第六話 女王、夜のルールを作る
「女の子を守るルール、もう少しちゃんと作りません?」
営業を終えた《月花亭》には、つい先ほどまで響いていた音楽も客たちの笑い声もなく、残っているのは後片付けをする女たちと店員たちだけだった。
エルザは机の上に置いた契約書から顔を上げ、向かいに座る麗華をじっと見つめる。
「……どういう意味?」
「そのままです。この店、悪いお店じゃないと思う」
「褒めてくれるの?」
「身体を売ることを強制しないし、お給料もちゃんと出る。休みも取れるし、エルザがみんなを大事にしてるのも昨日今日で分かった」
「よく見てるわね」
「仕事柄」
麗華はそう言って笑ったが、すぐに少しだけ表情を真面目なものへ変えた。
「でも昨日、セリアがディオンさんに腕を掴まれた時、誰もすぐには止められなかったでしょう?」
エルザの表情が僅かに曇る。
「……あれは相手が貴族だったからよ。平民の客なら店から追い出すこともできるけど、貴族相手に恥をかかせれば、この店だけじゃなく働いている子やその家族にまで何をされるか分からない」
「うん、分かってる」
あまりにもあっさりと麗華が頷いたため、今度はエルザの方が少し意外そうな顔をした。
「もっと綺麗事を言うと思ったわ。女の子を守るなら、嫌な客は全員追い出せばいいとか」
「そんなことしたら店が潰れるでしょう?」
「……」
「売上がなくなって、ここで働けなくなったら本末転倒。守るって、嫌なこと全部から遠ざけることじゃないと思うから」
麗華は店内へ視線を向ける。
セリア、ルナ、アリアをはじめ、十人以上の女性が働いている。この店で得た金で家族を養っている者もいれば、自分で生きていくためにここを選んだ者もいるだろう。
「働ける場所を残しながら、嫌なことは減らす。その両方をやらないと意味ないよ」
「……あなた、本当に二十一?」
「失礼ね」
「二十一にしては妙に現実的なのよ」
「色々あったから」
麗華は軽く笑って流した。
「それで、何を変えたいの?」
「その前に、みんなと話してもいい?」
「何について?」
「ここで働いてて困ってること」
「なら私も――」
「エルザ」
「何?」
「一回、席外してくれる?」
「……私がいたら話せないって?」
「あなたが怖いわけじゃないよ。でも、雇ってる人の前で職場の不満を全部言える人なんて、そんなにいないでしょう?」
麗華は柔らかく笑いながら続ける。
「エルザがどれだけ優しくても、『これ言ったら面倒な子だと思われないかな』とか、『店に迷惑かな』って考える子はいるから」
エルザはしばらく麗華を見つめたあと、諦めたように小さく息を吐いた。
「分かったわ。任せる」
「ありがとう」
「ただし、あとでちゃんと聞かせなさいよ」
「もちろん」
◇
エルザが店の奥へ消えたあと、麗華は店内の大きなテーブルへ移った。
セリア、ルナ、アリア、それから何人かの女性たちが周囲へ集まる。
「じゃあ、何か困ってることある?」
「……」
誰も答えない。
一秒。
二秒。
沈黙。
麗華は思わず笑った。
「まあ、そうなるよね」
「え?」
セリアが首を傾げる。
「いきなり『困ってることありますか』って聞かれて、すぐ言える人の方が少ないよ」
「じゃあどうするの?」
「聞き方変える」
麗華はまずセリアを見る。
「昨日、ディオンさんに腕掴まれた時、何が一番怖かった?」
「……」
セリアの表情が少し硬くなる。
ただ「怖かった?」と聞くのではなく、何が一番怖かったのかを聞く。
そうすれば、恐怖の正体が見える。
「……断ったら、ディオン様が怒って店に迷惑がかかるかなって思いました」
「自分が連れていかれることより?」
「……両方です。でも、自分のせいでお店に何かされたらって思ったら、余計に言えなくて」
