第十話 女王、女の休日を楽しむ
ルシアンが《月花亭》へ姿を見せなくなってから、五日が経った。
それまでほとんど毎晩のように麗華を指名していた男が突然来なくなったのだから、最初の二、三日は店の女たちも気にしていたものの、五日も経てば話題に上ることも少なくなっていた。
「……本当に来ませんね」
営業を終えた《月花亭》で、セリアが予約帳を眺めながら呟く。
「誰が?」
近くでグラスを拭いていた麗華が聞くと、セリアは呆れたように顔を上げた。
「ルシアン様ですよ。麗華さん、分かってて聞きましたよね?」
「一応確認」
「ずっと毎日来てたのに、急に五日もですよ?」
「考える時間が必要なんじゃない?」
麗華はそれほど気にしていない様子で、磨き終えたグラスを棚へ戻した。
最後に話した夜、麗華はルシアンへかなりはっきりと言った。
自分が本当に麗華を好きなのか、それとも手に入らない女だから欲しいだけなのか、一度きちんと考えてほしい、と。
あの男は頭が悪いわけではない。むしろ商会の相談をした時の理解の速さを見る限り、かなり優秀な方だろう。
だから麗華としては、あとは本人が考えるしかないと思っていた。
「寂しくないんですか?」
「全然」
「早い」
隣で帳簿をまとめていたアリアが笑う。
「少しくらい迷いなさいよ。一応毎日あなたに会いに来てた男でしょう?」
「毎日来すぎだったの」
「売上は?」
「そこは寂しい」
「最低」
「どうして?」
「男本人じゃなくて売上を惜しんでるからよ」
麗華が笑ったところで、奥からエルザが出てきた。
「ちょうどいいわね。あなたたち、明日予定ある?」
「明日?」
アリアが顔を上げる。
「店、休みにするわよ」
「え?」
セリアが驚く。
「どうしてです?」
「最近ずっと忙しかったでしょう。新しいルールを始めてから客の記録も増えたし、麗華が来てから妙に店全体が働き者になったから」
「私のせい?」
「半分くらいね」
「嫌な言い方」
「褒めてるのよ」
エルザは笑いながら、麗華、ルナ、セリア、アリアを順番に見る。
「たまには四人で遊んできなさい。店のことも客のことも考えずに」
「四人?」
麗華がルナを見る。
ルナも少し嬉しそうだった。
「いいんですか?」
「そのために休みにするんでしょう?」
アリアが肩をすくめる。
「じゃあ買い物でもする?」
「行きたいです!」
真っ先に食いついたのはセリアだった。
「新しい服欲しかったんです!」
「化粧品も見たい」
ルナも小さく手を上げる。
アリアは二人を見てから麗華を見る。
「あなたは?」
「私?」
「何か欲しいものないの?」
麗華は少し考える。
この世界へ来てから、必要最低限の衣服や化粧品は買った。しかし、じっくりと店を見て回ったことは一度もない。
昼は冒険者。
夜は《月花亭》。
気づけば、異世界へ来てからまともな休日らしい休日を過ごしていなかった。
「……行きたいかも」
「決まりね」
アリアが言う。
「明日、中央広場に十時」
「十時?」
セリアが嫌そうな顔をする。
「遅くない?」
麗華が聞く。
「私たち普段何時まで働いてると思ってるの?」
「……確かに」
「朝から元気に起きられる麗華がおかしいのよ」
神から与えられた身体が疲労知らずであることは言えないので、麗華は笑って誤魔化した。
◇
翌朝。
ルーヴェル中央広場。
「……」
「……」
「……」
先に集まっていた三人が、一斉に麗華を見た。
「何?」
麗華は不思議そうに首を傾げる。
今日の麗華は仕事用の黒いドレスではない。
白いブラウスに、腰の位置を少し高く見せる黒のロングスカート。装飾はほとんどなく、長い黒髪もいつものように下ろしているだけだった。
《月花亭》で働く時と比べれば、かなり地味だ。
なのに。
「……その格好で街歩くの?」
セリアが聞く。
「そうだけど」
「目立ちますよ」
「いつもでしょう?」
「自覚あるの腹立つ……」
「何で?」
アリアが麗華を上から下まで眺める。
「本当に何着ても似合うわね」
「ありがとう」
「褒めたくて言ったんじゃないんだけど」
「でも褒めてたでしょう?」
「……こういうところよ」
麗華が笑いながら、今度はルナを見る。
今日のルナは薄い青色のワンピースに、いつもの青い石の髪留めをつけていた。普段の《月花亭》では大人っぽい衣装を着ているが、私服では少し年相応に見える。
