第8話 半年と、離乳食の洗礼
【クリーン】を覚えてからというもの、自分は毎日のようにスキルの研究を続けていた。
【魔力操作】
【鑑定】
そして新しい魔法の開発。
起きている時間の大半を、それらに費やしていると言っても過言ではない。
気付けば半年ほど経っていた。
……たぶん。
なぜ曖昧かといえば、この世界にカレンダーらしきものが見当たらないからだ。最初の頃は真面目に日数を数えていた。一日、二日、三日、十日、二十日、三十日――そして五十日を過ぎたあたりで、静かに挫折した。
理由は単純だ。
赤ん坊生活が、思った以上に単調だったのである。
寝る。起きる。ミルクを飲む。スキルを鍛える。眠くなる。また寝る。起きる。
その繰り返し。
(現場監督時代より単調かもしれん……)
前世では毎日何かしら事件が起きていた。職人が来ない。資材が届かない。図面が違う。工程が遅れる。上司から電話が来る。胃が痛くなる。
今は平和だ。驚くほど平和だ。
だが平和すぎて、暇だった。
最近では首もしっかり座った。寝返りも出来る。うつ伏せにもなれる。それでも活動範囲はベッドの上だけだ。
精神年齢三十八歳。肉体年齢推定六ヶ月。
(早く歩きたい……)
ベッドの上でごろごろ転がりながら、本気でそう思っていた。
★
半年も経つと、家族のことも少しずつ分かってくる。
特に父親。レオンについてだ。
彼は月に一度ほど帰ってくる。仕事が忙しいらしい。それは理解できる。問題は、帰ってきてからだった。
「おおっ! レイ!」
抱き上げる。
「大きくなったな!」
頬ずりする。
「可愛いぞ!」
また抱き上げる。
「父さんのことを覚えているか!」
また頬ずりする。
「よし、もう一回だ!」
さらに抱き上げる。
(親バカが重い)
非常に重い。愛情が。物理的にも、精神的にも。
レオンはイケメンだ。高身長。金髪。整った顔立ち。爽やかな笑顔。前世の現場仲間に見せたら全員黙るくらいには整っている。だから許されている部分がある。もし前世の上司が同じことをやったら、翌朝には労基に電話していた。
それでも悪い気はしなかった。
この人が自分を好きなのは、全身から伝わってくる。鎧越しでも、言葉が分からなくても、それだけははっきりと分かった。
★
そんなある日。
口の中に、微かな違和感を覚えた。
舌で触る。
硬い。少し尖っている。
(おっ)
歯だ。乳歯が生え始めた。
まだ一本。ほんの少し顔を出したばかり。噛むどころか触れるだけで痛い、そんな段階だ。
だが自分の頭の中では、それで十分だった。
(離乳食だ!)
半年以上、ミルク生活だった。さすがに飽きていた。どれだけ栄養があっても、毎日同じものを飲み続ければ飽きる。それは前世でも異世界でも変わらない。
ラーメン。チャーハン。ハンバーガー。焼肉。唐揚げ。ポテトチップス。
前世の味が、じわじわと恋しくなっていた。
「あうー!」
思わず声が出る。興奮しすぎた。
だが冷静になって考える。この世界の文明レベルは中世ヨーロッパ風だ。香辛料は高そう。調味料も種類が少なそう。出汁の文化があるかどうかも分からない。
(嫌な予感がするな……)
少しだけ、不安になった。
★
一方その頃、スキルにも新しい動きがあった。
ある日の朝、突然頭の中に情報が流れ込んできた。
【ボックスを取得しました】
(ボックス?)
試しに意識を向けてみる。すると目の前に透明な箱が現れた。
(おおっ!?)
普通の目では見えない。だが【魔眼】ではっきり確認できる。半透明の立方体。それだけなら地味だが、触れてみると感覚が全く違った。
形が変えられる。
大きくも小さくもできる。板にも、柱にも、壁にも。魔力を流し込むことで、自在に形を変えられるのだ。
(これ……凄くないか?)