「そっか」
麗華は否定しなかった。
「じゃあもし、『店外への誘いは本人が自由に断っていい。断ったことで店から責められることもない』って、ちゃんと決まりになってたら?」
セリアは少し考えてから答える。
「今よりは……断りやすいです」
「それでも相手が貴族なら怖い?」
「はい」
「だよね」
麗華はそこで無理に安心させる言葉を重ねなかった。
ルール一つで怖さが全部消えるわけではない。
それを分かった上で、少しずつ減らせばいい。
「じゃあ次、ルナ」
「はい」
「客に触られるの平気?」
「……人によります」
「例えば?」
「手くらいなら平気です。でも急に腰を触られるのは嫌」
「肩は?」
「知ってるお客さんなら」
「顔は?」
「絶対嫌です」
「なるほど」
麗華は隣にいた別の女性を見る。
「あなたは?」
「私は肩なら平気ですけど、手を握られるのが苦手です」
「そっか」
さらに別の女性。
「私は割と何でも平気です」
「本当に?」
「はい」
即答。
でも、その瞬間だけ女性の指が自分の袖口を強く摘んだ。
麗華はそこを見る。
「じゃあ、嫌なのに我慢してることは?」
「……」
女性が止まる。
周囲も静かになった。
「怒らないから」
「……首だけは嫌です。後ろから触られるのが、ちょっと苦手で」
「そっか。ありがとう」
理由までは聞かない。
必要なのは、何が嫌なのか。
それだけで十分だった。
「じゃあ、全員同じルールにしなくていいね」
セリアが首を傾げる。
「同じじゃない?」
「うん。全部触られたくない子もいれば、手くらいなら平気な子もいるし、逆に接触を上手く接客に使える子だっているでしょう?」
アリアが腕を組む。
「確かにね。私は手くらいなら平気だし、客によっては自分から触ることもあるわ」
「なら禁止する必要ない。本人が嫌じゃないなら自由でいいと思う」
麗華は紙を取り、最初の項目を書く。
「一つ目。触れていい範囲を、女の子本人が決める」
手。
肩。
腕。
それ以外。
接触そのものを禁止。
「店員側でも把握して、必要なら客にも伝える」
ルナが紙を覗き込む。
「そんなことまで店が決めるんですか?」
「店が決めるんじゃないよ」
「え?」
「女の子自身が決めるの」
麗華はルナを見る。
「そこ大事」
「……あ」
「断るのが上手い子だけ守られる仕組みじゃ駄目だから」
前世でも何度も見た。
『嫌なら嫌って言えばいい』
言うだけなら簡単だ。
でも客は金を使っている。
売上がかかっている。
店長の視線がある。
機嫌を損ねたら指名を切られるかもしれない。
そんなものを全部背負った状態で、全員が簡単に嫌と言えるわけではない。
「言えない子が悪いんじゃなくて、言えなくても守られるようにしておけばいいの」
セリアがゆっくり頷いた。
◇
「二つ目は店外への誘い」
麗華は新しい項目を書く。
「今も断っていいんでしょう?」
「一応はね」
アリアが答える。
「一応?」
「店として強制はしない。でも相手がすごくお金を使う客なら、女の子側も多少は気を使うわ」
「そうだよね」
「全部禁止するの?」
「しない」
麗華は首を振る。
「行きたいなら行けばいいし、好きな客と食事したい子もいるでしょう。そこまで店が決めることじゃない」
「じゃあ何を変えるの?」
「断ったことを理由に、店が女の子を責めない」
麗華は紙へ書き足す。
「『あんなにお金使ってくれてるのに』『もっと上手くやってよ』って言わない。店外へ行かないと売上を作れないなんてことにもしたくない」
その時、セリアが僅かに俯いた。
麗華はすぐ気づく。
「言われたことある?」
「……昔、一度だけ。もう辞めた店員さんですけど、太いお客さんから食事に誘われて断ったら、少し怒られて」
「そっか」
