第八話 女王、相談に乗る
九条麗華が《月花亭》で正式に働き始めてから、三週間ほどが経った。
昼は冒険者として依頼を受け、夜になれば黒いドレスへ着替えて店に立つ。
冒険者としてはまだFランクのままだったものの、ギルドではすでに「ランクだけは信用するな」と妙な扱いをされ始めていた。
黒牙熊を吹き飛ばし、Sランク指定の白角地竜と会話し、その首についていた拘束魔道具を素手同然で壊したのだから、当然といえば当然である。
一方、《月花亭》でも麗華の名前は急速に広がっていた。
絶世の美女。
黒髪の女神。
一度話せば忘れられない女。
様々な噂が流れているが、最近になって少し変わった噂まで混ざるようになっている。
「だから、仕入れ先を一つに絞る必要はないと思いますよ」
「……どういうことだ?」
その日の《月花亭》。
麗華の向かいには、四十代ほどの商人が座っていた。
机の上には酒ではなく紙が何枚も広げられている。
「今の仕入れ先が安いのは分かりました。でも、そこが駄目になったらどうするんです?」
「別の商会から買うしかないな」
「その時、同じ金額で買える?」
「……難しい」
「でしょう?」
麗華は紙の上に簡単な図を書く。
「安いところから全部仕入れるんじゃなくて、七割は今まで通り。残り三割を別のところから買う」
「高くなるぞ」
「少しだけね。でも、その三割は保険です」
「保険?」
「片方が駄目になっても、もう片方との取引が残るでしょう?」
商人が腕を組む。
「なるほど……」
「どっちが絶対正しいとは言わないですけどね」
「お前ならどうする?」
「私なら分けます。少しの安さより、全部止まる方が怖いから」
「……」
商人はしばらく紙を眺め、それから大きく息を吐いた。
「ここへ来たのは酒を飲むためだったんだがな」
「私もお酒出すつもりだったんですけど」
「お前と話してると、いつの間にか仕事の話になる」
「皆さん仕事好きですね」
「違う。お前が聞くのが上手いんだ」
「あら」
「自分でも気づいてないのか?」
「気づいてます」
「そこは否定しろ」
麗華が笑う。
少し離れた場所で、その光景を眺めていたアリアが呆れた顔をする。
「エルザ」
「何?」
「ここって何の店だったかしら」
「お酒を飲む店ね」
「あの席だけ会議室になってるんだけど」
麗華の席には酒瓶より紙の方が多い。
最初は偶然だった。
客が仕事の愚痴を話し、麗華が何気なく、
『それ、やり方変えたら?』
と言った。
別の客が商売の悩みを話した時も、
『一番売れてるものより、一緒に買われてるもの見た方がいいんじゃない?』
と答えた。
それを試した客の店で本当に売上が伸びた。
そこからだった。
『九条麗華に相談すると、話が整理される』
『自分では気づかなかった問題を見つける』
『商売だけじゃない。人の使い方まで分かるらしい』
そんな噂が一部の商人や貴族の間で広がり始めた。
麗華本人としては相談屋を始めたつもりなどない。
ただ客の話を聞いて、思ったことを言っているだけだった。
「相談料取ったら?」
以前アリアに言われたことがある。
「嫌」
「どうして?」
「仕事になったら面倒くさくなりそう」
「今も十分仕事でしょう?」
「これはお酒飲みながらだから楽しいの」
「……よく分からないわ」
◇
その日も、営業開始からしばらく経った頃だった。
「麗華」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
「あら、エドガーさん」
そこに立っていたのは、二十代後半ほどの男だった。
エドガー・セインフォード。
子爵家の長男。
《月花亭》へ何度も通っている麗華の常連客であり、貴族らしい気取った態度が少ないため、麗華にとっても比較的話しやすい相手だった。
「今日は珍しいですね」
「何が?」
「一人じゃない」
エドガーの隣には、もう一人男が立っていた。
二十五歳ほど。
淡い金色の髪。
青灰色の瞳。
上等な服を着ているが、派手さより仕立ての良さが目立つ。
