第48話 帰り道の魔犬と、おじさんの勇気と、まだ足りない
週末の帰省を終え、自分たちはいつものように【チェスガン学園】へ戻るため馬車に揺られていた。
春の陽気は穏やかで、空には白い雲がゆっくりと流れている。街道の両脇には青々とした草原が広がり、その向こうには深い森が見えていた。風が吹くたびに草が波のように揺れ、鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
実に平和だった。
モロットで過ごした数日間を思い返しながら、自分は窓の外を眺める。
お母さんは相変わらずだった。顔を合わせるたびに抱きしめられたし、学園で怪我をしていないか何度も確認された。父さんも帰る頃には悲しそうな表情をしていた。完全に過保護な両親である。
だが嫌ではない。前世では味わえなかった家族の温もりだ。それが少し嬉しかった。
向かいではブラットが干し肉を齧っている。エレナは猫のように丸くなり、気持ち良さそうに尻尾を揺らしていた。御者台では送迎担当の冒険者のおじさんが鼻歌交じりに手綱を握っている。
何事もなく学園へ着くだろう。
誰もがそう思っていた。
しかし――。
★
「うぅ……」
突然、御者台から苦しそうな声が聞こえた。
「ん?」
顔を上げる。おじさんの様子がおかしい。片手で腹を押さえ、顔色が見る見るうちに青くなっていた。
「おっさん?」
ブラットが立ち上がる。
「大丈夫かにゃ?」
エレナも心配そうに覗き込んだ。
おじさんは脂汗を流しながら無理やり笑う。
「へ、平気だ……昨日食った肉が悪かったみたいでな……」
そのまま御者台に座り込んだ。完全に限界だった。
(食中毒か……)
この世界では珍しくない。魔法はあっても衛生環境は前世の日本に遠く及ばない。保存状態の悪い肉を食べればこうなる。
自分は慌てて魔力を練った。
「ちょっと失礼します」
白い光が掌に集まる。
【クリーン】
浄化の光がおじさんを包み込んだ。
だが――何も変わらない。おじさんは相変わらず苦しそうな顔をしていた。
「駄目か……」
すぐに理由は理解できた。【クリーン】は汚れを落とす生活魔法だ。病気や毒を治す魔法ではない。食中毒なら【解毒】や【治癒】の領域なのだろう。お母さんの回復魔法が今すぐ欲しかった。
問題は別にあった。おじさんは完全に動けなくなっている。つまり馬車を動かせる人が居なくなったのだ。
エレナが前へ出る。
「おじさんは休んでると良いにゃ」
「そうだぜ」
ブラットも頷く。だがおじさんは周囲の森へ視線を向けた。その顔から笑みが消える。
「この辺は危険だぞ」
低い声だった。
「魔犬や魔兎の縄張りなんだ」
森を見る。確かに薄暗い。木々の間は視界が悪く、何が潜んでいてもおかしくない。普段は大人達が簡単に追い払っているため忘れがちだが、ここは魔獣の生息域だ。だから護衛がいる。だから冒険者が同行している。
ブラットが肩を回した。
「でも引き返したら授業に間に合わねぇ」
「そうにゃ」
エレナも頷く。二人とも以前より遥かに頼もしくなっていた。
自分も同じだ。昔なら不安しかなかった。だが今は違う。
【パラレル思考】【魔導】。以前とは比べ物にならない力がある。
「エレナ、馬車は動かせる?」
エレナは胸を張った。
「任せるにゃ!」
すると、おじさんが急に真顔になった。
「レイくん」
「はい?」
「お前だけは絶対に怪我するな」
「え?」
「絶対だ。もし怪我でもしたら俺がソフィアさんに――」
その瞬間。
「ああああああああっ!?」
突然絶叫した。
「お、おじさん!?」
「どうしたにゃ!?」
腹を押さえて転げ回る。そしてそのまま白目を剥いて気絶した。
沈黙。
「……」
「お母さんの名前で倒れたにゃ」
エレナが真顔で言った。どうやらソフィアは食中毒以上の脅威らしい。正直意味が分からなかった。
★
その後。エレナが御者台に座り馬を操る。ブラットが警戒。自分も魔力感知を広げて周囲を探る。
しばらくは何事もなかった。
だが――。
エレナの耳がぴくりと動いた。
「レイ」
声が低い。嫌な予感がした。
「どうした?」
「嫌な感じがするにゃ」
空気が変わる。今までの穏やかさが消えた。エレナの勘は滅多に外れない。
「数は?」
「まだ分からないにゃ」
「種類は?」
「それも分からないにゃ」
だが何かがいる。それだけは確信しているようだった。
「エレナ、速度を上げて」
「了解にゃ」
「ブラットは左右と後方警戒」
「任せろ」
同時に魔力を展開する。【魔導弾】十発。さらに【魔導壁】を馬車の周囲へ配置した。
以前より圧倒的に軽い。制御精度も高い。やはり【魔導】へ進化した恩恵は大きい。
そして――。
森の影が揺れた。現れたのは灰色の毛並み。赤い瞳。鋭い牙。
魔犬だった。
「来た!」
魔犬達は馬車を見つけると一斉に駆け出した。獲物を狩る肉食獣そのものだ。
★
自分は即座に【パラレル思考】を起動した。
世界が変わる。一つの思考が敵を追う。一つの思考が射線を計算する。一つの思考が次の攻撃を準備する。まるで頭の中に優秀な補佐役が何人もいるような感覚だった。
「撃て」
魔導弾が放たれた。
ドォッ!!