それ以上は聞かない。
「じゃあ、なおさら決めとこう」
次。
「三つ目は客の記録」
「危険客名簿?」
アリアが言う。
「半分は」
「半分?」
「暴言、酔った時の癖、無理に触る、店外へ強要する、支払いで揉める。そういうのは店で共有する」
「もう半分は?」
「好きなお酒、よく話すこと、仕事、趣味、前回来た時の出来事」
セリアが目を丸くする。
「それも書くんです?」
「むしろそっちの方が大事」
「どうして?」
「例えば今日、セリアのお客さんが『来月、故郷にいる母親の誕生日なんだ』って話したとするでしょう?」
「はい」
「次に来た時、『お母さんへの贈り物、決まった?』って言われたらどう?」
「……嬉しいです」
「でしょう?」
麗華は笑う。
「この前話したこと覚えてくれてたって、それだけで人って結構嬉しいから」
「でも、全部覚えられません」
「だから書くの」
「なるほど……」
「忘れるのが悪いんじゃない。忘れても困らない仕組みを作ればいいだけ」
アリアが少し感心したように紙を見る。
「情報は全員で共有?」
「全部は駄目。誰にでも知られたくない話だってあるでしょう?」
「じゃあ?」
「危険情報は店全体。個人的な話は基本その子だけ。それに客本人が秘密にしたそうなら、最初から書かない」
「細かいわね」
「人の話扱うなら当たり前だよ」
麗華の声が少しだけ真面目になる。
「信用って、一回壊すと戻すの大変だから」
◇
「でも」
アリアが紙を眺めながら言った。
「ここまで厳しくしたら客が減るわよ」
周囲が少し静かになる。
アリアはNo.1だ。
女の子たちの中で、一番売上という現実を見ている。
「触るのに確認が必要、店外は本人次第、危険行為は記録される。そのうち面倒な店だって言われる」
「そうね」
麗華はあっさり頷いた。
「……否定しないの?」
「実際、減る客はいると思う」
「でしょう?」
「でも」
麗華はアリアを見る。
「女の子が嫌がってることをしないと楽しめない客って、本当に残したい?」
「……」
「客を減らしたいわけじゃないよ」
「じゃあ?」
「残したい客を選びたいの」
「選ぶ?」
「一人の太客に店が依存しすぎたら、その人が何しても切れなくなるでしょう?」
アリアの表情が変わる。
「昨日のディオンみたいに?」
「そう。極端な話、一人で店の売上の半分を作る客がいたら、その人が王様になる」
「……」
「でも同じ売上を十人、二十人で作れてたら?」
「一人いなくなっても店は死なない」
「そういうこと」
麗華は微笑む。
「私は太客が嫌いなわけじゃない。むしろ大事。でも、その人一人の機嫌で店も女の子も振り回される状態は嫌」
「……前の店でも?」
「いっぱい見たよ。一人の客だけで売上のほとんどを作って、その人が来なくなった途端に順位から消える子もいた。店だって同じ」
「だから客を増やす」
「うん。いい客を増やす」
「簡単に言うわね」
「簡単じゃないよ」
麗華が少し笑う。
「でも、だから接客頑張るんでしょう?」
いつの間にか少し離れた場所で話を聞いていたエルザが、そこで口を挟んだ。
「そこまで考えてたのね」
「聞いてたの?」
「途中から」
「席外してって言ったのに」
「もう十分話してたじゃない」
「まあいいけど」
エルザは麗華の書いた紙を手に取る。
「本当にやるなら、客から文句も出るし、売上が一時的に落ちる可能性もあるわよ」
「分かってる」
「それでもやる?」
「やる」
麗華は迷わず答えたあと、少し考えて付け加える。
「でも、いきなり全部はやらない。まずは女の子への接触と、店外への誘い。この二つだけ始めて、客の反応を見る」
「慎重ね」
「一度に全部変えたら、何が原因で上手くいったかも、失敗したかも分からなくなるでしょう?」