背も高く、顔立ちもかなり整っている。
貴族だろう。
それも、かなり上。
「友人だ」
エドガーが男の肩へ軽く手を置く。
「ルシアン・アルヴェール。アルヴェール伯爵家の次男」
「初めまして」
麗華が微笑む。
「九条麗華です」
「……」
返事がない。
ルシアンは麗華を見たまま固まっていた。
「……?」
麗華は少し首を傾げる。
「大丈夫です?」
「……ああ」
「私の顔見て、話すこと忘れました?」
「っ……」
エドガーが吹き出した。
「だから言っただろ。実物は噂より酷いって」
「酷いって何ですか」
「褒めてる」
「褒め方下手ですね」
ルシアンはようやく我に返ったように咳払いをした。
「失礼した」
「大丈夫ですよ。慣れてるので」
「……噂以上だな」
「ありがとうございます」
麗華はそれだけ。
美しい。
女神みたいだ。
そんな言葉は前世から何度も聞いてきた。
褒められること自体は嫌いではないが、それだけで特別な反応をすることもない。
「座りましょうか」
三人が席につく。
麗華は二人へ酒を用意しながら、エドガーを見る。
「今日は相談?」
「まだ何も言ってないぞ」
「入ってきてから鞄三回見たから」
「……」
エドガーが自分の横に置いた革鞄を見る。
「数えてたのか?」
「なんとなく」
「相変わらず怖い女だな」
「最近それも褒め言葉だと思うようにしてます」
「実際、今日は相談だ」
「やっぱり」
エドガーが鞄から数枚の紙を取り出した。
「正確には、こいつの」
ルシアンが少し苦い顔をする。
「俺の家が所有している商会の一つだ」
「商会?」
「衣服と織物を扱っている」
麗華の目が少し変わった。
「へぇ」
「興味あるのか?」
「ある」
前世でも服を見るのは嫌いではなかった。
「名前は《アルヴェール織商会》。王国内に六店舗、工房が三つ、倉庫が六つある」
「大きいですね」
「曾祖父の代から続いている。売上そのものは悪くない」
「じゃあ何が問題?」
ルシアンが紙を麗華の前へ置く。
「利益が減っている」
「売れてるのに?」
「ああ。五年前と比べれば売上は一割以上増えている。だが残る金は三割近く減った」
「……変ですね」
「父は店舗を増やし、もっと商品を売れば回復すると考えている」
「ルシアンさんは?」
「違うと思っている」
「理由は?」
「分からない」
「分からない?」
「ああ」
ルシアンは正直に頷いた。
「何かがおかしいのは分かる。だが商会長も帳簿係も原因を特定できない。俺も商売を専門に学んできたわけではない」
麗華は紙へ目を落とした。
売上。
仕入れ。
職人への賃金。
輸送費。
倉庫費。
店舗維持。
商品の廃棄。
「もっとあります?」
「ある」
次の紙。
麗華は黙って読む。
一枚。
二枚。
三枚。
ルシアンは最初、麗華の顔ばかりを見ていた。
だが数分後。
その視線が変わる。
麗華が数字を見る速度が妙に速い。
「この売れ残りってどうしてるんです?」
「値下げして売るか、倉庫へ回す」
「次の年も売る?」
「流行の影響が少ないものは」
「各店舗の在庫って誰が管理してる?」
「各店の責任者だ」
「全部まとめて把握してる人は?」
「商会長が報告を受けている」
「どのくらいの頻度?」
「月に一度」
「一か月」
麗華が少し眉を寄せる。
「店舗同士で在庫を移すことは?」
「ある」
「例えば一号店で青いドレスが売り切れた。でも二号店に十着余ってる。そういう時は?」
「……」
ルシアンが少し考える。
「一号店が二号店へ問い合わせれば送られる」
「問い合わせなかったら?」
「工房へ追加発注する可能性はある」
「つまり」
麗華は紙へ簡単に数字を書く。
「こっちに十個余ってるのに、こっちで新しく十個作ることがある?」
「……あるな」
「勿体ない」
ルシアンの眉が動いた。
麗華は別の数字を見る。
「仕入れも店舗ごと?」
「布については各店の責任者が必要数を商会へ報告する」
「値段違いますよね?」
「何?」
