出会い
幼いカルロスには、自分が置かれている状況がまったく理解できなかった。
覚えているのは、ただ一匹の珍しい蝶だけだ。陽の光を浴びて七色に輝く羽を、夢中になって追いかけていた。
気がついたときには、ここにいた。
崩れかけた高い生け垣の上。
地面は遥か下にある。
身をよじって動こうとした瞬間、パラパラと砂がこぼれ落ちた。恐怖に全身が強張る。
空を見上げれば、抜けるような青空が広がっている。
街の喧騒は遠く、辺りに人の気配はなかった。
「そこで何をしている?」
静かな声が下から聞こえてきた。驚きでも咎めるでもなく、ただ純粋に不思議そうな響きだった。
カルロスはゆっくりと声の方へ視線を向けた。
青年と言うにはまだ幼さの残る顔が、こちらを見上げている。
大人じゃない。
カルロスは肩を落とした。
この訳のわからない状況をどうにかできるのは、大人でなければ無理だと、幼いながらに思っていたからだ。
「降りられないのか?」
その一言で、カルロスはようやく自分の状況をはっきりと理解した。
降りられない。
そう、カルロスは降りられないのだ。
認識した途端、絶望が押し寄せる。視界がみるみる歪んでいった。
「大丈夫だ」
不意に耳元で声がして、カルロスの身体がふわりと宙に浮いた。
落ちる。
思わず目をぎゅっとつぶる。
しかし、落下の衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
足元には、しっかりとした大地の感触がある。
カルロスは恐る恐る目を開けた。
目の前には、先ほどの人物が立っていた。
彼は膝を折り、カルロスと目線を合わせる。
「怪我はないか?」
紫色の瞳がカルロスを覗き込む。
その瞬間、目から安堵の涙が溢れた。
「泣くな」
少し困ったように言いながら、彼はハンカチを取り出し、カルロスの涙を拭ってやる。ついでに鼻もかませてやる。
「……ありがと」
カルロスの言葉に軽くうなずくと、彼は無言でカルロスの手を取り、歩き出した。
少し進むと、人が行き交う通りへ出た。
「家は分かるか?」
そう問われ、カルロスはきょろきょろと辺りを見回す。見覚えのある景色に気づき、「うん」と力強くうなずいた。
「そうか」
彼はカルロスの手を離すと、そのまま雑踏の中へすたすたと消えていった。
カルロスはしばらくその背中を眺めていたが、気を取り直し、家路へと向かった。
――――――
「ってのが、俺と師匠の出会いだ。ですよね、師匠っ」
カルロスは目をキラキラさせながら、クレメンスに確認する。
「…………。……そういえば、そんなこともあったやもしれん」
クレメンスは表情こそ変えなかったが、紫色の瞳は微かに泳いでた。
「先輩。師匠、覚えてないみたいですよ」
ロジーナが小馬鹿にしたよな笑みでカルロスを見た。
「な、そんなことないっすよね、師匠」
「……」
クレメンスは遠くを見つめている。
「そんな……。師匠……」
「クスクス。師匠。私との出会いは覚えていますよね?」
ロジーナはクレメンスを見ながら、小首をかしげてみせた。
「うむ。覚えている。お前は建物を半壊させていた」
クレメンスの言葉に、ロジーナは勝ち誇った笑みでカルロスを見る。
「お、おめぇの場合は登場が強烈すぎたからだろ」
「先輩、負け惜しみはみっともないですよ?」
「師匠。こいつ、なんとかして下さい。ってか、思い出して下さいよ」
カルロスは縋るような目でクレメンスをみる。
「カルロス」
「はいっ」
期待に満ちた目を向ける。
「お前は、幼少期から救いようのない間抜けだったんだな」
カルロスは凍りついた。
「ぶはっ」
ロジーナは盛大に噴き出した。




