第七話 女王、森の異変を追う
異世界へ来て四日目の朝。
九条麗華が冒険者ギルドへ入ると、普段とは少し違う空気が漂っていた。
昨日までなら依頼板の前で仕事を選ぶ冒険者たちや、朝から酒を飲んで騒ぐ者たちの声が響いていたのだが、今日は妙に人が一か所へ集まっている。
「何かあったの?」
麗華が人混みの向こうを覗こうとすると、ちょうど近くにいたロッドが気づいた。
「麗華!」
「おはよう」
「おはようじゃなくて、ちょうどよかった。こっち来てくれ」
「何?」
腕を引かれそうになったので、麗華は自然に一歩避ける。
「あ、ごめん」
「うん」
昨日《月花亭》で女性への接触について散々話したからなのか、ロッドも少しだけ学習したらしい。
麗華はそんなことを思いながら、ロッドの後について人の集まっている場所へ向かった。
そこにはガイルとミナもいる。
「おはよう」
「おはよう、麗華」
「ちょうど今、森の話をしてたところだ」
「森?」
麗華が首を傾げると、ガイルが頷いた。
「黒牙熊の件、覚えてるだろ」
「忘れるほど前じゃないでしょう?」
「まあ、そうだな」
異世界へ来た初日。
本来なら森の奥にいるはずの黒牙熊が街道近くまで出てきていた。
あの時から、麗華は少し気になっていた。
黒牙熊の身体には古い傷と新しい傷が混ざっていた。
縄張り争いに負けただけなら珍しくないのかもしれないが、ガイルは言っていた。
――最近、森の奥から魔物が流れてきている。
「また出たの?」
「黒牙熊だけじゃない」
ガイルが依頼板の横に貼られた大きな紙を見る。
「魔狼、オーガ、大牙猪。それと昨日は、薬草採取に入った新人が森の浅いところでオーガに襲われた」
「新人が?」
「ああ。幸い近くにいたCランクが助けたらしいけど、本来オーガが出る場所じゃない」
麗華の表情が少し真面目になる。
「やっぱり、奥から逃げてきてるんだ」
「ギルドも同じ判断だ」
そこへ受付嬢が前へ出る。
「静粛にお願いします!」
ざわついていた冒険者たちが少しずつ静かになる。
「現在、ルーヴェル北東部に位置する《深緑の森》において、中層及び深部を生息域とする魔物が浅層へ移動する事例が複数確認されています。原因不明のため、本日、調査隊を編成します」
周囲から小さなどよめきが起こる。
「参加条件はCランク以上。複数班に分かれ、中層より先を調査します。討伐が目的ではありません。異常の原因を確認し、情報を持ち帰ることを最優先としてください」
麗華はその説明を聞いたあと、ガイルを見る。
「じゃあ私は無理ね」
「お前」
「何?」
「驚くくらいあっさり諦めるな」
「だってFランクでしょう?」
「普通なら『私も行きたい』とか言わないか?」
「言っても規則変わらないでしょう?」
「……まあ」
「じゃあ今日はまた薬草かな」
麗華が本気で依頼板の方へ向こうとすると、ガイルが肩を掴もうとして、途中で手を止めた。
「待て」
「何?」
「受付に聞いてみる」
「どうして?」
「お前がいた方が安全だからだよ」
「私、Fランクだけど」
「黒牙熊を最弱魔法一発で数百メートル吹き飛ばしたFランクな」
「……それ、そろそろ忘れてくれない?」
「無理だ」
受付嬢へ事情を話すと、当然ながら困った顔をされた。
「九条さんはFランクですので、規則上は……」
「分かってます」
麗華は素直に頷く。
「だから無理なら大丈夫です」
「いや、待ってくれ」
ガイルが食い下がる。
「こいつは普通のFランクじゃない。黒牙熊の件もあるし、回復魔法も使える」
「報告は聞いていますが……」
「俺たちの班に入れる。俺が責任持つ」
「ガイルが?」