気付いたら夢中になっていた。立方体。三角柱。階段。家。橋。塔。前世で使っていたCADソフトを思い出す。設計図を頭の中で立体化していた、あの感覚に近かった。
何時間でも遊べる。いや、研究できる。
(絶対に当たりスキルだろ、これ)
用途はまだ分からない。だが将来必ず役立つ。そんな確信だけがあった。
★
【鑑定】も地道に進化していた。
新しく増えた項目。
【状態】
これが地味に、しかし確実に便利だった。人なら健康状態。物なら破損状況。食材なら鮮度。特に食べ物との相性が良い。異世界で食中毒になっても笑えない。
そのせいで最近は食事を見るたびに反射的に鑑定してしまう。完全に職業病だった。前世でも現場の資材を見るたびに品質確認をしていた。あの頃から何も変わっていない気がして、少しだけ笑えた。
★
そして――運命の日がやってきた。
ソフィアが木の器を持って部屋へ入ってきたのだ。
湯気が立っている。温かそうだ。器の中にはスープらしきものが入っていた。野菜が見える。肉らしき欠片も少し浮いている。
(来たか……)
半年待った。本当に長かった。
異世界初の料理だ。期待しない方がおかしい。
(頼むぞ異世界グルメ)
期待を込めて口を開く。ソフィアが優しくスプーンを運んでくる。
ぱくり。
もぐ。
ごくん。
そして――。
(まずい)
衝撃だった。
いや、まずいというより――味がない。正確には塩味しかない。出汁がない。旨味がない。香辛料がない。深みがない。感動がない。ただひたすらに、塩だけが全力で主張していた。
(待て待て待て)
(この世界の料理どうなってるんだ!?)
前世ではラーメン作りが趣味だった。塩ラーメン一杯のために何時間も出汁を取っていたこともある。だからこそ分かる。これは塩味の料理ではない。塩スープである。塩スープそのものだ。
試しに鑑定する。
【野菜スープ】【状態・良好】【説明・野菜を煮込み塩で味付けした料理】
(そのまんまかよ!!)
心の中で叫んだ。良好って何が良好なんだ。塩が良好なのか。健康状態が良好なのか。どちらにしても旨さとは無関係だった。
★
だが問題は味だけではなかった。
野菜が、大きい。
そして、固い。
(いや待て)
(自分まだ歯が生えたてなんだが!?)
乳歯が一本、ようやく顔を出したばかりだ。噛むどころか触れるだけで痛い。こんな状態で挑む相手ではない。どう見ても硬さが段違いだった。
しかしソフィアは満面の笑顔だ。逃げられない。
ぱくり。
もぐ……もぐ……。
(噛めない!!)
当たり前だった。歯がないのだから。ぐちゃぐちゃとした感触だけが口に広がる。喉に詰まっては危険なので、固形物はそのまま押し返すしかない。舌で潰せるほど柔らかくもない。完全なる八方塞がりだった。
数分後、自分は静かに敗北した。
汁だけを飲み込む。それが精一杯だった。
異世界転生後、初めての敗北だった。
★
食事が終わった後も、自分はしばらく考え込んでいた。
味が薄い。野菜が固い。そもそも歯で噛めない。三重苦どころか三重壁だ。
(これは将来、料理改革が必要だな……)
本気でそう思った。
そしてふと、一つのことに気付く。
神様が与えてくれたスキル一覧の中に、【料理】があった。最初は意味が分からなかった。魔法でも戦闘でも生産でもなく、なぜ料理なのか。
だが今なら分かる気がした。
(この世界の食文化を見越して渡してくれたのか?)
もしそうなら、あれは必須スキルだ。むしろ最優先スキルと言ってもいいかもしれない。魔法よりも先に鍛えるべきだったかもしれない。
「あぅ……」
しょっぱい。
「あうー……」
味が単調。
「あぅぅ……」
野菜が固くて噛めない。
必死に訴える。だが当然、伝わらない。
ソフィアは嬉しそうに微笑むだけだった。息子が初めて離乳食を食べた。それだけで幸せそうだった。その顔を見ていると、文句を言う気も少し薄れてくる。
(違うんだ、母さん)
(愛情は伝わってる)
(でも料理は改善の余地しかない)
そうして自分は、新たな目標を定めた。
魔法の研究も大事。スキル育成も大事。強くなることも大事。
だが。
(いつか絶対に、美味い料理を作る)
ラーメン。カレー。唐揚げ。餃子。チャーハン。前世の味を、この世界で再現する。
それが異世界転生後、新たに生まれた人生目標だった。
そしてその決意が、後にレイの人生を大きく変えることになるとは――この時の自分は、まだ知る由もなかった。




