第九話 女王、買われることを拒む
《月花亭》の営業が終わった深夜。
店の扉を開けた麗華を待っていたのは、豪華な馬車と、その横に立つルシアンだった。
月明かりの下でも目立つ淡い金髪に、上等な外套。伯爵家の人間が夜の歓楽街に立っているだけで、道を行く人々は何度も振り返っている。
「こんばんは、ルシアン様」
「麗華」
「今日は店には来なかったのに、こんな時間まで待ってたんです?」
「ああ。話がしたかった」
「店の中じゃ駄目だったんですか?」
「二人で話したかった」
「……」
麗華は小さく息を吐いた。
後ろではエルザやアリア、セリア、それからルナまで心配そうにこちらを見ている。
「長くなります?」
「いや。一つ聞きたいだけだ」
「じゃあ、ここで」
「馬車に乗らないのか?」
「乗りません」
「何もしない」
「そういう問題じゃないですよ」
麗華は柔らかく笑う。
「私、何回も二人では出かけないって言いましたよね?」
「……ああ」
「なら、守ってください」
ルシアンは何か言いかけたが、結局飲み込んだ。
「分かった」
「ありがとうございます。それで?」
「先日の商会の件だ」
「ああ」
「父に話した」
麗華の表情が少し変わる。
「どうでした?」
「最初は怒られた」
「やっぱり」
「だが、お前に言われた通りに話した」
「私が?」
「『今までのやり方が悪い』ではなく、『父上がここまで大きくした商会を、さらに大きくするために試したい』とな」
麗華は少し笑う。
「それで?」
「二店舗だけだが、許可が出た」
「よかったじゃないですか」
「……お前はそれだけか?」
「え?」
「もっと自分のおかげだという顔をするかと思った」
「だって、話したのはルシアン様でしょう?」
「案を出したのはお前だ」
「実際にお父様を説得したのはあなたですよ」
麗華は当たり前のように言った。
「そこは自分の成果でいいと思います」
「……」
ルシアンはしばらく麗華を見つめていた。
「本当に変な女だな」
「最近毎日誰かに言われてます」
「明日」
「?」
「店へ行く」
「普通のお客さんとして?」
「ああ」
麗華は少しだけ目を細めた。
「なら、お待ちしてます」
その言葉にルシアンは僅かに笑った。
しかし。
馬車へ乗り込んでいく男の背中を見ながら、麗華は小さく首を傾げる。
何か。
まだ終わっていない。
そう感じた。
◇
翌日の夜。
ルシアンは宣言通り《月花亭》へ現れた。
「いらっしゃいませ」
「麗華」
「今日は本当に普通に来ましたね」
「俺を何だと思っている」
「最近ちょっと面倒なお客さん」
「本人に言うのか?」
「冗談ですよ」
「半分くらい本気だろう」
「どうでしょう」
麗華が笑いながら席につく。
今日はエドガーもいない。
珍しくルシアン一人だった。
「何飲みます?」
「前と同じでいい」
「了解」
酒を注ぐ。
最初の数分は、本当に普通だった。
商会の話。
父親との会話。
試験的に選んだ二店舗。
「それで」
ルシアンは持ってきた資料をテーブルへ置いた。
「まだ二週間も経っていないが、すでに変化が出ている」
「早いですね」
「余計な輸送が減った」
麗華が紙を見る。
「本当だ」
「一号店で不足した商品を工房へ追加発注する前に、二号店の在庫を確認させた。結果、同じ商品が十二着余っていた」
「十二着」
「ああ。今までなら新しく作らせていた」
「その分の材料と職人さんの時間が浮いた?」
「そうだ」
「良かったですね」
「さらに一部の布をまとめて仕入れたところ、仕入れ先が値引きを申し出てきた」
「やっぱり」
「なぜ分かった?」
「大量に買ってくれる客は逃したくないでしょう?」
麗華は当然のように答える。
「それと、貴族街の店舗で高級品の割合を増やした。まだ期間は短いが、以前より客単価が上がっている」
「じゃあ、そのまま続けて様子見ですね」
「父も驚いていた」
「褒められた?」
「……少しだけな」
ルシアンの口元が緩む。
麗華はすぐ気づいた。
「嬉しかったんですね」
「何が」
「お父様に褒められたこと」
「別に」
「今ちょっと笑いましたよ」
「笑ってない」
「笑ってた」
「……」
麗華が楽しそうに笑う。
「いいじゃないですか。嬉しいなら嬉しいで」
「子供じゃないんだぞ」
「何歳でも、認めてもらえたら嬉しいでしょう?」
ルシアンは一瞬言葉を失い、それから諦めたように酒を飲んだ。