「同じ種類の布なのに、一号店と四号店で仕入れ単価が違う」
「……」
エドガーが身を乗り出す。
「本当か?」
「ここ」
麗華が指を置く。
「四号店の方が一割くらい高い。同じ仕入れ先?」
「確認しないと分からない」
「六店舗あるのに、それぞれ別々に必要な分買ってるんですよね?」
「ああ」
「まとめて買った方が安くならない?」
「……」
「私が売る側なら、百反買ってくれる客と十反だけの客なら、百反買ってくれる方に少しくらい安くしますけど」
ルシアンが紙を見る。
「一括仕入れ……」
「できるものだけですけどね」
麗華はさらに資料をめくる。
「運送費も高い」
「最近、馬車の値段が上がっている」
「それだけじゃないと思う」
「なぜ?」
「この月」
指をさす。
「運送費が倍近いのに、売上はほとんど変わってない」
「……」
「何運んだんです?」
「分からない」
「じゃあ調べた方がいい」
ルシアンの顔から、最初の見惚れた表情が完全に消えていた。
今は真剣そのもの。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は何者だ?」
「九条麗華」
「そういう意味じゃない」
「分かってます」
「商売を学んだことがあるのか?」
「専門的にはないですよ」
「なら、なぜこんなところを見る」
麗華は少し考えた。
「前の世界……じゃなくて」
「?」
「前にいたところでは、似た考え方が普通にあったから」
「似た考え方?」
「売上だけじゃなくて、その裏でどれだけ無駄なお金使ってるか見るの」
「……」
「たくさん売っても、それ以上に無駄が増えたら意味ないでしょう?」
「それはそうだが」
「今の商会」
麗華は紙を揃える。
「売れてないんじゃなくて、無駄が多いんだと思います」
沈黙。
エドガーが感心したように息を吐く。
「俺が連れてきた意味が分かったか?」
「……ああ」
ルシアンは麗華を見る。
今度は、美しい女性を見る目ではなかった。
自分の知らないものを持つ人間。
そんな視線。
「まだありますよ」
「まだ?」
「多分、こっちの方が大きい」
麗華は六店舗の位置が書かれた紙を見る。
「全部のお店、同じ商品売ってます?」
「基本的には」
「客も同じ?」
「……何?」
「貴族街にある店と職人街の店」
「違うだろうな」
「じゃあ、何で同じもの置くんです?」
ルシアンが黙る。
「貴族街なら高級品を多くする。人が多い中心街なら流行物。普通の家が多いところなら、丈夫で値段を抑えたもの」
「店舗ごとに商品を変えるのか」
「全部変えろとは言ってません」
「では?」
「割合を変える」
麗華は指で三つの円を描く。
「ここは高級品多め。ここは普段着多め。ここは流行品多め。場所によって売れるものが違うなら、その店に合うものを増やす」
「だが同じ商会だぞ」
「同じ商会だから、全部同じじゃないと駄目?」
「……」
「全部の人に全部売ろうとすると、結局誰にも一番になれないですよ」
ルシアンの目が鋭くなる。
麗華は別に彼を見ていない。
紙を見て、考えながら話している。
「それから値下げ」
「何だ?」
「売れない商品、すぐ安くしてますよね?」
「売れないなら当然だろう」
「欲しくない物が安くなったら買います?」
「……」
エドガーが小さく笑った。
「分かりやすいな」
「でしょう?」
麗華は続ける。
「売れない理由を先に見た方がいい。値段なのか、場所なのか、デザインなのか、季節なのか。その理由によってやること変わるでしょう?」
ルシアンはとうとう酒へほとんど手をつけなくなっていた。
「もしお前なら、何から始める?」
「二店舗だけ選ぶ」
「二店舗?」
「いきなり六店舗全部変えない」
「なぜ?」
「失敗したら全部巻き込むから」
「……」
「まず二店舗で、在庫の共有と商品配分を変えてみる。仕入れも一部まとめる。それで一、二か月」
「数字を見る」
「そう」
麗華が笑う。
「商売って、正しいと思ったことをやるだけじゃなくて、やって本当に正しかったか確かめないと」
