第五話 女王、異世界で客につく
異世界に来て、二日目の朝。
九条麗華は見知らぬ天井を眺めながら目を覚ました。
木の天井と、窓から差し込む朝の光。外からは馬車の車輪が石畳を転がる音や、誰かが店先を掃いている音、人々の話し声が聞こえてくる。
「……そっか。異世界なんだ」
ゆっくりと身体を起こしながら、昨日の出来事を思い返す。
死んで、神に会い、転生した。その直後には黒牙熊を吹き飛ばし、冒険者になり、夜には《月花亭》という店へ行った。
そこで女の子へ接客のお手本を見せ、ルナという女性を本気で照れさせた挙句、最後には貴族の男とまで話すことになった。
「……濃すぎるでしょ、一日目」
麗華は両手で顔を覆いながら苦笑する。
それだけ動き回ったというのに、身体は驚くほど軽かった。前世なら深夜まで働いた翌朝など、身体に酒が残り、足も重く、少しくらいは疲労があったものだ。
今は何もない。
むしろ、よく眠った日の朝より調子がいい。
「これも神様のせいか」
世界最高峰の身体能力。
ありがたいのは間違いないのだが、改めて考えるとやはり貰いすぎた気もする。
「……本当にやりすぎじゃない?」
当然、返事はない。
麗華はベッドから下り、窓を開けた。
異世界の朝はすでに動き始めていた。野菜を積んだ荷車が通り、パンを運ぶ子供が走り、その向こうを武器を背負った冒険者が歩いている。
昨日までは存在すら知らなかった世界。
それでも、不思議と怖くはなかった。
「さて」
麗華は長い黒髪をまとめると、鏡の前で軽く身支度を整えた。
「働こうかな」
◇
「薬草採取?」
冒険者ギルドの依頼板の前で、麗華は一枚の紙を眺めていた。
「ああ。Fランクなら最初はその辺だな」
隣に立つガイルが答える。
「昨日、黒牙熊と戦ったのに?」
「正確には、お前は黒牙熊を討伐したことになってない。それに冒険者としては、まだ一度も依頼を達成してないだろ」
「それはそうね」
麗華はもう一度紙を見る。
指定された薬草を十束採取。報酬は銅貨数十枚。
「……地味ね」
「不満か?」
「ううん。嫌いじゃない」
「そうなのか?」
「下から始めるの、結構好きだから」
前世でも最初から歌舞伎町の女王だったわけではない。
入店初日は指名ゼロ。
誰も麗華の名前など知らなかった。
そこから一人、また一人と客を増やしていった。
積み上げていくこと自体は、昔から嫌いではない。
「俺たちは今日、別の依頼があるけど一人で大丈夫か?」
「薬草を摘むだけでしょう?」
「一応、森だから魔物もいるぞ」
麗華がガイルを見る。
ガイルも麗華を見る。
数秒後、ガイルの方が視線を逸らした。
「……いや、お前に魔物の心配した俺が馬鹿だった」
「失礼ね」
◇
「これ?」
森へ入り、麗華は足元に生えていた一株を摘み上げた。
細長い葉に少し青みがかった茎、小さな白い花。
先ほどガイルが一度だけ見本として教えた薬草だった。
「そう、それだ」
「じゃあ、この辺に多そうね」
「何で分かる?」
「さっき見つけた三本、全部少し湿った日陰に生えてたから」
「……一回見せただけだぞ?」
「十分でしょ」
「似たような草も多いんだが」
「でも、この薬草だけ葉の裏に白い筋がある」
麗華は葉を裏返して見せる。
ガイルが黙った。
「よく見てるな」
「仕事柄」
「またそれか」
「便利でしょう?」
それから十五分ほどで、必要な薬草はすべて集まった。
「これで十束」
「早すぎる」
「まだ向こうにもあるけど」
「依頼分はもう十分だ」
「じゃあ帰りましょう」
麗華は残っている薬草には手を出さず、そのまま立ち上がった。
必要以上に取る理由もない。
次に誰かが来るのなら、その人が取ればいい。
