の元冒険者【ソフィア視点】
【ソフィア視点】
レイが生まれてから、もうしばらくの時間が経った。
毎日があっという間だった。
朝起きて、授乳して、洗濯をして、家事をこなして、また世話をする。それだけの繰り返しなのに、不思議と退屈だと思ったことは一度もない。
むしろ逆だった。
気付けば一日の大半をレイのことばかり考えている。泣いていないだろうか。お腹は空いていないだろうか。体調は悪くないだろうか。
少し前までの私は、魔獣討伐やダンジョン攻略のことしか頭になかったというのに。
自分でも笑ってしまう。
きっと親バカなのだろう。それもかなり重症な。
だけど、それでいいと思っていた。
★
少し前までの私は冒険者だった。
旦那のレオンと仲間達と共にパーティーを組み、各地を旅していた。魔獣を討伐し、依頼をこなし、ダンジョンを攻略する。そんな生活を何年も続けてきた。
危険だった。辛いこともあった。何度も死にかけた。
けれど後悔はない。あの時間があったからレオンと出会えた。仲間達とも出会えた。そして今、こうしてレイにも出会えたのだから。
お腹に命が宿ったと分かった時、私は迷わず冒険者を引退した。
もちろん惜しくなかったわけではない。仲間達と旅をするのは楽しかった。新しい景色を見るのも好きだった。メイスを握る感覚も、ダンジョンの光景も、全部好きだった。
だけど、それ以上に守りたいものが出来た。
だから後悔はなかった。
レオンも反対しなかった。むしろ誰よりも喜んでくれた。あの日の顔は今でも忘れられない。普段はどっしり構えて滅多なことでは動じないくせに、私の妊娠を知った瞬間だけ子供みたいにはしゃいでいた。
あんなレオンを見るのは、後にも先にもあの時だけかもしれない。
★
そして私達は、モロットへ移り住んだ。
冒険者の街であるスカウトフォードから馬車で二日ほど離れた、小さな町。特別栄えているわけではない。有名な特産品もない。だけど穏やかで、優しい町だった。
子供を育てるにはちょうどいい。何より静かだ。
夜になれば虫の声が聞こえる。朝になれば鳥が鳴く。冒険者時代は野営の夜が当たり前だったから、こういう静けさが心に染みる。
今住んでいる家も気に入っている。庭は広い。建物も綺麗。しかも驚くほど安かった。最初は何か問題があるのではと疑ったくらいだ。
けれど実際に住んでみると、不便なところは一つもない。
レイが大きくなったら庭を走り回る姿も見られるだろう。そんな未来を想像するだけで、自然と笑みがこぼれた。
★
ただ一つだけ、寂しいことがある。
レオンが家にいないことだ。
子供を育てるにはお金が必要になる。だから今も彼は冒険者を続けている。私が抜けたことで高難度依頼は避けているらしい。
それでも冒険者は危険な仕事だ。絶対はない。どれだけ強くても、死ぬ時は死ぬ。私はそれを知っている。仲間を失ったこともある。
だから心配だった。
手紙が届くたびに安心する。返事を書くたびに無事を祈る。そんな日々を繰り返していた。
もっとも――レオン本人は全然気にしていないようだけど。
最近届いた手紙を思い出して、つい苦笑してしまう。
『レイに早く会いたい』
『レイは元気か?』
『今日のレイは何をしていた?』
『レイの髪は伸びたか?』
そんな内容ばかりだった。
出産に立ち会えなかったことを、今でも気にしているらしい。遠征中で間に合わなかったあの日、受け取った手紙には「本当に申し訳ない」と何度も書かれていた。几帳面なレオンらしくない、乱れた字で。
それだけ大切に思っているということなのだろう。
きっと帰ってきたら一日中抱きしめて離さないに違いない。そう考えると少しだけ可笑しかった。早く帰ってきてほしいと思う反面、あの顔を見たらきっとからかってしまうだろうな、とも思う。
★
そして視線は自然とベッドへ向く。