「ルナ」
「はい?」
「今日の服可愛いね」
「――っ」
開始数分。
ルナの頬が赤くなる。
「朝からやめてください……」
「何が?」
「そういうのです」
「本当に可愛いから言っただけなのに」
「余計駄目です」
セリアが隣で笑う。
「今日一日で何回ルナを赤くするか数えます?」
「やめて」
「私は数えてみたい」
アリアまで参加する。
「二人とも酷くない?」
「麗華さんが悪いです」
ルナまで加わった。
「私?」
四人の休日は、そんな会話から始まった。
◇
最初に向かったのは、中央広場から少し離れたところにある大きな衣服店だった。
三階建ての建物で、一階には一般向け、二階には少し高級な衣服、三階では注文服を扱っているらしい。
「へぇ……」
店へ入った瞬間、麗華の目が少し輝く。
壁一面。
布。
衣服。
刺繍。
装飾。
見たことのない染め方をされた布もある。
「何その顔」
アリアが笑う。
「楽しい」
「麗華さんでもそんな顔するんですね」
セリアが驚く。
「するよ?」
「何でも知ってそうだから」
「そんなわけないでしょう?」
麗華は一着の服へ近づいた。
裾に細かな植物の刺繍が入っている。
「これ全部手で?」
「当然でしょう?」
アリアが答える。
「すご……」
「そこに驚くの?」
「だってこれ、相当時間かかるでしょう?」
「高い服はそうね」
麗華は縫い目を見ながら素直に感心する。
前の世界なら機械で大量に作られる衣服が当たり前だった。
もちろん手作業の高級品もあったが、ここでは縫製も刺繍も基本的に人の手で行われている。
「本当に綺麗」
麗華が小さく呟く。
アリアが少し意外そうに見る。
「あなた、自分の知らないものにはちゃんと驚くのね」
「当たり前でしょう?」
「何でも『知ってます』って顔してるから」
「してないよ」
「してる」
三人から同時に言われた。
「……酷い」
◇
「麗華さん!」
少し経った頃、セリアが一着の服を持ってきた。
「これどうです?」
赤を基調にしたワンピース。
胸元や袖にも装飾が多く、かなり華やかだ。
「可愛い」
「ですよね!」
「でも」
「……でも?」
麗華は少し店内を見回し、別の服を取った。
淡いクリーム色。
デザイン自体はシンプルだが、腰に細い茶色のリボンがある。
「こっちも着てみて」
「えぇ?」
「嫌?」
「地味じゃないですか?」
「いいから」
「麗華さんが言うなら……」
数分後。
試着室から出てきたセリアを見て、アリアの目が少し変わった。
「あら」
「どうです?」
セリアは不安そうに鏡を見る。
麗華は笑った。
「やっぱり似合う」
「……本当ですか?」
「うん」
「でも何でこっち?」
麗華はセリアの横へ立つ。
「セリアって喋ると明るいでしょう?」
「はい?」
「表情もよく変わるし、声も明るい。だから服まで全部強くしなくても、本人がちゃんと目立つよ」
「……」
「むしろこういう柔らかい色の方が、セリア自身の明るさが見えると思う」
セリアは鏡を見る。
少しだけ照れたように笑った。
「……私、こんなのも似合うんだ」
「似合うよ」
アリアも頷く。
「悔しいけど麗華の言う通りね」
「何で悔しいの?」
「私も同じ店で働いてるから」
「競ってる?」
「少し」
麗華は笑う。
◇
「アリアは?」
「私は自分で選べるわ」
「だと思った」
麗華はすぐ納得した。
「何よそれ」
「アリア、自分に何が似合うか分かってるでしょう?」
「当然」
「なら私が選ばなくても大丈夫」
アリアは少しだけ満足そうな顔をした。
麗華はそれを見たあと、一着の服を取る。
「でも、これ着てみて」
「……白?」
アリアが怪訝そうにする。
普段のアリアは赤や紫など、華やかで大人っぽい服を好む。
麗華が選んだのは、装飾の少ない白いロングワンピースだった。
「私がこれ?」
「うん」
「地味じゃない?」
「アリア自身が派手だから」
「……褒めてる?」
「かなり」
「その言い方セリアにもしてたでしょう」
「本当のことだから」
結局、アリアも試着する。
そして。
「……」
三人。
少し黙る。
「どう?」
アリアが聞く。
いつもの《月花亭》のNo.1。
そんな印象がかなり薄くなっていた。
代わりに。
年相応の綺麗な女性。
少し柔らかい雰囲気。