そう考えながら帰ろうとした時、茂みの奥から低い唸り声が聞こえた。
「ん?」
葉の隙間から、小さな狼に似た魔物が姿を現す。
体格は普通の狼より一回り大きく、口から鋭い牙を覗かせていた。
「麗華」
ガイルが剣へ手を伸ばす。
「大丈夫」
魔物が地面を蹴り、麗華へ飛びかかる。
麗華は指先へほんの少しだけ風を集め、そのまま軽く弾いた。
ぽん、と間の抜けた音がして、魔物の身体が横へ転がる。
「……」
「気絶しただけ」
「殺さないのか?」
「必要ないでしょう?」
「襲ってきたぞ」
「だから止めたの」
麗華は倒れている魔物を少し眺める。
「別に殺したいわけじゃないし」
ガイルはそんな麗華を見て、苦笑した。
「お前、冒険者に向いてるのか向いてないのか分からんな」
「私もそう思う」
◇
「依頼達成です」
ギルドへ戻ると、受付嬢が小さな袋を麗華へ渡した。
中から硬貨の触れ合う音がする。
「……」
麗華はしばらくその袋を眺めた。
「少ないですか?」
「ううん」
顔を上げて笑う。
「この世界で初めて、自分で稼いだお金だから」
「……」
「ちょっと嬉しいだけ」
受付嬢も柔らかく笑った。
「では、大切にしてくださいね」
「もちろん」
神から最低限のお金は貰っている。
けれど、それとは違った。
自分で働き、自分で稼いだ。
麗華にとっては、そのこと自体に意味があった。
◇
夕方。
麗華は再び《月花亭》の前に立っていた。
扉を開けると、昨日と同じ甘い香りと、店内の準備をする人々の声が迎える。
「本当に来た」
奥から現れたエルザが笑う。
「昨日のお話」
「決めた?」
「一日だけ、働いてみてもいい?」
「一日?」
「まずはね」
エルザは麗華を見つめたあと、口元を緩めた。
「もちろん。ただ、一日で終わるとは思ってないけど」
「自信あるのね」
「二十年、人を見てるから」
「昨日も聞いた」
「覚えてた?」
「人の話は結構覚える方なの」
「それは接客業向きね」
「一応」
「一応?」
エルザが笑う。
「じゃあ準備しましょうか」
◇
「……これ?」
衣装室で、麗華は渡されたドレスを広げた。
赤を基調にした衣装で、胸元はかなり深く開いており、丈も短い。
「そう。新人用」
セリアが答える。
「嫌」
「即答!?」
「他ない?」
「ありますけど、これ絶対似合うと思いますよ?」
「似合うとは思う」
「自分で言うんですね」
「似合うものは似合うでしょう?」
「……強い」
「でも着たくない」
「どうして? 恥ずかしいとか?」
「全然」
「じゃあ何で?」
麗華はドレスを眺めた。
「見せすぎ」
「でも、この店なら普通ですよ?」
「普通かどうかじゃなくて、私が嫌なの」
「身体見せるの嫌い?」
「身体を見せないと客が来ないなら考えるけど」
「……」
「見せなくても来るから」
セリアが黙り込む。
「何?」
「すごい自信ですね」
「そう?」
「普通、そんなこと言えません」
「前も来たから」
「え?」
「何でもない」
麗華は衣装棚を眺め、その奥にあった一着を取り出した。
黒を基調としたロングドレス。
胸元は開きすぎていないが、肩から鎖骨のラインだけは綺麗に見える。腰は細く絞られており、脚には歩きやすい程度のスリットが入っていた。
「これ」
「ちょっと地味じゃないですか?」
「そう?」
「この店だと」
「じゃあ着てみる」
数分後。
「……」
着替えて戻ってきた麗華を見て、セリアが黙った。
「どう?」
「……ずるい」
「何が?」
黒い長髪に黒いドレス、白い肌。飾りは小さな銀色の耳飾りだけ。
露出は他の女性たちより遥かに少ない。
それなのに目が離せない。
「露出減ってるのに、何で昨日より色っぽいんですか」
「知らない」
「本当ずるい」
「さっきからそれしか言ってないよ」