アリアが麗華を見る。
「……本当にただ働いたことあるだけなの?」
「そこは今いいでしょう」
◇
翌日の夜。
新しい決まりを始めて最初の営業は、意外なほど何事もなく進んでいた。
女の子たちは普段通り客につき、酒を作り、笑い、話す。
変わったことといえば、男性店員たちが以前より女の子の表情へ目を配るようになったことくらいだった。
「……意外と普通ですね」
セリアが小声で言う。
「何か起きてほしいの?」
「そうじゃないです!」
麗華が笑った、その時だった。
「おい、ナナ」
店の中央で、三十代後半ほどの男が一人の女性を呼ぶ。
質のいい服と指輪。
商人だろう。
「来いよ」
「はい」
ナナが隣へ座る。
男――ハインズはかなり酒が入っているようだった。
笑いながら酒を一口飲んだあと、何の前触れもなくナナの腰へ腕を回す。
「……っ」
ナナは笑顔を崩さなかった。
逃げもしない。
けれど左肩が僅かに上がり、指先がドレスの生地を強く掴んだ。
麗華にはそれで十分だった。
――嫌。
今日ナナが提出した希望では、腰への接触は禁止。
すぐに男性店員が近づく。
「ハインズ様」
「あ?」
「申し訳ございません。本日から、女性本人が望まない接触はお控えいただく決まりとなりまして」
「何だそれ」
「ナナは腰への接触を苦手としております」
ハインズは数秒店員を見つめ、それから腕を離した。
だが表情は明らかに不機嫌だった。
「俺がいくらここで使ってると思ってる」
「申し訳ございません」
「昨日までは何も言われなかったぞ」
「本日から新しい決まりとなりまして」
「だったら何か?」
ハインズはナナを見る。
「昨日まで、お前は嫌だったのに黙ってたってのか?」
「……」
ナナの表情が固まる。
「そうなのか?」
「い、いえ」
「ほら見ろ」
麗華は静かに立った。
――ここで正論は駄目。
『本当は嫌だったんです』
そう言ってしまえば、ハインズの中では別の話に変わる。
自分は三年間、金を払って嫌がる女へ触っていた。
店も女も、裏では自分を嫌っていた。
そんな恥を大勢の前で突きつけられたと思えば、どれだけ正しい話でも聞けなくなる。
人は、自分のプライドを守るためなら、正しい話すら敵にしてしまう。
「ハインズさん」
麗華が近づく。
「……誰だ」
「九条麗華です」
「ああ」
男の目が変わる。
「最近噂になってる黒髪の女か」
「良い噂?」
「とんでもない新人がいるって」
「なら半分くらいは良いかな」
麗華が笑う。
「少し座ってもいい?」
「好きにしろ」
「ありがとう」
麗華はナナと反対側へ座る。
まず、説教はしない。
「怒ってます?」
「当たり前だ」
「ですよね」
「……」
ハインズが少し意外そうに麗華を見る。
「昨日まで普通だったものを、今日いきなり駄目って言われたら面白くないと思う」
「そうだろ?」
「うん。それにハインズさん、結構長くこの店に来てるでしょう?」
「三年だ」
「三年」
「この店が今の半分くらいしかなかった頃から来てる」
その言葉を口にした時だけ、男の声が僅かに大きくなった。
胸も少し張る。
――そこか。
麗華はすぐに分かった。
この男が誇っているのは、使った金額だけではない。
古くからこの店を知り、支えてきた常連であること。
「じゃあ」
麗華は少し笑う。
「なおさらちゃんと話したい」
「何をだ」
「今回のルール」
「さっき聞いた」
「女の子がどこまでなら触れられて大丈夫か、自分で決めることにしたの」
「だから俺が悪いって?」
麗華は即座に首を振った。
「違う」
「……」
「そこは絶対、一緒にしないで」
強くはない。
でも、はっきりした声だった。
「昨日まで店側がちゃんと決めてなかったんだから、ハインズさん一人に『今まで悪かった』なんて言うつもりないよ」