「……お前には隠し事ができそうにない」
「全部分かるわけじゃないですよ」
「十分だ」
「勝手に決めつけないようにはしてます」
「決めつけ?」
「顔や仕草を見て、こうかなって思っても、確定ではないから。だから最後は本人に聞く」
「……」
「人って結構勘違いしますからね」
何気ない言葉だった。
しかし、後になって思えば。
その言葉は。
ルシアンに一番聞いてほしかったものだったのかもしれない。
◇
「麗華」
しばらくして、ルシアンが資料を片付けた。
「はい?」
「一つ提案がある」
「また食事?」
「違う」
「なら聞きます」
「……食事だったら聞かないのか」
「断るの分かってるでしょう?」
「分かっている」
「じゃあ誘わないでください」
「それも含めて話したい」
麗華の目が少しだけ変わった。
「どうぞ」
「アルヴェール家へ来ないか」
「行きません」
「まだ説明してない」
「どうせ嫌なので」
「一度くらい聞け」
「……」
麗華は少し考えてから、グラスをテーブルへ置いた。
「じゃあ聞きます」
「アルヴェール家付きの相談役として雇いたい」
「相談役?」
「ああ。今回の件で父もお前の能力を認めた。正式な役職を用意できる」
「へぇ」
「報酬は月に金貨――」
提示された金額。
麗華の眉が少し上がった。
「高いですね」
「当然だ。お前にはそれだけの価値がある」
「待遇は?」
「屋敷に部屋を用意する。食事、衣服、必要なものはすべてこちらで揃える。商会に関する資料も自由に見て構わないし、改善案があれば俺へ直接伝えればいい」
「かなりいいですね」
「だろう?」
「条件だけなら」
ルシアンの表情が明るくなる。
「なら――」
「でも行きません」
「……」
「聞いてから断りましたよ」
「なぜだ?」
「別に働きたいと思わないから」
「今の生活より良い」
「何を基準に?」
「何?」
「お金?」
「それもある」
「住む場所?」
「ああ」
「食事?」
「当然だ」
「でも」
麗華は少し首を傾げた。
「私、今の生活好きですよ」
「冒険者をやりながら夜はここで働く生活が?」
「うん」
「危険な依頼へ行く必要もなくなる」
「行きたいから行ってるの」
「この店で男たちに酒を注ぐ必要も――」
「それも好きでやってる」
ルシアンの言葉が止まる。
麗華は少しだけ彼の顔を見る。
「ルシアン様」
「何だ」
「その提案、本当に私のため?」
「当然だ」
「……半分くらい嘘ですね」
「何?」
「嘘って言い方悪かったかな」
麗華は声を荒らげず、むしろ普段より穏やかに続けた。
「自分では、本当に私のためだと思ってるんでしょうけど」
「なら何が違う」
「聞いてもいい?」
「何だ」
「私が冒険者やってるの、嫌?」
「危険だからな」
「月花亭で働くのは?」
「気に入らない」
「どうして?」
「他の男に笑いかける」
「私が相談役になって、でも夜は今まで通りここで働くって言ったら?」
「認めない」
「ほら」
麗華は小さく笑った。
「何がだ」
「私の才能が欲しいだけなら、ここを辞めさせる必要ないでしょう?」
「……」
「冒険者だって、仕事に支障がなければ続けてもいいはず」
「危険だと言っている」
「でも、それを決めるのは私じゃない?」
「……」
麗華は少しだけ身体を前へ傾ける。
「私のために言ってるつもりでも、半分はルシアン様自身が嫌なんですよ」
「何が」
「私が自分の知らないところで生きてること」
ルシアンが黙った。
「違います?」
「……」
「私が誰と話してるか分からない」
「……」
「どこへ行くかも分からない」
「……」
「自分以外の人に笑いかける」
「……」
「それが嫌だから、自分の屋敷に置いておきたい」
「そんな言い方をするな」
「じゃあ違う?」
麗華は責めるようには言わない。
ただ。
答えを待つ。
ルシアンは長く黙った。
「……全部が間違っているとは言わない」
「でしょう?」
「だが、お前の才能を評価しているのも本当だ」
「それは嬉しいです」
「なら」
「でも行かない」
「……」
「才能を評価してくれることと、私があなたの家へ行くことは別ですよ」
ルシアンはまた黙り込んだ。
◇
それから二日後。
麗華が出勤して予約帳を見ると、異変に気づいた。
「……何これ」
普段なら麗華の名前が何度か書かれている時間帯。
全部。
一つの名前。
ルシアン。
営業開始。