麗華が少し眉を上げる。
「お前、一人でどっか行きそうだから」
「行かないよ」
「どうだか」
「失礼ね」
受付嬢は困ったように二人を見比べ、やがて奥へ確認を取りに行った。
数分後。
「ギルド長の許可が下りました」
「本当?」
「ただし正式な調査員ではなく、ガイルさんの班に所属する特別同行者という扱いです。危険と判断された場合、現場責任者の命令には必ず従ってください」
「分かりました」
「……素直ですね」
「駄々こねると思われてた?」
「少しだけ」
「どうして?」
受付嬢が目を逸らした。
「黒牙熊を吹き飛ばしたという話を聞いていたので……」
「それ関係ある?」
◇
調査隊は全部で十二人。
三つの班に分かれて森へ入ることになった。
ガイル、ロッド、ミナ、麗華。
そしてもう一人。
「こいつが?」
森の入口。
腕を組みながら麗華を見下ろした男がいた。
二十代後半。
暗い赤髪を短く切り、背には大剣を背負っている。
鍛えられた身体と、使い込まれた鎧。
「Fランクの特別同行者ってのは」
「九条麗華です」
「レオンだ。Bランク」
「よろしく」
麗華が普通に頭を下げる。
レオンは少し眉をひそめた。
「先に言っとく。今日は遊びじゃない」
「分かってます」
「危険になったら俺たちはお前を守れない。足手まといになったら置いていく」
「それも大丈夫です」
「……」
「何です?」
「いや」
レオンは少し拍子抜けしたようだった。
「もっと反発するかと思った」
「初対面の人に反発して何か得する?」
「……」
「それに」
麗華はレオンの装備を見る。
鎧には何度も補修された跡がある。
背負った大剣も綺麗ではないが、手入れはされている。
右肩の鎧だけ傷が多い。
前衛。
そして。
さっきからガイルたちより、少しだけ麗華の近くに立っている。
本人は気づいていないだろう。
「心配してくれてるんでしょう?」
「は?」
「弱い新人がついてきて死んだら困るから」
「……」
「だから大丈夫。無茶しないから」
「お前な」
「何?」
「初対面だぞ」
「そうですね」
「……変な女だな」
「最近よく言われる」
ロッドが横から口を挟む。
「レオン、ちなみに麗華は――」
「ロッド」
「何だ?」
「言わなくていい」
「でもこいつ黒牙熊を――」
「言わなくていい」
「……はい」
レオンが怪訝そうな顔をする。
「何だ?」
「何でもないです」
「絶対何かあるだろ」
「森行きましょう」
「お前が仕切るな」
◇
森へ入って一時間。
浅層を抜け、中層へ近づくほど空気は重くなっていった。
巨大な木々が太陽を遮り、地面には湿った土と落ち葉が重なる。
麗華は周囲を見ながら歩いていた。
魔力を広げれば、もっと簡単に生き物の位置を把握できる。
眼の能力を使えば、魔力の流れも分かる。
けれど、今の麗華はそれを最低限に抑えていた。
理由は単純。
便利なものに頼りすぎるのが、あまり好きではないから。
「止まれ」
先頭を歩いていたレオンが片手を上げた。
全員が止まる。
「足跡」
地面。
大きい。
「大牙猪だな」
ガイルがしゃがむ。
「三頭……いや、四頭か」
「北西へ向かってる」
レオンが森の右側を指す。
「この先を追うぞ」
「待って」
麗華が言った。
レオンが振り返る。
「何だ」
「左じゃない?」
「……何を根拠に」
麗華は地面へしゃがんだ。
「この足跡」
「それが?」
「走ってる」
「だから何だ」
「普通に移動してたんじゃなくて、逃げてたんじゃない?」
土が深く抉れている。
足跡の間隔も不規則。
途中で一頭が転びかけたように地面が崩れている。
「それに、枝」
麗華が横の木を見る。
太い枝。