「……」
「もしナナが今まで我慢してたとしても、それを聞ける仕組みを作らなかった店にも責任がある」
ナナが少し驚いて麗華を見る。
ハインズも、怒りの中にあった警戒を少しだけ解いた。
「だったら」
「ただ」
麗華は続ける。
「今日から変えた」
「……」
「だから今日から、協力してくれたら嬉しい」
「それだけか?」
「それだけ」
「俺はナナに触るなと?」
「腰はね」
「手は?」
麗華は自分で答えず、ナナを見る。
「ナナ」
「はい」
「手は大丈夫?」
「……はい」
「だって」
ハインズが少し眉を上げた。
「全部禁止じゃないのか」
「人によるよ。ナナは腰が苦手。でも手は平気。別の子は逆かもしれない」
「面倒だな」
「そう?」
「いちいち覚えるのか?」
「覚えなくていいよ」
「じゃあどうする」
「聞けばいい」
「……女に?」
「うん」
麗華は少しだけ笑った。
「『ここは大丈夫?』って。それだけ」
「それだけで何が変わる」
「かなり変わると思う」
「何がだ」
麗華は少し身体を前へ寄せる。
「相手が嫌がってるのに気づかず触り続ける男と、相手を見て一度聞いてから触る男」
「……」
「どっちが余裕ある?」
ハインズの眉が僅かに動いた。
麗華は追い詰めない。
少し間を置いてから、その男の服と手を見る。
「ハインズさん、商会やってる?」
「何で分かる」
「服もそうだけど、右手」
「手?」
「書類書く人の手してる」
指には長年ペンを握ってきた跡。
「結構上の人?」
「一応、商会長だ」
「やっぱり」
麗華が少し感心したように笑う。
男の肩が僅かに上がった。
「じゃあ商会長として、部下が嫌がることをわざわざやらせる?」
「仕事なら必要なことはやらせる」
「必要ならね」
「ああ」
「でも、必要でもないことで嫌がらせる?」
「そんな馬鹿なことするか」
「でしょう?」
麗華は自然に頷いた。
「なら同じだよ」
「……お前、俺を丸め込もうとしてるな」
「あら」
「さっきからずっと」
「気づかれたなら失敗かな」
「何でだ」
「上手くやるなら、最後まで気づかせない方がいいでしょう?」
「……」
一瞬。
ハインズの口元が震え。
「ははっ!」
とうとう声を上げて笑った。
店中が密かにこちらを見ている。
麗華はそこで急いで畳みかけなかった。
男が笑い終わるのを待つ。
「でも」
「まだあるのか」
「一つだけお願いしたい」
「何だよ」
麗華は今度こそ真正面からハインズを見る。
「ハインズさん、この店が今よりずっと小さい頃から来てるんでしょう?」
「ああ」
「だったら、ただお金を使ってきたお客さんじゃないよね」
「……」
「この店が大きくなるのをずっと見てきた人で、女の子たちも店員さんも顔を知ってる。新しいお客さんより、ずっとこの店のこと分かってる人でしょう?」
ハインズの目が少しだけ変わる。
「まあな」
「だからお願いしたいの」
「何を」
麗華は柔らかく笑う。
「女の子たちが『ハインズさんなら安心』って思えるお客さんでいてほしい」
「……」
「お金を使ってくれるから大事なんじゃなくて、長く来てくれて、この店をちゃんと好きでいてくれるから大事なの」
ハインズは何も言わない。
でも、その顔にはもう怒りはほとんど残っていなかった。
「新しく来たお客さんが変なことしようとした時に」
麗華は少し悪戯っぽく笑う。
「『ここではそういうのやらないぞ』って、むしろ止める側にいてくれたら格好いいなって」
「俺が?」
「だって古参でしょう?」
「……」
「店のルール知らない新参より、ハインズさんが一番分かってる方が自然じゃない?」
「まあ……そうだが」
「それに」
麗華はナナをちらりと見る。