「……」
「上手くいったなら他にも広げればいいし、駄目なら戻せばいい」
ルシアンはしばらく何も言わなかった。
「……本当に」
「?」
「どこでそんなことを覚えた?」
「秘密」
「秘密?」
「女性には秘密の一つくらいあった方がいいでしょう?」
「……」
麗華が冗談っぽく笑う。
その顔を見て。
ルシアンはまた一つ、厄介な勘違いをした。
◇
「一番難しいのは父だ」
相談が一通り終わった頃、ルシアンが言った。
「お父様?」
「昔からのやり方を変えることを嫌う。商会も自分が大きくしたという自負があるから、俺がこの話を持っていっても反対されるだろう」
「どう説得するつもりだったの?」
「今のやり方では利益が減っている、と」
「それ言ったら喧嘩になるでしょうね」
「……やはりそう思うか」
「だって」
麗華はルシアンを見る。
「『あなたのやり方間違ってます』って言われて素直に『そうか』ってなる人、多くないですよ」
「父は特にならないな」
「でしょう?」
「ならどう言う」
麗華は少し考えた。
「お父様が一番大事にしてるのは?」
「家と商会だ」
「自分が育てた商会に誇りがある?」
「かなり」
「じゃあ否定しない」
「……」
「『父上がここまで大きくした商会を、さらに成長させるために一つ試したい』でいいんじゃない?」
ルシアンが止まる。
「今までが駄目だから変える、じゃなくて」
「……」
「今まで上手くいったから、次へ進むために試す」
「……同じ内容なのにな」
「言い方で全然違うよ」
麗華は少し笑う。
「人って、内容だけで動くわけじゃないから」
「……」
「特に自分が大切にしてるものを否定されたと思った瞬間、正しい話でも聞きたくなくなる」
エドガーが酒を飲みながら呟く。
「お前、本当に政治家になった方がいいんじゃないか?」
「絶対嫌」
「即答か」
「面倒くさそう」
「貴族の前で言うな」
「エドガーさんは好きで貴族やってるんです?」
「生まれた時からだ!」
麗華が笑う。
ルシアンはそんな二人を見ていた。
最初は。
美しいと思った。
今まで見たどんな女より。
けれど。
もう、それだけではない。
目の前の女は、自分が数週間悩んでいた問題を、ほんの数十分でいくつにも分けて整理した。
答えを押しつけない。
分からない部分は分からないと言う。
相手が何を大切にしているのかまで考えて、伝え方を変える。
そして。
それをひけらかす様子もない。
「麗華」
「はい?」
「お前」
「?」
「頭が良すぎないか?」
「あら」
麗華はグラスへ酒を注ぎながら笑う。
「褒めても何も出ませんよ?」
「いや」
ルシアンの口元が少し上がる。
「本気で欲しくなった」
「……」
麗華の手が一瞬だけ止まった。
エドガー。
目を閉じる。
――始まった。
そんな顔。
麗華はルシアンを見る。
顔。
目。
声。
冗談。
ではない。
「……そうですか」
笑顔。
崩さない。
でも。
心の中。
(あ、面倒なやつだ)
◇
翌日。
「麗華は?」
「本日も出勤しております」
「指名する」
二日目。
「麗華」
「今日も来たんですか?」
「悪いか?」
「全然」
三日目。
「麗華指名」
四日目。
「また?」
アリアが入口を見ながら呆れる。
「毎日じゃない」
「そうね」
「嬉しくないの?」
「売上的には」
「男としては?」
「別に」
「即答ね」
「だって別に」
ルシアンは本当に毎日来た。
金払いもいい。
酒の飲み方も綺麗。
店員に横柄な態度を取ることもない。
最初のうちは、むしろかなり良い客だった。
「これ」
五日目。
麗華の前に小さな箱が置かれる。
「何です?」
「開けろ」
「……」
開く。
青い宝石を使った首飾り。
かなり高価なのは一目で分かる。
「いらない」
「早いな」
「だっていらないです」
「値段を知れば変わるかもしれないぞ」
「いくら?」
ルシアンが告げる。
麗華が一瞬目を開く。
「高っ」
「だろう?」
「なおさらいらない」
