資金難
執務室の窓からは大きな月が見えていた。机には書類の山が月光に淡く照らされている。
「独立の準備は滞りなく進んでいるか?」
静まりかえった室内に、低く落ち着いた声が響く。
「まぁ、なんとか……」
クレメンスの問いに、カルロスは気まずそうに視線を落とした。
準備は順調だった。
ただ、ひとつだけ大きな問題があった。
資金だ。
独立には、想像以上の金が要る。
貯めていた蓄えなど、あっけなく消えた。
借り入れには担保が必要だが、親の土地を差し出すことはできない。
これ以上、親に負担をかけるわけにはいかなかった。
クレメンスは静かな紫の瞳で、しばらくの間、カルロスをじっと見つめていたが、やがて背後の棚から文箱を取り出し、机に置いた。
視線で促され、カルロスは蓋を開けた。
中には通帳と保険証など、いくつかの書類が整然と収められている。
「お前が内弟子に入った時点で、共済には加入させてある。手続きに必要なものはそこに揃っている。後日、協会に行きなさい」
「……はい。ありがとうございます」
書類を戻し、通帳を手に取る。
表紙には、自分の名前が記されていた。
「これは……?」
ページを開く。
「積立金だ」
淡々と告げられた言葉に、カルロスは記帳された数字を追った。
内弟子に入った月から、途切れることなく入金が続いている。
最後のページを見た瞬間、カルロスは目を見開いた。
「お前の親御さんから支払われていた月謝がベースだ」
「え? でもそれじゃ、師匠の取り分が……」
「気にするな。内弟子の月謝など、私には些細なものだ。それに通いの弟子の分は、きちんともらっている」
クレメンスはそう言ったが、入金額は一定ではない。
カルロスは首をかしげた。
クレメンスはわずかに息をつくと、引き出しから分厚いノートを取り出した。
「これを見なさい」
ページをめくる。
そこには、日々の記録がびっしりと並んでいた。
調理の回数。
代理でこなした仕事。
町内の手伝いに至るまで。
「家事の一部は、家賃や食費と相殺している」
「いや……師匠……」
「調理回数は当番表を基準にした。多少の誤差はあるだろうが、そこは目をつぶってほしい」
「いや、そうじゃなくて……もらえないっすよ」
カルロスは首を振る。
「正当な対価だ」
その声は穏やかだが、拒絶を許さぬ硬さがあった。
「いや、でも……」
「師範取得後の私の弟子たちに対する指導料は、独立後に支払うつもりだ。それでいいか?」
「ちょ、待ってください」
思わず両手を上げて制する。
「不服か?」
「不服っていうか……多すぎますよ、これ」
本音を言えば、欲しい。
喉から手が出るほどに。
それでも、受け取ることはできない。
カルロスは拒むように身を引いた。
「カルロス」
クレメンスは静かに、諭すような声でカルロスの名を呼ぶ。
カルロスは反射的に姿勢を正し、「はい」と返事をした。
「資金はな、足りなくて困ることはあっても、多すぎて困ることはない。尽きれば終わりだ」
一旦、言葉を切り、カルロスの顔を見据える。
「魔術では、腹は満たされん」
「……」
カルロスは目頭が熱くなるのを感じた。
「……ありがたく、頂戴いたします」
少しの間の後、深々と頭を下げる。クレメンスは穏やかな笑みを浮かべた。