「だって!」
そこへ衣装室の扉が開く。
「麗華さん、準備――」
入ってきたルナも途中で言葉を止めた。
「……」
「ルナ?」
「……今日もずるいです」
「あなたも?」
「何でそんなに綺麗なんですか」
「ありがとう」
麗華はルナの髪へ視線を向ける。
「今日も髪留め似合ってるね」
「――っ」
ルナが持っていた酒瓶を落としかけた。
「危ない」
「急に言わないでください!」
「昨日もしてたでしょう?」
「だからです!」
セリアが横で笑う。
「完全に堕ちてる」
「セリア!」
◇
「あなたが麗華?」
店へ出ると、一人の女性が声をかけてきた。
銀色に近い金髪。
二十三歳ほど。
華やかな衣装を着ているが、派手なだけではなく、自分に何が似合うのか理解して選んでいるのが分かる。
姿勢も視線も自然で、周囲の女性たちもどこか彼女を意識している。
「そうだけど」
「アリア」
女性は自分を指した。
「この店で一番売れてる」
「そう」
「……それだけ?」
「何が?」
「No.1って聞いて、何かない?」
麗華は改めてアリアを見る。
髪。
衣装。
姿勢。
爪。
靴。
歩き方。
「じゃあ」
少し笑う。
「綺麗ね」
「……」
「自分に似合うもの分かってる人って好き」
「……何それ」
「褒めたの」
「そう」
アリアも少しだけ笑った。
「昨日、ルナを落としたんですって?」
「お手本」
「今日一日、ずっとあなたの話してたけど」
「……ごめんなさい」
「謝らないでください!」
遠くからルナの声。
アリアがそちらを見る。
麗華は笑った。
「面白い子ね」
「あなたが言うの?」
「だって面白いでしょう?」
「……まあ」
アリアは改めて麗華を見る。
「楽しみにしてる」
「何を?」
「あなたの接客。噂ほどなのか」
「期待しすぎないで」
「そういう人に限って、期待以上だったりするのよ」
◇
「最初のお客」
エルザが麗華の横へ来た。
「バルガス」
「どの人?」
「あそこ」
視線の先には、一人の男がいた。
四十代後半。
大柄な体格。
見るからに質のいい服。
けれど顔には疲れが浮かんでいる。
「大商会の会頭」
「へぇ」
「金は持ってる。でも女の子たちからは人気ない」
「どうして?」
「何を聞いても『別に』『好きにしろ』『適当でいい』。ほとんど話さない」
「なるほど」
「嫌?」
「全然」
麗華は男を少し眺める。
「むしろ最初にはちょうどいい」
◇
「こんばんは」
麗華が席につく。
バルガスは顔を上げ、麗華を見た瞬間だけ目を止めた。
「……新人か」
「今日だけ」
「そうか」
「九条麗華です」
「バルガス」
「よろしく」
「……」
会話が終わった。
普通なら焦るだろう。
麗華は焦らない。
「酒」
「何がいい?」
「何でもいい」
「じゃあ、これにするね」
麗華は香りの強すぎない酒を選び、グラスへ注いだ。
それから隣に座る。
「……」
「……」
何も言わない。
一分。
二分。
三分。
バルガスは酒を飲み、麗華も少しだけ自分のグラスへ口をつける。
その間も、麗華は相手を見ていた。
服はかなり高級だが、袖に少し皺がある。これだけの商人なら普段は身なりにも気を使うはずで、今日はそこまで気が回らなかったのだろう。
目の下には薄い隈があり、寝不足にも見える。
そして左手。
何度も無意識に指輪へ触れている。
古い金の指輪。
高価ではあるが、それ以上に手入れが行き届いている。
大切なもの。
さらに胸元のポケットから、小さな布の端が見える。
花の刺繍。
上手とは言えない。
どこか子供っぽい。
――家族。
麗華はそう考えたが、何も聞かなかった。
五分ほど経った頃、バルガスの方から口を開く。
「……お前」
「うん?」
「何も聞かんのか」