「なぜだ?」
「こんなの受け取ったら」
麗華は箱を閉じて戻す。
「あなた、期待するでしょう?」
「……」
「その期待に応える気ないから、受け取れません」
「贈り物くらい」
「気持ちは嬉しいですよ」
麗華は丁寧に笑う。
「だからこそ、勘違いさせたくないの」
「……」
「ありがとう。でも受け取れない」
ルシアンは不満そうだったが、無理に押しつけることはしなかった。
六日目。
「明日、食事に行こう」
「店でなら」
「二人でだ」
「行きません」
「なぜだ」
「行きたいと思ってないから」
「……随分はっきり言うな」
「曖昧にして期待させる方が失礼でしょう?」
「俺と食事へ行きたい女はいくらでもいる」
「そうなんですね」
「お前は違うのか?」
「違いますね」
「……」
その拒絶が。
ルシアンには理解できない。
顔。
家柄。
金。
頭。
身分。
今まで自分が望めば、多くのものが手に入った。
少なくとも、女からここまで何度も拒絶された経験はほとんどない。
だから。
逆に。
諦められなくなっていった。
◇
「麗華」
さらに数日後。
ルシアンは麗華の黒いドレスを眺めながら言った。
「いつまでこんな店で働くつもりだ」
その瞬間。
麗華の目が少しだけ変わった。
「こんな店?」
「悪く言うつもりはない。ただ、お前ほどの女が酒を注いで客に笑いかける必要があるのかと思っただけだ」
「必要があるからやってるわけじゃないですよ」
「なら」
「好きでやってるの」
「……」
「私、この仕事好きですよ」
「俺のところへ来れば、働かなくても一生困らない」
「行かない」
「何が不満なんだ?」
「不満があるんじゃない」
麗華は落ち着いてルシアンを見る。
「あなたのものになりたいと思ってないだけです」
「俺のものという言い方が気に入らないなら――」
「そこじゃないよ」
麗華の笑顔は消えない。
けれど、声ははっきりしていた。
「ルシアン様が悪い男だから嫌だって言ってるわけじゃない。私があなたを恋愛対象として好きじゃない。それだけ」
「なら、好きにさせればいい」
「……」
(やっぱり面倒)
麗華は内心で小さくため息をついた。
◇
翌日の昼。
麗華は冒険者ギルドから《月花亭》へ向かっていた。
今日は簡単な護衛依頼を終えただけで、特に大きな事件もない。
「今日は平和だったな」
そんなことを思いながら通りを歩いていた時だった。
豪華な馬車が横で止まった。
「……」
嫌な予感。
扉が開く。
「麗華」
「こんにちは、ルシアン様」
「乗れ」
「嫌です」
「まだ何も言ってないぞ」
「乗ったら食事でしょう?」
「……そうだ」
「じゃあ行きません」
麗華はそのまま歩き出す。
ルシアンも馬車から降りた。
「待て」
「何です?」
「食事くらいいいだろう」
「行きたくないって言ってるでしょう?」
「何度断るつもりだ」
麗華は立ち止まった。
「何度誘うんです?」
「お前が頷くまでだ」
「それ、結構怖いこと言ってますよ」
「俺は本気だ」
「本気なのは分かってます」
「なら――」
ルシアンが麗華の腕へ手を伸ばそうとする。
麗華は半歩下がった。
速くはない。
ただ、絶対に触れさせない距離。
「ルシアン様」
声。
変わる。
冷たいわけではない。
でも。
店で客へ向ける甘さが少しだけ消えた。
「私」
「……」
「あなたを嫌いになりたいわけじゃないんです」
ルシアンの手が止まる。
「何?」
「最初に相談した時、頭のいい人だと思ったし、客として話すのも嫌いじゃない」
「なら」
「だから」
麗華はまっすぐ目を見る。
「嫌いになる前にやめてください」
「……」
「私が何回断っても誘うことも、外で待つことも、触ろうとすることも」
ルシアンの表情が僅かに硬くなる。
麗華はそれを見て、言葉を少し柔らかくする。
「あなたを悪い人だと思いたくないんです」
「俺はただ」
「好きだから?」
「……ああ」
「ありがとう」
麗華は少しだけ笑った。
「でも、好きだから何をしてもいいわけじゃないでしょう?」