一匹の前脚に命中。魔犬が派手に転倒する。続いて二発。三発。四発。正確に脚だけを狙う。殺さない。追撃能力だけを奪う。
「すげぇ!」
ブラットが目を見開く。
「前より全然強くなってるじゃねぇか!」
自分でも分かる。以前ならここまで精密な制御は難しかった。だが今は違う。
ブラットの木剣が唸る。魔犬を正面から吹き飛ばす。エレナはさらに速い。低い姿勢から潜り込み、一瞬で脚を払う。転倒した敵へ追撃。完全に戦士だった。
自分は後方支援。魔導弾で牽制し続ける。危なげなく戦況を制圧していく。
そして最後の一匹を倒した――その瞬間だった。
「レイ!!」
エレナの絶叫。聞いたこともない声だった。
「後ろにゃああああ!!」
振り向く。そこに居た。
草むらに潜んでいた最後の魔犬。気配を完全に殺していた個体。距離は数メートル。既に飛びかかっている。
(まずい――)
避けられない。頭では分かる。だが身体が追い付かない。牙が迫る。
★
ドンッ!!
凄まじい衝撃が響いた。視界が揺れる。
目の前には――。
「おっさん!?」
気絶していたはずのおじさんだった。魔犬の牙がおじさんの腕へ食い込んでいる。それでもおじさんは笑っていた。
「危ねぇ危ねぇ……」
額に汗を浮かべながら安堵している。
「ソフィアさんに殺されるところだったぜ……」
そこなのか。まず心配するの。
次の瞬間。おじさんは魔犬の頭を掴んだ。そして。
握る。ただそれだけ。
ゴキッ。
頭蓋骨が砕けた。三人が苦戦した魔犬を、まるで虫でも潰すように。圧倒的だった。
「騎士団にいたからな」
おじさんが平然と言う。
「打たれ強さだけは自信ある」
それは打たれ強いのレベルじゃない。
そのまま安心したのか。
「うっ……」
再び腹を押さえる。
「おっさん?」
「駄目だ……」
バタリ。再度気絶。
「……」
「……」
「食中毒に負けたにゃ」
エレナが呟く。
「魔犬には勝ったのにな」
ブラットも呆れていた。
(……ありがとう、おじさん)
心の中でそう思った。声には出せなかったけれど、出せなかったからこそ、余計に重かった。
★
その後。何とか学園へ到着する。校門が見えた時、自分は小さく呟いた。
「まだ足りないな……」
今日、自分は死にかけた。おじさんがいなければ終わっていた。
どれだけスキルが増えても。どれだけ魔法が強くなっても。油断すれば死ぬ。それがこの世界だ。
「ああ」
ブラットが頷く。
「もっと強くならねぇとな」
「三人で強くなるにゃ」
エレナが笑う。自分も頷いた。
まだまだ弱い。まだまだ足りない。
だが三人ならもっと先へ行ける。そんな確信があった。
そしてこの出来事が、後に自分達の未熟さを痛感する数多くの戦いの始まりに過ぎなかったことを――この時の自分はまだ知らなかった。