折れている。
「大牙猪くらいなら普通に避けられる太さでしょう?」
「……」
「焦ってぶつかったんだと思う」
レオンの目が少し細くなる。
麗華は周囲へ耳を澄ませる。
「あと」
「まだあるのか」
「さっきから鳥、左側から一羽も飛んできてない」
ガイルも空を見る。
「……確かに」
「右からはいる」
ロッドが呟く。
「つまり」
麗華が立ち上がる。
「大牙猪が右へ逃げてるなら、追うべきは逃げた先じゃなくて、逃げてきた方向じゃない?」
レオンは何も言わない。
数秒。
「……左へ行く」
「いいの?」
「理由は通ってる」
「ありがとう」
「ただし」
「?」
「何かあったらすぐ後ろへ下がれ」
「分かりました」
素直に答える麗華を見て、レオンは少しだけ変な顔をした。
◇
さらに森の奥。
異変は少しずつ分かりやすくなっていった。
木の幹には大きな傷。
地面には血。
そして何より、魔物の気配が異常に少ない。
「静かすぎる」
ミナが不安そうに呟く。
「俺も思ってた」
ロッドが剣へ手をかける。
「何かいるな」
レオンが前を見る。
その時。
「待って」
麗華が止まる。
「今度は何だ」
「声」
「声?」
全員が耳を澄ませる。
最初は分からなかった。
でも。
「……たす……」
かすかな声。
「人だ!」
ガイルが走る。
茂みの向こう。
一人の男が木の根元に倒れていた。
二十歳前後。
冒険者。
左脚。
酷い。
鎧。
裂け。
血。
「おい!」
ガイルが駆け寄る。
「意識あるか!」
「……仲間」
男。
息。
荒い。
「俺より……仲間を……」
「麗華!」
「分かってる」
麗華はすぐそばへしゃがんだ。
傷を見る。
骨折。
深い裂傷。
出血量も多い。
ただ、まだ助かる。
「治すね」
「俺はいい……!」
「よくない」
「仲間が……二人、まだ」
「分かった」
麗華は男の目を見る。
焦っている。
恐怖。
罪悪感。
自分だけ逃げてきた。
そんな顔。
「大丈夫」
麗華の声が変わる。
少しだけ低く。
ゆっくり。
「順番に聞くから」
「……」
「仲間は何人?」
「二人……」
「最後に見た時は?」
「生きてた」
「歩けた?」
「一人は……」
男の息。
乱れる。
「大丈夫。急がなくていいよ」
「でも!」
「あなたが混乱したまま話したら、逆に探すの遅くなる」
「……」
「一個ずつ」
男は唇を噛み、頷いた。
「二人。最後に見た時は二人とも生きてた。一人が肩を怪我してたけど、歩けてた」
「何に襲われた?」
「分からない」
「じゃあ、見たものだけでいい」
「……」
「大きかった?」
「大きい……木より」
「翼は?」
「見てない」
「羽音は?」
「なかった」
「鳴き声」
「低い……地面が揺れるくらい」
「色は?」
「白……いや、灰色?」
「目」
「赤かった」
「あなたたちを追ってきた?」
男。
少し。
止まる。
「……いや」
「本当に?」
「俺たちが……近づいた」
「どうして?」
「魔物が大量に逃げてきて……何があるのか確認しようとしたら、そいつがいて」
「攻撃された?」
「俺たちが武器を構えたら……暴れた」
麗華の目が少し変わる。
「先に攻撃した?」
「……矢を一本」
「誰が?」
「仲間が」
「当たった?」
「肩に」
「そのあと?」
「吠えて……木を薙ぎ倒して」
「なるほど」
「麗華」
レオンが苛立ったように言う。
「もう十分だ。治して進むぞ」
「うん」
麗華は男の脚へ手を添える。
「《ヒール》」
淡い光。
裂けていた皮膚が塞がり、折れていた骨が元へ戻る。
「……え」
男。
目。
見開く。
「痛みは?」
「ない……」
「歩ける?」
「多分」
「無理はしないで」
