第8話 名前で呼ぶ距離
付き合い始めてから、何かが少しずつ変わった。
大きな出来事はない。
でも、小さな癖が変わるだけで、関係は別物になる。
「優作さん」
ある夜の通話。
その呼び方に、優作は少しだけ違和感を覚えた。
「ん?」
画面の向こうで、桃華が笑う。
「それ、もうやめない?」
「何を?」
「“さん”」
少しだけ間が空く。
「じゃあ、なんて呼ぶの」
優作が聞くと、桃華は一瞬だけ目を逸らしてから言った。
「サク」
それだけ。
でも、その一言が妙に軽くて、距離が一気に縮まった気がした。
「サク」
優作は小さく繰り返す。
「……変ですね」
「えー、いいじゃん」
桃華は笑う。
「なんか、恋人っぽい」
その瞬間から、空気が変わった。
呼び方が変わるだけで、関係は別のものになる。
敬語が少しずつ減っていく。
言葉の間が短くなる。
無駄な説明がいらなくなる。
「モモもさ」
優作がふと口にする。
桃華は少し目を丸くする。
「え?」
「桃華、長いから」
「モモ?」
「うん」
一瞬の沈黙。
そして、桃華は笑った。
「いいねそれ」
あっさり。
驚くほど軽く受け入れる。
「じゃあモモで」
その瞬間、関係が一段階深くなる音がした気がした。
それから二人の呼び方は自然に変わった。
『サク、今日なにしてた?』
『モモこそ仕事終わった?』
『ねえサクそれずるい』
『モモの方がずるい』
たったそれだけのやり取りなのに、距離が近い。
文字の間に、温度がある。
ある日。
夜の通話。
「サクさ」
「ん?」
「なんかさ、変な感じ」
「何が」
「距離近くなったのにさ」
桃華は少し笑う。
「逆に、もっと知りたくなる」
優作は画面の向こうの桃華を見つめる。
呼び方が変わっただけ。
敬語が消えただけ。
それだけなのに。
前よりずっと近い。
前よりずっと危うい。
「モモ」
優作が呼ぶ。
「なに?」
「なんでもない」
「なにそれ」
桃華が笑う。
その笑い方が、もう他人のものじゃない。
通話を切ったあと。
優作はスマホを見つめたまま、少しだけ考える。
“恋人になった”という言葉は簡単なのに。
実感は、こういう小さな変化の中にしかない。
呼び方が変わる。
距離が変わる。
そして気づけば、
もう元には戻れない場所に立っている。
サクとモモは、もうただの他人じゃなかった。