「女の子から嫌々相手されるより、『今日ハインズさん来るんだ、よかった』って思われる方が嬉しくない?」
「……」
男の視線がナナへ向く。
「それは」
「でしょう?」
麗華は微笑んだ。
「だから、いいお客さんでいてほしい」
一拍置く。
「それと」
「まだあるのか」
「いい男でいて」
「……は?」
「ハインズさんくらい余裕ある人が、女の子に無理やり何かする必要ないでしょう?」
麗華は相手を立てるように、穏やかに続ける。
「聞いて、それでも『いいよ』って言ってもらえる方が格好いい。私はそっちのハインズさんの方が、この店に似合うと思う」
「……」
「だからお願いしてるの」
「俺ならできるって?」
「できると思ったから、私が直接話してる」
その言葉は効いた。
麗華は分かっていた。
命令されるのが嫌な男。
でも。
期待されることは嫌いではない。
頼られることも。
古くからの常連として認められることも。
何より、自分を「分かっている客」「余裕のある男」として扱われることを好む。
なら。
そこへ立たせてあげればいい。
悪者の席から引きずり下ろすのではなく、最初からもっと格好いい席を用意する。
人は、自分でそちらを選んだと思えれば、意外なほど素直に変わる。
「……仕方ねぇな」
ハインズが酒を一口飲む。
「今日からなんだな?」
「うん」
「なら、昨日までの俺を悪者扱いするなよ」
「しないって最初に言ったでしょう?」
「じゃあいい」
ハインズはナナを見る。
「おい」
「はい」
「手は大丈夫なんだな」
「……はい」
ハインズが手のひらを上へ向けて差し出す。
「握っていいか?」
ナナは一瞬驚いたあと、自然に笑った。
「はい」
その手へ自分の手を重ねる。
ハインズは少し照れ臭そうに視線を逸らした。
「……なんか変だな」
「格好いいですよ」
麗華が言う。
「うるせぇ」
「ふふ」
「お前も飲め」
「私?」
「俺の奢りだ」
「あら」
「新しいルールの説明料」
「じゃあ一杯だけ」
張り詰めていた空気が一気に緩み、周囲の女の子たちも小さく息を吐いた。
◇
少し離れたところでは、アリアが腕を組んで一部始終を見ていた。
「……」
「どう?」
エルザが隣から聞く。
「客、帰らなかったわね」
「うん」
「それどころか前より機嫌良く飲んでる」
「そうね」
「でも」
「?」
「麗華だからできたんじゃない?」
エルザは少し考える。
「それはあるわね」
「でしょう?」
「全部私がやる必要ないよ」
「いつからいたの!?」
アリアが振り返ると、いつの間にか麗華が立っていた。
「今」
「びっくりさせないで」
「ごめん」
「でも、今の接客を全員にやれって無理でしょう?」
「同じことする必要ないよ」
「どういう意味?」
「今回のハインズさんは、怒ってる理由を否定しないことが一番大事だった」
麗華は指を一本ずつ折る。
「まず『急にルール変わったら面白くないですよね』って認める。そのあと、昨日までの行動を責めない」
「うん」
「次に、あの人が何を誇りに思ってるのか探す」
「何だった?」
「お金じゃなくて、古くからこの店に通ってること」
「……何で分かったの?」
「『たくさん使ってるんですね』って話した時より、『三年も来てるんですね』って言った時の方が声が大きくなった。少し胸も張ったでしょう?」
「……そこまで見てたの?」
「見るよ」
麗華は当たり前のように答える。
「人って、自分が本当に大事にしてるものの話になると少し変わるから。声、目、手、姿勢。結構分かりやすい」
「それで古参として持ち上げた」
「持ち上げただけじゃない」
「違うの?」
「その人が本当に持ってる良い部分を、ちゃんと本人に返したの」
麗華はハインズを見る。
今ではナナと普通に会話しながら酒を飲んでいる。
「あの人、三年も来てるんでしょう?」