「聞いてほしい?」
「いや」
「じゃあ聞かない」
「……」
「嫌でしょう?」
「何が」
「疲れてる時に、知らない人から質問いっぱいされるの」
バルガスの目が僅かに変わった。
「分かるのか」
「顔に出てる」
「そうか?」
「うん。すごく」
麗華が笑う。
バルガスの口元も、ごく僅かに動いた。
◇
十分。
十五分。
それでも麗華は無理に話さない。
やがて二杯目の酒を飲んだバルガスが、自分から言った。
「今日は酷い日だった」
「そう」
麗華はそれだけ答える。
「……聞かんのか」
「話したいなら聞くよ。話したくないなら、黙って飲もう」
「変な女だな」
「よく言われる」
「普通ここにいる女は、『何があった』『大変だった』『聞かせろ』と食いついてくる」
「そうね」
「お前は違う」
「私は、聞かれたくないことまで聞くの嫌いだから」
「……そうか」
また沈黙が落ちる。
今度はバルガスの方から、その沈黙を破った。
「最近の若い奴は、人の話を聞かん」
その瞬間。
また指輪に触れた。
麗華はその動きを見る。
「部下?」
「……」
バルガスの指が止まる。
「何だ」
「その若い人って、部下の話じゃないでしょう?」
「何で分かる」
「今、指輪触ったから」
「……」
バルガスは無意識に触れていたらしい手を離した。
麗華はそれ以上聞かず、静かに待つ。
やがて男の方から言った。
「娘だ」
「娘さん」
「ああ」
「いくつ?」
「十九」
「私より二つ下」
「……そうか」
「喧嘩した?」
「一方的に怒られただけだ」
言葉は強い。
けれど声は少し小さくなった。
自分でも完全に正しいとは思えていないのだろう。
麗華はそこを責めない。
「何で?」
「結婚だ」
「結婚」
「悪くない話を持ってきた。商会も安定するし、相手も悪い男ではない。それなのに、あいつは俺が金しか見てないと言って家を出た」
グラスを少し強く置く。
「俺はあいつのために商会を大きくした。妻が死んでから一人で育てて、何不自由させたこともない。欲しいものも買ってやったし、教育だって受けさせた。それなのに……金しか見ていないと」
麗華は途中で口を挟まなかった。
相槌だけ。
話を奪わない。
「……何だ」
「何?」
「何か言え」
「言っていい?」
「話させたのはお前だ」
「あなたが自分から話したの」
「……細かいな」
「大事だよ」
麗華は少しだけ笑う。
「娘さんのこと、好きなんですね」
「当たり前だ!」
即答だった。
迷いがない。
声も目も真っ直ぐ。
嘘ではない。
「じゃあ、嫌われたいわけじゃないんですね」
「当たり前だろ」
「なら」
麗華はグラスを置いた。
「伝え方、失敗しただけじゃない?」
「……」
バルガスが黙る。
「あなた、娘さんを不幸にしたいわけじゃないでしょう?」
「当然だ」
「むしろ幸せにしたい。商会も、お金も、結婚も、全部娘さんを守る方法だと思ってる」
「……」
「でも娘さんは、お父さんに自分がどうしたいか聞いてほしかったんじゃない?」
「そんなこと――」
「分からないよ」
麗華はすぐに言った。
「私、娘さんに会ったことないから」
「……」
「だから聞いてみたら?」
「俺が?」
「うん」
「今さら」
「今さらって」
麗華は小さく笑う。
「十九でしょう?」
「……」
「まだ、いっぱい話せるじゃない」
その言葉を口にした瞬間、自分の胸の奥が僅かに痛んだ。
まだ話せる。
自分には、もうできない。
おばあちゃん。
最後に見たメッセージ。
『明日何食べたい?』
オムライス。
結局、食べられなかった。
麗華の表情がほんの一瞬だけ曇る。
バルガスも商人だ。
人を見ることには慣れている。
「お前」
「?」
「家族は」
麗華の動きが僅かに止まる。