「お前、治癒術師なのか?」
レオンが驚く。
「一応使える」
「一応って……」
「今はそれより仲間でしょう?」
「あ、ああ」
◇
怪我人から教えられた方向へ急ぐ。
十五分ほど進んだところで、さらに血痕が見つかった。
「人間の血」
ガイルが言う。
「新しい」
「こっち」
麗華が左を見る。
「何で分かる?」
「血だけじゃなくて、引きずった跡ある」
「……」
「この人、怪我した仲間支えながら歩いてる」
そして。
少し先。
「誰か!」
ロッドが叫ぶ。
「いるか!」
「……こっちだ!」
返事。
木の影。
二人。
一人は肩を押さえ。
もう一人が支えている。
生きている。
「よかった……」
ミナが息を吐く。
麗華は二人の傷も治した。
「助かった」
「ありがとうございます」
「さっきの仲間も無事だよ」
「本当ですか!?」
「うん」
二人の顔。
一気。
緩む。
「それで」
レオンが聞く。
「化け物はどこだ」
男の顔が再び強張る。
「この先です。でも……」
「何だ」
「追ってこなかったんです」
「?」
「俺たちが逃げ始めたら、追ってこなかった」
麗華がそれを聞き、少しだけ目を細めた。
◇
さらに奥へ進む。
やがて。
森が途切れた。
大きく開けた場所。
「……」
最初に全員が感じたのは。
圧迫感。
そこに。
いた。
巨大。
四足。
白に近い灰色の鱗。
頭には一本の大きな角。
地面へ横たわっているだけなのに、大人が何人も並んだほどの体長がある。
「白角地竜……」
ガイルの声が震える。
「知ってるの?」
麗華が聞く。
「Sランク指定の危険種だ」
「S?」
「一体で小さな砦くらいなら壊す」
ロッド。
顔。
青い。
「何でこんなのがここにいるんだよ……」
でも。
麗華は別のところを見ていた。
「……怪我してる」
白角地竜。
身体。
傷。
酷い。
鱗の間には槍の先端が残り、右後脚には太い鎖が絡みついている。
首。
黒い首輪。
魔道具。
そして地竜の周囲には。
人間の死体がない。
魔物の死体も。
ほとんどない。
「レオン」
「何だ」
「これ、暴れ回った跡にしては変じゃない?」
「何が」
「殺してない」
「……」
「木は倒れてるけど、食べた跡もない。縄張り作ってる感じもしない」
白角地竜が頭を上げる。
赤い目。
こちら。
「グルルルル……」
大地が震えるような低い唸り。
「下がれ!」
レオンが大剣を抜いた。
ガイルたちも武器を構える。
その瞬間。
地竜の身体。
大きく。
強張った。
「待って」
麗華が言う。
「何だ!」
「武器下ろして」
「馬鹿言うな!」
「この子」
麗華は地竜を見る。
「私たちを怖がってる」
「Sランク魔物だぞ!」
「だから?」
「は?」
「強いことと、怖がらないことは別でしょう?」
レオン。
言葉。
詰まる。
地竜。
逃げ道。
探すように。
視線。
左右。
「もし私たちを殺したいなら」
麗華。
静か。
「もう襲ってる」
「……」
「距離も十分。あの身体なら私たちが武器抜く前に一人くらい殺せたはず」
「それでも危険なのは変わらない」
「うん」
麗華は否定しない。
「だから少しだけ試させて」
「何を」
「話す」
「……は?」
麗華は一歩前へ出る。
「麗華!」
ガイルが叫ぶ。
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだ!」
「多分」
「多分!?」
麗華は武器を持たない。
両手。
見えるように。
ゆっくり。
一歩。
地竜。
「グルル……!」
唸る。
麗華。
止まる。
それ以上は近づかない。
夜の店でも同じ。
人によって心地いい距離は違う。