「……」
「今はまだ」
一拍。
「いいお客さんでいてくれたら、私は普通に話せる」
ルシアン。
黙る。
「それ以上を求められたら?」
「困ります」
「……」
「だから今日は帰ってください」
長い沈黙。
やがてルシアンは不満そうに息を吐いた。
「分かった」
「ありがとう」
その日は。
引いた。
でも。
麗華には分かった。
目。
まだ。
諦めていない。
「……」
走り去る馬車を見送りながら、麗華は小さく呟いた。
「これは長そうね」
◇
その日の夜。
出勤前の控室。
麗華は鏡の前で髪を整えていた。
「麗華さん」
後ろから声。
「ルナ」
「……少しいいですか?」
「もちろん」
ルナは扉を閉めた。
いつもより少し落ち着かない。
「どうしたの?」
「あの……ルシアン様のことなんですけど」
「ああ」
「大丈夫ですか?」
麗華は鏡越しにルナを見る。
「大丈夫って?」
「最近毎日来てますし、昨日は店の外でも待ってたって聞いて」
「誰から?」
「エルザさん」
「情報早いなあ」
「笑い事じゃないですよ」
ルナが珍しく少し怒ったように言う。
「貴族なんですよ? もし麗華さんに何かしたら」
麗華は振り返った。
ルナの顔。
本気。
心配。
「……」
「麗華さん?」
麗華の表情が柔らかくなる。
「私のこと、心配してくれるの?」
「え?」
「嬉しい」
「そ、それは心配しますよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
一歩。
麗華が近づく。
ルナが少しだけ後ろへ身体を引いた。
壁まではまだ遠い。
逃げようと思えば逃げられる。
でも。
逃げない。
「麗華さん?」
「ありがとう」
麗華は自然に右腕を上げた。
そして。
ルナの首の後ろへ。
そっと。
手を回す。
「――っ」
距離が縮まる。
強く引き寄せるわけではない。
ただ。
麗華の手が首筋のすぐ後ろにある。
顔。
近い。
ルナの頬が一瞬で赤くなる。
「本当に優しいね、ルナ」
「……」
「そんな顔して心配されたら」
麗華は柔らかく笑う。
「ちょっと嬉しくなる」
「れ、麗華さん……」
ルナの視線が迷う。
でも。
離れない。
そこで麗華がふと首を傾げた。
「あれ?」
「な、何ですか?」
「ルナって、あんまり触られるの好きじゃなかったよね?」
「……え」
「知らない人に急に距離詰められるの苦手って前に言ってなかった?」
以前。
接触ルール。
その話。
「だったら」
麗華が手を離そうとする。
「ごめ――」
「待って」
ルナの手。
麗華の手首。
軽く掴む。
「……」
今度は麗華が少しだけ目を開いた。
「ルナ?」
「麗華さんは」
「うん?」
ルナはもう顔だけではなく耳まで赤い。
視線。
逸らす。
それでも。
小さく。
「……特別です」
麗華が止まった。
「……」
ルナ。
自分で言った言葉。
理解。
「……」
数秒。
「い、今の忘れてください!」
「嫌」
「え!?」
麗華が悪戯っぽく笑う。
「嬉しかったから覚えとく」
「やめてください!」
「どうして?」
「恥ずかしいから!」
「可愛い」
「――っ!」
麗華の手はまだ、ルナの首の後ろにある。
「麗華さん!」
「何?」
「そういうところです!」
「何が?」
「だから好きになるんです!」
言った。
ルナ。
硬直。
「……」
麗華。
少し。
口元。
上がる。
「もう好きだったでしょう?」
「そうですけど――って何言わせるんですか!」
その時。
扉が開いた。
「麗華さん、エルザさんが――」
セリア。
止まる。
麗華。
ルナ。
かなり近い。
麗華の腕。
ルナの首の後ろ。
ルナ。
真っ赤。
「……」
セリアは無言で扉を閉めた。
「ごゆっくり」
「待ってセリアぁ!」
廊下。
セリアの笑い声。
麗華も笑った。
「もう!」
「ごめんごめん」
ようやく手を離す。
ルナは頬を押さえながら、恨めしそうに麗華を見る。
「本当に心配してるのに……」
「うん」
麗華の表情が少し真面目になる。