中盤。
後半。
閉店まで。
「エルザ」
「何?」
「今日、私ずっとルシアン様?」
「そう」
「他のお客さんは?」
「別日に移ってもらった」
「何で?」
エルザが少し困った顔をした。
「あなたの平均的な一晩分の売上より多く払うと言われたの」
「……」
麗華はしばらく予約帳を見る。
「受けたんですね」
「一応、あなたへの指名としてね」
「怒ってないですよ」
「でも嫌そう」
「ちょっと」
「断ればよかった?」
「今回はいいです」
麗華は顔を上げる。
「でも次からは断って」
「分かった」
「私の予約を全部消して一人で取るのは、本人に確認してから」
エルザはすぐ頷いた。
「新しいルール?」
「私だけ」
「分かったわ」
ちょうどそこへアリアが通りかかる。
「贅沢ね。一晩独占?」
「やめて、その言い方」
「普通の女なら喜ぶんじゃない?」
「私は普通じゃないらしいから」
「それは知ってる」
「失礼」
◇
「今日は二人だな」
ルシアンはかなり機嫌が良かった。
「そうですね」
「嫌そうだな」
「ちょっと」
「なぜだ?」
「私、あなた以外のお客さんとも話したかったので」
「金なら払った」
その瞬間。
麗華の手が止まった。
怒ったわけではない。
まだ。
ただ。
少しだけ目が細くなる。
「ルシアン様」
「何だ」
「一個だけ、間違えないでくださいね」
「何を」
「今日、あなたがお金で買ったのは」
麗華はテーブルを指先で軽く叩く。
「この席で、私と一緒に過ごす時間です」
「……」
「私が誰と話すか」
一つ。
「どこで働くか」
二つ。
「誰を好きになるか」
三つ。
指を折る。
「そこまでは買えてないですよ」
「……そんなつもりで言ったんじゃない」
「ならよかった」
麗華はすぐ笑顔へ戻る。
「でも、言葉って大事だから」
「……」
「特に、お金持ってる人が『金は払った』って言うと、結構怖いですよ」
ルシアンは何も言わなかった。
麗華は彼を悪人だとは思っていない。
今はまだ。
むしろ今まで接した限りでは、部下へ横暴に当たるような人間でもなく、商会の問題に対しても真剣だった。
頭もいい。
分からないことを分からないと言える。
家柄に胡坐をかいて何も考えない男でもない。
だから余計に。
勿体ない。
「麗華」
「はい?」
「俺なら、お前を幸せにできる」
「多分できますよ」
「……」
ルシアンが目を見開く。
予想していた答えと違ったのだろう。
「何?」
「なら」
「お金あるでしょう?」
「ああ」
「顔もいい」
「……」
「頭もいい。家柄もある。私に乱暴したいわけでもない」
「当然だ」
「だから、あなたと結婚したら生活に困ることは多分ないと思う」
「ならなぜ」
「好きじゃないから」
麗華はあまりにも普通に言った。
ルシアンが止まる。
「幸せにできる条件が揃ってることと」
「……」
「私があなたと一緒にいたいことは、別ですよ」
「……俺の何が駄目なんだ」
「別に駄目じゃない」
「それでは分からない」
「分からなくてもいいんですよ」
「なぜだ」
「恋愛って、条件揃えたら必ず成立するものじゃないから」
麗華はグラスへ酒を注ぐ。
「顔がいいから好き。お金持ってるから好き。優しいから好き。もちろんそういう人もいると思う」
「……」
「でも、全部揃ってても好きにならないこともある」
「俺は納得できない」
「でしょうね」
「なぜ分かる」
「ずっと納得してない顔してるから」
麗華は少し笑った。
その笑みが、ルシアンには余計に遠く感じられた。
「お前を好きになる男は多いだろう」
「多かったですね」
「全員断ったのか?」
「ほとんど」
「なぜ」
「興味なかったから」
「……」
「前の仕事でも、客と恋愛する気なかったし」
「俺も客だからか?」
「それだけじゃないですよ」
「なら何だ」
麗華は少し黙る。
「ルシアン様」
「何だ」
「前回の商会の話、覚えてます?」
「当然だ」
「私、何回も『相手を見る』って話したでしょう?」
「ああ」
「店によって客が違う。お父様へ話す時も、相手が何を大事にしてるのか見て言葉を変える」
「……」
「ルシアン様、それできるんですよ」
「何?」
「商売では」
ルシアンの眉が僅かに動く。
麗華はそのまま続けた。
「なのに恋愛になると」
「……」
「全然、私のこと見てないですよ」
ルシアンの表情が初めて明確に変わった。
「俺はお前を見ている」