近づけばいいわけじゃない。
相手が嫌がるなら。
止まる。
「ここでいい?」
地竜。
赤い目。
麗華。
「近づかないから」
「……」
「少しだけ話せる?」
レオン。
後ろ。
「魔物に何言って――」
『……ニンゲン』
「……」
全員。
止まる。
麗華も。
少し。
目。
開く。
「喋れるのね」
『……コナイデ』
「分かった」
麗華はすぐに一歩下がった。
『……』
「これなら?」
地竜の唸り。
少し。
弱まる。
ガイル。
小声。
「麗華」
「何?」
「何で会話できてる」
「言語理解?」
「魔物まで!?」
「私も今知った」
「その能力便利すぎないか!?」
「神様に言って」
◇
麗華は再び地竜を見る。
「その傷、人間にやられた?」
『……』
赤い目。
警戒。
「答えたくないならいいよ」
『……オマエタチ』
「?」
『ニンゲン』
「うん」
『キライダ』
「そっか」
麗華。
それだけ。
否定しない。
「嫌いでいいよ」
地竜。
少し。
目。
動く。
『……』
「何されたか知らないから、許してなんて言えない」
『……』
「でも」
麗華。
首輪。
見る。
「それ、誰につけられたの?」
地竜の爪。
地面。
抉る。
『クロイ……ニンゲン』
「黒い服?」
『……クロ』
「何人くらい?」
『タクサン』
「何してた?」
長い沈黙。
『イタイ』
「……」
『クスリ』
麗華の表情。
少し。
変わる。
「薬?」
『カラダ……アツイ』
『チカラ……デナイ』
『デタラ……イタイ』
首輪。
魔力。
感じる。
何かを抑える。
あるいは。
強制。
「捕まってたの?」
『……』
「逃げてきた?」
『ニゲタ』
「だから周りの魔物も逃げた」
ガイル。
「こいつを怖がってか」
麗華。
「多分」
「でも」
レオンが大剣を構えたまま言う。
「事情がどうであれ、Sランク指定の魔物が街の近くにいる。その危険は変わらない」
「うん」
麗華はまたあっさり認める。
レオンが苛立つ。
「なら討伐する」
地竜の唸り。
再び。
大きくなる。
「待って」
「何を待つ!」
「この子は今、街へ行こうとしてない」
「保証がない」
「そうね」
「人間嫌いだと言った。何かの拍子に街を襲えば何百人死ぬ!」
「それも分かる」
「だったら!」
「だから」
麗華はレオンを見る。
「街からもっと遠い場所まで逃がす」
「……」
「森のさらに奥。人の街道と反対」
「そんなことができると思ってるのか」
「話してみる」
「応じなかったら?」
「その時は考える」
「九条」
レオンの声。
低い。
「これは遊びじゃない」
「知ってる」
「お前の優しさ一つで街を危険に晒すわけにはいかない」
「うん」
「なら――」
「だから」
麗華。
少し。
目。
細める。
「私が保証する」
「……何?」
「この子が人間を襲わないって保証じゃない」
麗華は地竜を見る。
「もし街へ向かったら」
それから。
もう一度。
レオン。
「私が止める」
「Fランクのお前が?」
「そう」
静か。
ただ。
次の瞬間。
ほんの少し。
麗華は《隠蔽》を緩めた。
「――」
森。
静寂。
風。
止まったように感じる。
魔力。
ほんの一部。
それだけ。
なのに。
空気。
重い。
ガイル。
息。
止まる。
ロッド。
顔。
青い。
ミナ。
言葉。
出ない。
レオン。
握る大剣。
指。
固まる。
白角地竜。
巨体。
僅か。
沈む。
頭。
低く。
下がる。
『……』
ほんの。
一瞬。
麗華は再び力を隠した。
森の音。
戻る。
「これで」
麗華はいつもの声で言った。
「少しは信用できる?」
「……」
レオン。
しばらく。
何も言わない。
「……お前」