「ええ」
「だったら本当に大事なお客さんじゃない」
「……」
「嘘で褒めても、長くは効かないよ」
アリアが少し黙る。
「その上で、悪い客じゃなくて『店を守る側の常連』にした」
「うん」
「さらにいい男でいろ、と」
「お願いしただけ」
「同じよ」
「違うって」
「怖い女」
麗華が眉を寄せる。
「失礼ね」
「褒めてるわ」
「絶対半分くらい本気でしょう」
「半分以上」
◇
営業終了後。
テーブルの上には何枚もの紙が並んでいた。
「じゃあ今日ついたお客さん、一人だけ書いてみて」
「何を書けば?」
セリアが筆を持ちながら聞く。
「全部じゃなくていいよ。飲んだもの、話したこと、好きそうなこと、嫌そうだった話題」
「今日のお客さんは月香酒を三杯」
「うん」
「話してたのは仕事のことと、最近自分で小さなお店を始めたこと」
「へぇ」
「まだお客さん少ないって」
「その時、どんな感じだった?」
「困ってるって言ってましたけど……ちょっと嬉しそうでした」
麗華が笑う。
「いいね」
「え?」
「そこ大事」
「嬉しそう?」
「本当に嫌なだけなら、自分から詳しく話さないでしょう?」
「……確かに」
「次に来た時、『お店どう?』って聞いてあげればいい」
「それだけ?」
「それだけで十分」
セリアは紙へ書きながら少し笑った。
「この前の話、覚えてたって思ってもらえる」
「そういうこと」
「何だか分かってきたかも」
「よかった」
隣ではルナも自分の客について書いている。
「ルナは?」
「北方の葡萄酒が好きで、奥さんと娘さんが二人います。上のお姉ちゃんは十二歳で、最近弓を習い始めたそうです」
「待って」
「はい?」
「十分」
「まだありますけど」
「覚えすぎ」
「麗華さんに言われたくないです!」
周囲から笑いが起こる。
それを見ていたアリアが、ふと思いついたように麗華を見る。
「じゃあ試していい?」
「何?」
「昨日のバルガス」
「うん」
「何飲んでた?」
「最初は麦酒を薄めたのを二杯。そのあと月香酒一杯、最後に《蒼月》」
「話した内容」
「十九歳の娘と結婚のことで喧嘩中。奥さんは亡くなってて、昔パン屋で働いてた。左手の結婚指輪を大事にしてる」
「……」
「胸ポケットに娘さんが子供の頃に作ったと思う刺繍入りの布」
「待って」
「何?」
「そこまで覚えてるの?」
「他にもあるけど」
アリアが少し引いた。
「……怖」
「またそれ?」
「何人くらい覚えられるの?」
「前は?」
麗華は少し考える。
「数百人くらいなら」
「……は?」
セリアもルナも止まった。
「数百?」
「全部?」
「全部じゃないよ」
「何を覚えてたんです?」
「名前、好きなお酒、仕事、家族、よく話す内容、誕生日、苦手な話とか」
「それを数百人?」
「売れてた時はね」
アリアが完全に呆れた顔をする。
「化け物」
「魔物みたいに言わないで」
麗華は苦笑する。
「でも別に、全部覚える必要はないよ」
「麗華さんが言っても説得力ないです」
「本当に」
麗華は女の子たちを見る。
「大事なのは、記憶力じゃない」
「じゃあ何ですか?」
「相手に興味持つこと」
「興味?」
「この人、何が好きなんだろう。何が嫌なんだろう。今日は何でここに来たんだろうって、ちゃんと考えること」
麗華は少しだけ柔らかく笑う。
「覚えなきゃって思って聞いてると、相手にも分かるからね」
「……」
「人を記録するんじゃなくて、その人との時間を覚える感じ」
セリアが小さく頷いた。
◇
その日の売上計算が終わったあと、エルザは昨日の契約書を再び麗華の前へ置いた。
その隣には、新しく作ったルールが書かれた紙。
「触れていい範囲は本人が決める」
「うん」
「店外への誘いは本人が断っていいし、それを理由に店は責めない」