「見てます?」
「毎日でも会いたいと思っている。何が好きかも知りたい。お前がどれだけ賢いかも、どれだけ美しいかも――」
「それ」
麗華が静かに遮る。
「ルシアン様が好きになった私ですよね」
「……何?」
「綺麗」
麗華は自分を指す。
「頭がいい」
「……」
「自分に媚びない」
「……」
「手に入らない」
最後。
ルシアンの目が動く。
麗華は気づく。
「その私が好きなんでしょう?」
「当然だ」
「でも」
麗華は静かに首を横へ振る。
「私が何をしたいかは、全然聞かない」
「……」
「冒険者やめろ」
「……」
「店もやめろ」
「……」
「俺の屋敷へ来い」
「……」
「私、どれも好きだって言ってるのに」
ルシアンは何も返せない。
「私のこと見てるなら」
麗華は少しだけ寂しそうに笑った。
「私が嫌だって言ってることも、見てほしいな」
「……」
静寂。
店の音楽。
遠くの笑い声。
二人の席だけ。
別の場所みたいに静かだった。
◇
「……俺は」
長い沈黙のあと、ルシアンが言った。
「お前を好きだと思っている」
「うん」
「思っている、じゃない。好きだ」
「ありがとう」
「なのにお前は、俺が間違っていると言う」
「気持ちが間違ってるとは言ってないですよ」
「なら」
「やり方」
麗華は即答した。
「好きなのは自由」
「……」
「私も止められない」
「なら――」
「でも、その好きを理由に私の選択を変えようとするのは違う」
「……」
「私が嫌だって言ってるのに、何回も食事に誘ったり、店の外で待ってたり、今日みたいに一晩全部取ったり」
麗華は少し苦笑する。
「正直、困ってます」
「……そこまでか」
「うん」
ルシアンの目が少し揺れる。
麗華は嘘をつかない。
ここで「全然迷惑じゃない」などと言えば、その場は傷つけずに済むかもしれない。
でも。
もっと期待させる。
それは優しさではない。
「ルシアン様」
「……」
「一回、ちゃんと考えた方がいいですよ」
「何を」
「私が好きなのか」
麗華は少し間を置く。
「それとも」
「……」
「手に入らない私が欲しいだけなのか」
ルシアンの顔が硬くなった。
「……随分な言い方だな」
「ごめんなさい」
「俺の気持ちを偽物だと言うのか?」
「言ってない」
「同じだろう」
「違います」
麗華は真っ直ぐ彼を見る。
「私には分からないから、ルシアン様自身が考えてって言ってるの」
「……」
「私が『あなたは執着してるだけ』って決めつけたら、それこそ私があなたを見てないでしょう?」
ルシアン。
黙る。
「だから」
麗華は少し声を柔らかくする。
「自分で考えて」
「……」
「私は待たなくていいですけど」
「そこは待て」
「ふふ」
少し。
空気。
緩む。
でも。
ルシアンは笑わなかった。
◇
「麗華」
帰る少し前。
ルシアンがもう一度名前を呼んだ。
「はい」
「もし俺が、お前を諦められなかったら?」
「困ります」
「……」
「でも」
麗華は少し考える。
「まだ、あなたのこと嫌いじゃないですよ」
ルシアンの顔が上がる。
「……本当か」
「うん」
「なら可能性は」
「そうやってすぐ恋愛に持っていくから駄目なの」
「……」
「客としてね」
麗華は笑う。
「相談してくれた時のルシアン様、結構好きでしたよ」
「……!」
分かりやすい反応。
麗華はすぐ手を上げる。
「恋愛じゃないから」
「分かっている」
「本当に?」
「……多分」
「そこ自信持って」
麗華は小さく笑いながら続ける。
「分からないことをちゃんと『分からない』って言えて、人の話を聞いて、考えて、自分で動いてたでしょう?」
「……」
「ああいう人は格好いいと思います」
ルシアン。
完全に黙る。
「今みたいに、私を手に入れることばっかり考えてるより」
「……酷いな」
「ごめんなさい」
「謝ればいいと思ってないか?」
「ちょっと」
「……」
それでも。
麗華の表情は優しい。
「だから」
「何だ」
「いい男に戻ってくれません?」
「……」
「元々いいところいっぱいあるんだから」
「それは褒めているのか?」
「かなり」
「なら、なぜ俺を好きにならない」
「また戻った」
「……」
「そういうとこ」
ルシアンはとうとう小さく息を吐いた。
「お前と話してると、自分が馬鹿になった気がする」
「恋愛ってそういうものじゃない?」
「お前は随分余裕だな」