「何?」
「何なんだ」
「Fランク冒険者」
「ふざけるな」
「本当なのに」
ロッドが小さく笑う。
「俺も最初そう思った」
「お前は黙ってろ」
「はい」
◇
麗華は白角地竜へ向き直る。
「ねえ」
『……』
「助ける代わりに、一つ約束してほしい」
『ナニ』
「人間を襲わないで」
地竜。
赤い目。
細い。
『ニンゲン……キライ』
「うん」
『コワイ』
「それもいいよ」
『……』
「嫌いでもいい。怖くてもいい。あなたを傷つけた人を許す必要もない」
麗華の声は優しい。
でも。
次。
少し。
低くなる。
「でも、関係ない人まで殺したら」
『……』
「その時は私が止める」
地竜。
麗華。
見る。
さっき。
感じた。
力。
分かる。
『……オマエ』
「うん?」
『コワイ』
「……」
後ろ。
ロッド。
肩。
震える。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「震えてる」
「無理だろ!」
麗華は少しだけ眉を寄せた。
「失礼ね」
地竜。
『デモ』
「?」
『……チガウ』
「何が?」
『クロイ……ヤツラト』
麗華。
少し。
表情。
柔らかく。
「そっか」
『ヤクソクスル』
「ありがとう」
麗華は首輪を見る。
「じゃあ最後」
『……』
「それ外していい?」
地竜の赤い目。
大きく。
『ハズレナイ』
「やってみる」
『コワス……イタイ』
「痛くしないよ」
麗華。
少し。
近づく。
地竜。
最初。
身構える。
でも。
逃げない。
「触るね」
首輪。
黒。
金属。
複雑な術式。
普通なら。
魔術師。
解析。
時間。
必要。
麗華。
見る。
「……なるほど」
レオン。
「分かるのか?」
「ちょっと」
「外せる?」
「多分」
「気をつけろ。無理に壊せば魔力が逆流する可能性が――」
ぱき。
「……」
黒い首輪。
二つ。
割れる。
地面。
落ちる。
「……」
「……」
「……」
全員。
沈黙。
麗華。
首。
傾げる。
「何?」
レオン。
「……今」
「うん」
「Sランク魔物用と思われる拘束魔道具を」
「うん」
「素手で?」
「完全制御したから、素手っていうか」
「もういい」
「え?」
「考えるのやめる」
ガイルがレオンの肩を叩く。
「その方が楽だぞ」
「お前は慣れてるな」
「数日前に黒牙熊で諦めた」
「……」
◇
首輪が外れた瞬間。
白角地竜の身体から流れる魔力が変わった。
苦しそうだった呼吸も、少しずつ落ち着く。
『……』
「大丈夫?」
『カルイ』
「よかった」
麗華は割れた首輪を拾う。
その時。
「ん?」
裏。
小さな刻印。
黒い蛇が、一本の塔へ巻きついているような紋章。
「ガイル」
「何だ?」
「これ知ってる?」
「……いや」
「レオンは?」
「見たことない」
「ミナ?」
「私も」
麗華は紋章へ指を滑らせる。
黒い服の人間たち。
魔物を捕らえる。
薬。
実験。
強化。
首輪。
「これ」
麗華が呟く。
「森の異変より、こっちの方が問題かもしれないね」
「同感だ」
レオンも表情を険しくした。
「持ち帰るぞ。ギルドに報告する」
「うん」
麗華は首輪の一部を収納した。
白角地竜が立ち上がる。
地面。
揺れる。
巨大。
『……イク』
「森の奥?」
『ヒト……イナイ』
「うん」
麗華は少し笑った。
「なるべく人のいないところに行ってね」
『オマエ』
「何?」
『ナマエ』
「麗華」
『レイカ』
「そう」
『……オボエル』
地竜。
森。
奥。
歩く。
数歩。
振り返る。
『レイカ』
「うん?」
『アリガトウ』
そして。
巨大な身体。
木々。
向こう。
消える。
しばらく。