そこには小さな息子がいた。すやすやと、何の心配もないように眠っている。
本当に可愛い。何度見ても飽きない。
髪色はレオン譲りだった。金色。太陽の光を受けると特に綺麗に見える。それを見るたびに「やっぱりレオンの子だな」と思う。
きっと雷属性を受け継いでいるだろう。もしそうなら、いつか稲妻みたいに駆け回る息子が見られるかもしれない。
そして何より特徴的なのは、その瞳だ。
左目は金色。右目は黒色。左右で色が違う。
生まれた時に見た瞬間、思わず息を呑んだ。
魔眼。
そんな言葉が頭をよぎったからだ。
もちろん確定ではない。異なる瞳の色を持つ子供は、稀に存在する。だけど魔眼保有者にも同じ特徴がある。左右非対称の瞳。それが魔眼の証のことがある。
もし本当に魔眼なら――。
将来は大変かもしれない。魔眼は便利な能力ばかりではない。危険なものも存在する。制御を覚えるのに時間もかかる。幼い頃に制御できず、周囲に迷惑をかけてしまうケースも聞いたことがある。
けれど同時に、大きな才能でもあった。だから楽しみでもあった。
レオンが知ったら喜ぶだろう。間違いなく喜ぶ。そして調子に乗る。「やっぱり俺の息子だ」とか言い出す姿まで目に浮かんだ。
まったく、あの人は。
★
だが最近は、別のことも気になっていた。
レイはほとんど泣かない。
本当に、驚くほど泣かない。
周囲の母親達から聞いていた育児の苦労話。夜泣き、癇癪、寝不足。そういったものがほとんど存在しないのだ。
もちろん助かっている。体力的にも精神的にも、どれだけ楽かしれない。
だけど、少し不思議でもあった。
生まれたばかりの赤ん坊は、泣くのが仕事のはずなのだ。お腹が空いても、眠くても、何となく不快でも、泣いて訴えるのが普通だと聞いていた。
なのにレイは、泣く前にこちらが気付いてしまう。
じっとこちらを見ている。何かを訴えるように。何かを考えるように。
そして時々――本当に時々だけど――レイから知性を感じることがある。
こちらの言葉を理解しているような。
何かを考えているような。
そんな目で見つめられることがあるのだ。
先日も、魔力視を使って部屋の魔力を確認していた時だった。
ふと視線を感じてレイの方を見ると、じっとこちらを見ていた。それだけなら普通だ。だが何というか……その目が違った。好奇心のような、理解しようとしているような、真剣な光があった。
思わず「どうしたの?」と声をかけると、レイは小さく手足をばたつかせた。
機嫌が良い時の動きだ。
(この子……本当に何か分かっているのかしら)
そんな考えが頭をよぎって、自分で苦笑した。
もちろん気のせいだろう。まだ赤ん坊なのだから。そう思う。
思うのだけれど――どうしても気になってしまう。
もしかすると魔眼の影響なのだろうか。あるいは私達が知らない何かがあるのだろうか。
答えはまだ、分からない。
★
だけど一つだけ、確かなことがある。
どんな才能を持っていても。
どんな職種になったとしても。
この子は私達の大切な息子だということだ。
強くなくてもいい。有名にならなくてもいい。危険な道を選ばなくていい。冒険者なんて目指さなくていい――というのは少し親の勝手かもしれないけれど。
ただ幸せになってほしい。
それだけでいい。
私はそっとレイの頬を撫でた。するとレイは少しだけ気持ち良さそうに身じろぎして、小さな手をぎゅっと握った。
その仕草があまりにも愛おしくて、胸が温かくなる。
「ふふっ……」
小さく笑う。
レオンに手紙を書こう。今日のレイのことを、細かく全部。きっと読んで悔しがる。早く帰りたいと思うに違いない。
それくらいでちょうどいい。
あの人には、もっとこの子の成長を焦がれていてもらわないと。
私は今日も、愛しい息子の寝顔を見つめながら、静かな時間を過ごすのだった。