「……いました」
過去形。
それだけで、バルガスは察した。
「……そうか」
それ以上聞かなかった。
麗華は少しだけ笑う。
「ありがとう」
「何がだ」
「聞かなかったから」
「俺も商人だ。聞いていいことと悪いことくらい分かる」
「なら」
「?」
麗華は柔らかく笑った。
「娘さんにも、それ使ってあげて」
「……」
バルガスは数秒黙ったあと、初めて声を出して笑った。
「ははっ」
少し離れた場所で、エルザとアリアがその様子を見ていた。
「……笑った」
セリアも驚いたように呟く。
「バルガスさんが」
アリアが視線を細める。
「一時間」
「何が?」
「麗華。高い酒、まだ一本も勧めてない」
「ええ」
「なのにバルガス、帰る気ない」
◇
「何か飲むか」
しばらくしてバルガスが言った。
「今のあるから大丈夫」
「高い酒は頼ませないのか?」
「飲みたい?」
「いや」
「じゃあいらない」
「……」
「何?」
「お前、商売分かってるのか?」
「一応」
「高い酒を飲ませれば、お前の取り分が増えるんだろ」
「知ってる」
「なら」
「でも、私の売上のためだけに飲むならいらない」
「商人の俺に言うか」
「お金があるかどうかじゃないでしょう?」
麗華はバルガスを見る。
「飲みたいかどうか」
男は少し黙った。
「……変な女だ」
「今日二回目」
「なら三回言う」
「どうぞ」
その後も会話は続いた。
娘の話。
商会の話。
亡くなった妻の話。
「奥さんとはどうやって知り合ったの?」
「店だ」
「店?」
「俺がまだ丁稚だった頃、パン屋で働いてた」
「綺麗な人?」
「……街で一番だった」
麗華は少し笑った。
「それは嘘ね」
「何!?」
「あなたの中ででしょう?」
「……」
「ふふ」
「生意気な女だな」
「でも、好きだったんだ」
バルガスの目が少し柔らかくなる。
「……ああ」
その一言で十分だった。
麗華は、それ以上深く聞かなかった。
しばらくするとバルガスが店員を呼ぶ。
「おい」
「はい?」
「一番高い酒を持ってこい」
近くにいたセリアが目を丸くした。
アリアも少し驚いた顔をする。
「無理しなくていいですよ」
麗華が言う。
「金の話じゃない」
「じゃあ?」
バルガスは少し笑った。
「今日は、もう少しここにいたい」
麗華の表情も僅かに柔らかくなる。
「なら、一緒に飲みましょうか」
◇
二時間後。
席を立ったバルガスが麗華を振り返った。
「明日もいるか」
「分からない」
「……」
「今日だけのつもりだったから」
「普通は、いると言うところじゃないのか?」
「嘘になるでしょう?」
「商売下手だな」
「さっきも同じような話した気がする」
「……そうだったな」
バルガスは少し笑い、そのまま帰ろうとする。
「バルガスさん」
「何だ」
「また会ったら」
麗華は微笑んだ。
「娘さんとどうなったか聞かせて」
男は数秒黙り、
「……ああ」
とだけ答えて帰っていった。
店内が少しざわつく。
「二時間……」
「バルガス様が?」
「しかも笑ってたよね」
「高級酒まで」
「何したの?」
次の席へ案内されながら、麗華は平然と答えた。
「話しただけ」
◇
二人目の客は若い冒険者だった。
「俺さ、S級冒険者と一緒に戦ったことあるんだ!」
声が大きい。
胸を張っている。
普通なら「すごい」と返せばいい。
だが麗華は、男の膝の上で握られている手を見た。
S級と戦った。
それ自体は本当だろう。
でも、その武勇は自分だけのものではない。
本人も、それを分かっている。
「その時」
「?」
「あなたは何してたの?」
「え?」
「S級の人じゃなくて、あなた」
男が止まる。
「俺?」
「うん。何担当だった?」
「……斥候」