「うん」
「危険行為は記録。本当に危険な客は、私と相談した上で入店を断る」
「そこだけは慎重にね」
「分かってる」
エルザはしばらく紙を眺めた。
「今まで、こういうものが必要なのは分かってたのよ」
「うん」
「でも怖かった」
麗華は黙って聞く。
「店を始めた頃は、客一人失うだけでも死活問題だった。だから女の子が多少嫌がっていても、『ごめん、少し我慢して』って言ったこともある」
「……」
「そのうち店が大きくなって、変えられるようになったはずなのに、今度はずっとこのやり方で続けてきたから変えるきっかけがなくなった」
「そっか」
「気づいてはいたのよ」
「うん」
「でも、一人じゃ変えられなかった」
麗華は少し笑う。
「じゃあ今、きっかけできたね」
「あなたが?」
「うん」
「自分で言う?」
「事実でしょう?」
エルザは一瞬黙ったあと、吹き出した。
「本当に面白い女」
「最近そればっかり言われる」
「麗華」
「何?」
「ありがとう」
「……」
麗華の目が少しだけ柔らかくなる。
「一人でやる必要ないでしょう?」
口にして。
ほんの少しだけ、自分にも刺さった。
前世では全部一人でやった。
祖母を守る。
借金を返す。
店を守る。
男たちを相手にする。
頼れる人がいなかったわけではない。
でも、頼ろうとしなかった。
最後まで自分一人で抱えていた。
今は。
エルザがいる。
アリア。
セリア。
ルナ。
ガイル。
ミナ。
ロッド。
出会ったばかり。
それでも、もう自分以外の人がいる。
「麗華?」
「ううん。何でもない」
エルザが契約書を麗華の前へ押し出す。
「九条麗華」
「はい」
「正式に《月花亭》で働かない?」
麗華は契約書へ目を落とした。
給料。
指名。
歩合。
自由出勤。
問題はない。
「いいよ」
筆を取る。
「今日からあなたも《月花亭》の女ね」
麗華の筆が止まった。
「その言い方、なんか嫌」
「じゃあ何?」
「普通に」
紙へ名前を書く。
九条麗華。
「麗華でいい」
エルザが笑う。
「分かったわ」
契約成立。
◇
深夜。
麗華は一人、宿へ戻るため歓楽街を歩いていた。
酒場の灯り。
笑い声。
音楽。
昨日より少しだけ、この街の夜が近く感じる。
歩いている途中、大通りから少し外れた場所で麗華の足が止まった。
「……」
一軒の小さな酒場。
古い木の看板は擦れて、文字もほとんど読めない。
中にいる客は二人だけ。
六席ほどのカウンターの奥では、年老いた店主がゆっくりとグラスを磨いている。
似ているわけではない。
全然違う。
なのに。
思い出した。
前世。
東京の片隅。
小さなバー。
《灯》。
八席だけのカウンター。
古いエアコン。
擦れた床。
おばあちゃん。
『麗華、今日暇だから早く閉めようか』
『また?』
『歳取るとね、客より眠気の方が強いの』
『おばあちゃん、店向いてないんじゃない?』
『今さら言う?』
「……」
麗華は少し笑った。
「いつか」
言葉が自然に口から出る。
自分でも少し驚いた。
いつか。
自分の店を持つなら。
名前はもう決まっている。
「《灯》」
小さく呟いた。
前世で一番大切だった場所。
その名前を、いつかもう一度この世界の夜に灯せたら。
「……悪くないかもね」
麗華は小さな酒場をもう一度だけ見てから、宿へ向かって歩き出した。
異世界へ来て三日目。
Fランク冒険者。
《月花亭》の新人。
そして少しずつ、夜の世界そのものを変え始めた女。
九条麗華はまだ知らない。
この日作った小さな決まりが、やがて《月花亭》だけではなくルーヴェルの歓楽街全体へ広がっていくことを。
そしてその中心にいた女が、この世界でもいつかこう呼ばれるようになることを。
――夜の女王、と。