「ありがとう」
「……」
「でも大丈夫だよ」
「本当に?」
「私、嫌なことはちゃんと嫌って言えるから」
「でも相手は貴族ですよ」
「うん」
「怖くないんですか?」
麗華は少し考えた。
「全然」
「即答……」
物理的な意味なら、本当に怖くない。
もしルシアンが護衛を百人連れてきたところで、麗華には何の脅威にもならない。
「ただ」
「?」
「嫌いになりたくないから、今のうちに諦めてほしいとは思ってる」
「……優しいですね」
「そう?」
「私だったらもっと怒ってます」
麗華。
少し。
笑う。
「じゃあ」
「?」
また一歩。
近づく。
ルナが反射的に身構える。
でも。
逃げない。
「私の代わりに怒ってくれる?」
「……!」
「ルナが?」
「怒ります!」
即答。
麗華が嬉しそうに笑った。
「ふふ」
「……」
「頼もしい」
「……また」
「何?」
「そういう顔する……」
◇
その日の営業中。
「ルシアンのことだが」
エドガーが珍しく真面目な顔で言った。
「うん」
「悪人ではない」
「分かってます」
「頭も悪くない。むしろ優秀な方だ」
「それも」
「ただ」
エドガーは酒へ口をつける。
「欲しいものを諦めることに慣れていない」
「でしょうね」
「分かってたのか?」
「最初から少し」
「何でだ」
「相談した時」
麗華はグラスを拭きながら言う。
「自分が分からないことを『分からない』って言えたでしょう?」
「ああ」
「だから頭はいい」
「……」
「でも」
麗華は続ける。
「私が食事を断った時、『どうして?』より先に『俺と行きたくない女がいるのか』って顔したから」
「顔?」
「うん」
「そこまで分かるのか」
「割と」
エドガーが苦笑する。
「怖くないのか?」
「何が?」
「伯爵家だぞ」
「全然」
「……そうだった」
エドガーも麗華が何者か完全には分かっていない。
でも少なくとも。
Sランク地竜より強い可能性がある女を、普通の貴族相手に心配するのは何か違う。
「ただ」
麗華はため息をついた。
「面倒くさい」
エドガーが吹き出した。
「お前、本人の前では絶対言うなよ」
「言わないですよ」
「言いそうだから怖い」
「失礼ですね」
◇
そして。
営業終了後。
「……」
月花亭の入口。
エルザ。
アリア。
セリア。
ルナ。
全員が外を見ている。
「いるわね」
アリアが言う。
「いますね」
セリア。
「今日も」
ルナ。
その視線。
少し。
怖い。
外。
道。
豪華な馬車。
その横。
ルシアン。
「麗華」
「……」
麗華は黒いドレスのまま、店の奥から出てきた。
「今日、店には来なかったのに」
「終わるの待ってたんじゃない?」
アリア。
「すごい執念」
エルザが麗華を見る。
「追い返す?」
「ううん」
「いいの?」
「話してくる」
ルナが少し心配そうな顔をする。
麗華。
それ。
見る。
さっき。
『麗華さんは特別です』
思い出す。
少し。
笑う。
「大丈夫」
「……はい」
麗華は店の扉へ手をかけた。
「でも」
小さく。
ため息。
「本当に厄介なお客さん」
扉を開ける。
夜風。
黒い長髪。
揺れる。
ルシアンが麗華に気づき、顔を上げた。
「麗華」
「こんばんは、ルシアン様」
麗華はいつものように微笑む。
けれど。
その目だけ。
少し。
冷静。
(さて)
何度断っても来る。
怒鳴るわけでもない。
悪口を言うわけでもない。
金で無理やりどうにかしようとしているようで、それでも最後の一線はまだ越えていない。
だからこそ。
厄介。
麗華はルシアンを見ながら、心の中で静かに考えた。
(どうやったら)
相手のプライドを傷つけず。
恥もかかせず。
それでも。
はっきり。
理解してもらえるか。
(ちゃんと諦めてもらえるかな)
歌舞伎町の女王。
九条麗華。
どんな男の本音でも読み、どれだけ難しい客でも言葉で扱ってきた女。
そんな麗華にとってさえ。
ルシアン・アルヴェールは。
久しぶりに現れた。
――かなり面倒な客だった。