誰も喋らなかった。
「……」
ロッド。
最初。
「魔物にまで好かれるのか」
「何それ」
「いや」
「助けたからでしょう?」
「そういう問題かな……」
ミナが笑う。
「麗華だし」
「どういう意味?」
「何でもない」
◇
帰り道。
森の中を歩きながら、レオンはずっと黙っていた。
麗華も無理に話しかけない。
少しして。
「九条」
初めて。
レオンが。
名前。
呼ぶ。
「何?」
「……さっきは悪かった」
「さっき?」
「森に入る前」
「何か言われたっけ」
「Fランクだからって足手まとい扱いした」
「ああ」
「腹立たなかったのか?」
「ちょっとは」
「ちょっとかよ」
「でも」
麗華はレオンを見る。
「心配してたのも分かったから」
「……」
「最初から私の近く歩いてたでしょう?」
「は?」
「守れる距離」
レオン。
止まる。
「……」
「右肩の鎧だけ傷多いし、前衛なんでしょう?」
「……」
「それに新人死なせたくないから、厳しく言っただけだと思ってた」
「……お前」
「何?」
「本当に何なんだ」
「だからFランク冒険者」
「その回答はもう聞いた」
ガイルが笑う。
「諦めろレオン。こいつ、聞いても何も分からん」
「ガイルに言われたくない」
「何で俺なんだよ」
レオン。
少し。
笑う。
「でも」
「?」
「今日、お前がいたのは助かった」
「そう?」
「ああ」
一拍。
「俺なら、あの地竜を殺してた」
麗華。
前。
向く。
「それも間違いじゃないと思う」
「……」
「街を守るなら、普通はそうするでしょう?」
「お前は俺を責めないんだな」
「どうして?」
「命ある魔物を殺そうとした」
「でも、レオンは街の人を守ろうとしてた」
「……」
「理由が違うだけで、やりたいことは同じだったでしょう?」
レオン。
黙る。
「だから」
麗華。
笑う。
「次も何かあったら、一回話して決めよう」
「……そうだな」
「それと」
「何だ」
「私を守ろうとしなくて大丈夫だから」
「それは無理だ」
「どうして?」
「見た目が普通の女すぎて反射的に守ろうとする」
「……」
ロッド。
後ろ。
「分かる」
「分かるな」
「いや分かるだろ!?」
◇
ギルドへ戻った頃には、すっかり夕方になっていた。
報告。
白角地竜。
首輪。
薬。
黒服。
謎の紋章。
ギルドの職員たちの顔は、話が進むほど険しくなっていく。
「こちらはギルド長へ直接報告します」
受付嬢が首輪の欠片を見る。
「白角地竜については?」
「森の奥へ移動しました」
「討伐は?」
「してません」
「……」
受付嬢。
麗華を見る。
「理由を聞いても?」
「話したら人間を襲わないって約束してくれたので」
「……話した?」
「はい」
「白角地竜と?」
「はい」
「……」
受付嬢がガイルを見る。
ガイル。
頷く。
「本当だ」
「……」
次。
レオン。
「本当だ」
「……」
受付嬢。
頭。
抱える。
「九条さん」
「はい」
「あなたが来てから報告書の内容がおかしいんですが」
「私のせい?」
「黒牙熊を風弾で吹き飛ばした。Fランク実技で木剣を吹き飛ばした。Sランク指定魔物と会話した。拘束魔道具を素手で破壊した」
「……」
「どう思います?」
「ちょっと盛られてない?」
「全部事実だ!」
ガイルが即答した。
◇
夜。
《月花亭》。
「いらっしゃいませ」
昼間。
Sランク指定の地竜。
謎の組織。
森。
調査。
そんな出来事があったとは思えないほど、麗華はいつも通り黒いドレスを着て店内に立っていた。
「麗華さん」
ルナが近づく。
「今日昼間、何してたんです?」
「ちょっと森へ」
「薬草採取?」
「似たようなもの」