「じゃあ、あなたが先に敵を見つけたの?」
「……ああ」
「一番最初?」
「そうだ」
「怖くなかった?」
男の顔が少し変わった。
「怖かったよ」
「でしょうね」
「死ぬと思った」
「でも知らせに戻った?」
「……ああ」
「じゃあ」
麗華は少し笑う。
「S級と一緒に戦ったことより、そっちの方が凄いじゃない」
男が完全に止まった。
「……初めて」
「?」
「そこ褒められた」
「そう?」
「皆、S級の話だけ聞くから」
「私はあなたと話してるから」
男の頬が僅かに赤くなる。
少し離れた場所でアリアがその様子を見ていた。
「……また変えた」
「何を?」
エルザが聞く。
「接客。さっきの商人とは全然違う」
◇
三人目。
若い商人。
服は新しいが、上着は少し着慣れていない。特に靴だけが真新しかった。
そして財布を何度も確認している。
――慣れない金。
「お仕事帰り?」
「まあ」
「今日、大事な日だった?」
「……何で?」
「靴」
「靴?」
「新しいでしょう? でも上着は前から着てる。わざわざ靴だけ新しくしたなら、何かあったのかなって」
「……今日」
男は少し照れながら言う。
「初めて大きい取引を任された」
「そうなんだ」
「成功した」
麗華はグラスを少し持ち上げた。
「じゃあ今日はお祝いね」
「……」
「おめでとう」
その一言で、男の顔が一気にほころんだ。
きっと誰かに言いたかった。
褒めてほしかった。
でも自分から言うのは恥ずかしい。
そういう顔をしている。
◇
四人目は騎士だった。
「こんばんは」
「……ああ」
「何飲む?」
「水割り」
「分かった」
酒を作る。
それだけ。
麗華は何も聞かなかった。
一分。
五分。
十分。
騎士は黙って飲み、麗華も静かに隣へいる。
やがて二十分ほど経った頃。
「……喋らんのか」
「喋ってほしい?」
「いや」
「じゃあいいでしょう?」
「……変な女だ」
「今日三回目」
「?」
「色んな人に言われた」
「そうか」
さらにしばらく。
やがて騎士が立つ。
「帰る」
「ありがとう」
「……」
「?」
「また、来てもいいか」
「もちろん」
「……楽だった」
それだけ言って帰っていった。
アリアは遠くからその背中を見送る。
「……」
「どう?」
エルザが聞く。
「ずるい」
「何が?」
「何もしてないように見える」
「そうね」
「でも全部見てる。声の高さも、座る距離も、話す量も、笑い方も、客によって全部変えてる」
エルザが笑った。
「気づいた?」
「……」
「あなたも、やっぱりNo.1ね」
「褒めても何も出ないわよ」
「それ、誰かさんみたい」
◇
「麗華さん」
ルナが酒を持ってくる。
「ありがとう」
「今日は忙しいですね」
「そうね」
麗華はルナの髪を見る。
「髪、昨日と少し変えた?」
「……分かるんですか?」
「右側。髪留めが見えるようにしたでしょう?」
「……」
「似合ってる」
「――」
酒瓶がぐらりと傾く。
「危ない」
麗華が手を伸ばして支える。
「大丈夫?」
「……無理です」
「何が?」
「昨日から!」
そこへアリアが来る。
「ちょっと」
「はい?」
「あんた昨日、何したの?」
「ルナに?」
「そう」
「お手本」
「それでこれ?」
ルナはまだ頬を赤くしたまま俯く。
「もう聞かないでください……」
麗華が笑う。
「ごめん」
「その笑顔もやめてください」
「どうして?」
「好きになります」
「もうなってるでしょう?」
横からセリア。
「セリア!」
周囲に笑い声が広がった。
◇
少し離れた席。
ロッドは、客へ笑いかけている麗華を眺めていた。
「ガイル」
「何だ」
「あれ、俺が好きな麗華だよな?」
「そうだな」
「何か別人なんだけど」
「仕事中なんだろ」
「俺」