「私は今、恋してないから」
「……腹が立つ」
「ごめんなさい」
でも。
少しだけ。
ルシアンも笑った。
◇
翌日。
ルシアンは来なかった。
「珍しい」
アリアが予約帳を見る。
「ルシアン様いないわ」
「そうですね」
麗華は普通に酒瓶を並べている。
「寂しい?」
「全然」
「即答」
「だって毎日来すぎなんですよ」
二日目。
来ない。
三日目。
来ない。
セリアまで少し気になり始める。
「本当に諦めたんでしょうか」
「どうだろうね」
「麗華さん、気にならないんです?」
「考えてるなら、それでいいかな」
「戻ってきてほしい?」
「普通のお客さんとしてなら」
そこへルナが近づく。
「……よかったです」
「何が?」
「最近ルシアン様来ないから」
麗華がルナを見る。
「そんなに嫌だった?」
「麗華さん困ってたでしょう?」
「まあ」
「だから」
ルナは少し頬を膨らませる。
「もっと早く諦めればよかったのに」
「あら」
麗華の目が少し悪戯っぽくなる。
「妬いてたんじゃなくて?」
「なっ……!」
「違う?」
「違います!」
「本当に?」
「本当です!」
麗華が一歩近づく。
ルナも一歩下がる。
「麗華さん?」
「じゃあ」
もう一歩。
「私が他の人に取られても平気?」
「……」
ルナの背中が壁へ当たる。
麗華は無理に詰めず、その手前で止まった。
ただ。
以前と同じように。
そっと首の後ろへ手を回す。
「――っ」
ルナの顔が一気に赤くなる。
「麗華さん!」
「平気?」
「……」
「ルナ?」
「……嫌です」
「何が?」
「麗華さんが」
ルナは視線を逸らしたまま、小さく続ける。
「誰かに取られるの」
麗華の口元が緩む。
「素直」
「麗華さんが言わせたんでしょう!」
「ふふ」
麗華はそのまま、少しだけ首を傾げる。
「でも」
「?」
今度はルナが麗華を見る。
「麗華さんは、誰のものでもないです」
「……」
「私のものでも、ルシアン様のものでもない」
「……」
「麗華さんは、麗華さんだから」
麗華の表情が止まった。
さっきまでのからかうような笑みではない。
ほんの少し。
柔らかい。
「……ありがとう」
今度は。
からかわなかった。
首の後ろに回していた手を上へずらし、ルナの頭を軽く撫でる。
「やっぱり優しいね」
「……」
ルナの顔。
また赤い。
「でもそれも恥ずかしいです」
「じゃあやめる?」
「……それは」
「?」
「別に」
麗華が笑う。
「可愛い」
「もう!」
◇
同じ頃。
アルヴェール伯爵家。
広い屋敷の一室で、ルシアンは一人座っていた。
机の上。
商会の資料。
二店舗の改善報告。
そして。
以前、麗華に贈ろうとして断られた青い宝石の首飾り。
「……」
『商売では相手を見るのに、恋愛になると全然私のこと見てないですよ』
言葉。
残る。
『ルシアン様が好きになった私ですよね』
美しい。
賢い。
媚びない。
手に入らない。
「……」
ルシアンは額へ手を当てた。
否定したい。
自分は麗華を愛している。
そう思う。
だが。
『私が嫌だって言ってることも、見てほしいな』
食事。
断られた。
贈り物。
断られた。
屋敷。
断られた。
冒険者。
続けたい。
月花亭。
好きで働いている。
すべて。
聞いた。
聞いていたはずだった。
なのに。
自分は。
何一つ。
受け入れていなかった。
「……くそ」
ルシアンは小さく呟く。
数日。
考えた。
もし。
本当に麗華を大切にするなら。
諦める。
そうするべきなのかもしれない。
彼女が嫌がっている。
自分が苦しめている。
理解。
している。
頭では。
「……」
しかし。
目を閉じる。
浮かぶ。
黒い髪。
笑顔。
商会の資料を見ながら次々問題を見つけていく姿。
『褒めても何も出ませんよ?』
『あなたがやったことですよ』
『いい男に戻ってくれません?』
「……」
諦める。
それが正しい。
分かっている。
分かっているのに。
胸の奥。
一つだけ。
どうしても。
消えない。
「……それでも」
ルシアンは机の上に置かれた青い宝石へ触れる。
「欲しい」
言葉。
誰もいない部屋へ落ちた。
そして。
その瞬間。
彼自身もまだ気づいていなかった。
麗華に言われた通り。
彼が考え始めていたのは、
どうすれば麗華を幸せにできるかではなく。
どうすれば。
九条麗華を。
――自分のものにできるか。
ということだった。