少し離れた席。
ガイル。
「全然違う」
ロッド。
「Sランク地竜相手に話し合いしてた」
ミナ。
「最後、首輪壊してた」
「聞こえてるよ」
麗華が振り返る。
「余計なこと言わないで」
「事実だろ!」
ルナ。
麗華を見る。
「……何したんですか?」
「森へ行っただけ」
「絶対嘘」
「嘘じゃないよ」
その時。
店の扉。
開く。
「いらっしゃいませ」
麗華がいつものように振り返り。
少し。
目。
柔らかくなる。
「こんばんは」
バルガス。
五話。
最初の客。
大商会の会頭。
「麗華」
「来てくれたんですね」
「ああ」
「いつもの席?」
「頼む」
◇
酒。
最初。
麦酒。
薄め。
前と同じ。
麗華は何も聞かない。
バルガス。
グラス。
一口。
二口。
「……娘と話した」
自分から。
言う。
麗華。
少し。
笑う。
「どうだった?」
「怒られた」
「ふふ」
「笑うな」
「ごめん」
「俺が勝手に結婚相手決めようとしたことも」
「うん」
「金を出せば何でも守れると思ってたことも」
「うん」
「全部」
「言われた?」
「言われた」
「ちゃんと聞いた?」
「……聞いた」
麗華。
表情。
少し。
嬉しい。
「えらい」
「お前、俺を何歳だと思ってる」
「四十七?」
「四十八だ」
「惜しい」
「……」
「それで?」
バルガス。
少し。
黙る。
「家には」
「うん」
「戻ってきた」
麗華。
本当に。
嬉しそう。
笑う。
「よかった」
「……」
その顔。
バルガス。
少し。
目。
逸らす。
「何?」
「いや」
「?」
「お前」
バルガス。
少し。
笑う。
「本当に嬉しそうにするんだな」
「嬉しいから」
「客の話だぞ」
「客でも」
麗華。
グラス。
注ぐ。
「話聞いたら気になるよ」
「……そうか」
「娘さん」
「?」
「今度は自分で好きな人選ぶの?」
「……」
バルガス。
苦い顔。
「それはまだ少し認めたくない」
「ふふ」
「でも」
「?」
「話は聞く」
麗華。
目。
少し。
細く。
「それで十分じゃない?」
「ああ」
バルガス。
酒。
飲む。
「麗華」
「何?」
「ありがとう」
「私、何もしてないよ」
「お前が話せって言った」
「選んだのはバルガスさんでしょう?」
「……」
「だから」
麗華。
笑う。
「それはあなたがやったこと」
バルガス。
しばらく。
黙る。
「……やっぱり変な女だな」
「今日は初めて言われた」
「嘘つけ」
「昼にも言われた」
「だろうな」
二人。
少し。
笑う。
◇
その日の深夜。
営業を終えた麗華は、宿へ戻る途中で足を止めた。
頭の中に。
昼間。
見た。
黒い首輪。
紋章。
蛇。
塔。
薬。
捕らえられた白角地竜。
『イタイ』
『クスリ』
『ニンゲン……コワイ』
「……」
麗華の表情から、笑みが少し消える。
自分を殺した男。
祖母を追い詰めた人間。
前世にも。
他人の弱さにつけ込む人間はいた。
世界が変わっても。
同じ。
「黒い服、か」
まだ。
何も分からない。
追う理由も。
今はない。
でも。
もし。
あの白角地竜のような存在が。
他にもいるなら。
その時。
麗華はきっと。
知らないふりは。
できない。
「……まあ」
夜空。
見る。
「その時考えればいいか」
まだ四日目。
異世界。
生きる時間。
たくさんある。
昼は冒険者。
夜は《月花亭》。
剣でも魔法でもなく、人を見て、話して、時には魔物とさえ言葉を交わす。
九条麗華の二度目の人生は、少しずつ広がり始めていた。
そして森の奥で見つかった黒い蛇の紋章が、やがて彼女の前に再び現れることを。
この時の麗華は、まだ知らなかった。