「?」
「今まで相当あしらわれてたんだな」
ガイルが呆れたように見る。
「今気づいたのか」
「……」
ミナも笑う。
「麗華、ロッド相手だと全然本気じゃなかったね」
「分かってる!」
「でも」
ロッドは再び麗華を見る。
「やっぱ好き」
「知ってる」
◇
深夜。
最後の客が帰り、女の子たちが片付けを始める。
店の奥では、エルザが今日の売上を集計していた。
「……」
隣にいるアリアが聞く。
「どう?」
「二位」
「誰が?」
「麗華」
「……」
働いたのは一日。
正確には、半日にも満たない。
それでも二位。
一位はアリア。
「……結構やるじゃない」
その声を聞いた麗華が振り返る。
「二位なんだ」
「悔しい?」
「全然」
「……」
「今日初めてでしょう?」
「そうだけど」
「なら十分」
「……」
「それに」
麗華はアリアを見る。
「一位の人がどんな接客するのか、まだちゃんと見てないから」
アリアの目が少し細くなる。
「それ、挑発?」
「違う」
「本当に?」
「うん」
アリアは数秒麗華を見たあと、笑った。
「面白い」
「よく言われる」
「次」
「?」
「私の席、見てていいわよ」
「いいの?」
「その代わり」
「?」
「あなたの接客も、もっと見せて」
麗華も少し笑う。
「もちろん」
◇
「でも」
エルザが別の帳簿を開く。
「本当に怖いのはこっち」
「?」
予約帳。
明日。
バルガス――麗華指名。
若い商人――麗華。
騎士――麗華。
さらに、今日一度も麗華の席につかなかった客からまで予約が入っている。
「……」
アリアの表情が少し真剣になる。
「噂だけで?」
「ええ」
「もう」
エルザは笑う。
「また会いたい女になってる」
それは、麗華が前世で一番大切にしていたことだった。
売上。
高い酒。
指名。
全部、結果。
その前にあるのは一つだけ。
――また会いたい。
そう思ってもらうこと。
それが、夜の世界で生きる女にとって一番大切だった。
◇
「麗華」
片付けが終わった頃、エルザが呼んだ。
「はい」
「一日だけって言ったわね」
「言いました」
「どうだった?」
麗華は少し考えた。
店内を見る。
セリアが楽しそうに片付けをしている。
ルナは今でも時々こちらを見る。
アリアは帳簿を確認している。
エルザはこの店を守ろうとしている。
そして思い出す。
前世。
歌舞伎町。
華やかで、騒がしくて、辛いことも多かった。
でも。
嫌いではなかった。
さらにもっと前。
小さなバー。
《灯》。
カウンター八席。
『麗華、グラス拭いてくれる?』
『はいはい』
おばあちゃん。
麗華の目がほんの少し柔らかくなる。
「……楽しかった」
本音だった。
エルザが笑う。
「なら」
一枚の紙を机へ置く。
「うちに来なさい」
麗華は契約書を見る。
けれど、すぐには手を伸ばさない。
「その前に」
「まだ条件?」
「あります」
麗華は店内にいる女の子たちを見る。
セリア。
ルナ。
アリア。
昨日。
ディオンに腕を掴まれ、怖がっていたセリア。
止めたくても、貴族相手だから強く出られなかった店。
エルザの苦い顔。
麗華は忘れていない。
「女の子を守るルール」
「……」
エルザの表情が変わる。
麗華はまっすぐ彼女を見る。
「もう少し、ちゃんと作りません?」
歌舞伎町の女王、九条麗華。
異世界へ来て二日目。
Fランク冒険者として最初の依頼を終え、《月花亭》では体験入店一日目にして売上二位。
けれど麗華が本当に変えようとしているものは、売上でも順位でもない。
夜の街で働く女たちが、自分の意思で笑って、自分の意思で客の隣へ座れる場所。
そのために。
九条麗華の二度目の夜が、ここから本当の意味で始まろうとしていた。