「すごく似合う」
麗華が言う。
セリアも頷く。
「いつもと全然違います」
「……悪くないわね」
アリアは鏡を見ながら、ほんの少しだけ笑った。
「買う?」
「……買う」
麗華の口元が上がる。
「嬉しそうね」
「だって選んだ服買ってもらえたら嬉しいでしょう?」
「それ、接客?」
「今日は友達」
アリアが一瞬だけ麗華を見る。
それから。
「……そう」
短く答えた。
◇
「次、ルナ」
「え?」
服を見ていたルナが振り返る。
「私、自分で選べますよ?」
「知ってる」
「じゃあどうして」
「私が選びたい」
「……」
ルナが一瞬で黙った。
「また」
「何?」
「ずるいです」
「何が?」
「もういいです」
麗華は楽しそうに服を探し始める。
ルナの髪。
青い瞳。
淡い金髪。
青い石の髪留め。
それらを見ながら、何着か手に取る。
「これかな」
選んだのは、白を基調にしながら淡い水色の刺繍が入ったワンピースだった。
露出は控えめ。
ただ首元は少し広く、鎖骨が綺麗に見える。
「着てみて」
「……分かりました」
数分後。
ルナが試着室から出る。
麗華。
一瞬。
止まる。
「……」
「麗華さん?」
「可愛い」
「……!」
「すごくいい」
ルナの顔が赤くなる。
「本当ですか?」
「うん」
麗華は自然に近づき、ルナの襟元を少し整えた。
「ここ、もう少し外に」
「ち、近いです」
「服直してるだけでしょう?」
「そうですけど」
麗華はさらに髪を少し後ろへ払う。
「やっぱり」
「?」
「この色、ルナの目が綺麗に見える」
「……」
「それに髪留めも合う」
麗華が青い石へ軽く触れる。
以前、ルナが母親と訪れた湖を思い出すから選んだと言っていた髪留め。
「これ買おう」
「麗華さんが決めるんですか?」
「嫌?」
「……嫌じゃないです」
「じゃあ決まり」
アリアとセリアは少し離れた場所から二人を見ていた。
「また始まった」
「何回目です?」
「三回くらい」
「何の話?」
麗華が振り返る。
「何でもない」
二人は同時に答えた。
◇
衣服店を出た後、四人は化粧品を扱う店へ向かった。
そこは麗華にとって、服屋以上に興味深い場所だった。
「これ何?」
「頬紅ですよ」
「何で作ってるの?」
「赤花の花弁と鉱石粉ですね」
「へぇ……」
麗華は小さな容器を手に取る。
頬紅。
白粉。
香油。
蜜蝋と花の色を使った口紅。
植物から抽出した肌用の油。
前の世界ほど種類は多くないものの、使われている素材がまったく違う。
「楽しい」
「さっきからそればっかりですね」
セリアが笑う。
「だって面白いよ」
「麗華さん、化粧詳しいんですか?」
「一応、毎日してたから」
「前の仕事?」
「そう」
歌舞伎町で働いていた頃。
メイクは仕事道具の一つだった。
照明。
服。
時間。
客。
その日に合わせて変える。
「セリア、それ買うの?」
麗華が聞く。
「はい」
セリアが持っていたのは濃い赤色の口紅だった。
「ちょっと待って」
「駄目です?」
「可愛いけど、セリアには少し強いかも」
「また?」
「手、貸して」
麗華は店員の許可をもらい、セリアの手の甲へ少量だけ色を乗せる。
次に少し淡い赤。
「こっちかな」
「違い分からないです」
「塗ったら分かるよ」
「じゃあ麗華さんやってください」
「いいよ」
「え?」
「座って」
麗華は店の椅子へセリアを座らせた。
少量。
唇。
頬。
元々の明るい印象を残す。
鏡。
「……」
セリアが目を開く。
「どう?」
「え」
「嫌?」
「違います」
鏡へ近づく。
「いつもより薄いのに……」
「セリアは元の顔が明るいから、いっぱい色乗せなくていいよ」
「化粧って濃くした方が綺麗になるんじゃないんですか?」
「人によるかな」
麗華は鏡越しにセリアを見る。
「私は、別人になるためだけじゃなくて、元からある綺麗なところを少し分かりやすくするものだと思ってる」
「……」
「もちろん派手にするのも楽しいけどね」
アリアが感心する。
「店で教えたら?」
「何を?」
「化粧」
「そのうちね」
◇
「ルナ」
「……はい?」
「次」
「私もですか?」
「当然」
ルナが少し警戒しながら座る。
麗華は正面。
「目閉じて」
「……」
「怖い?」
「違います」
「じゃあ」
ルナ。
目。
閉じる。
麗華が顔へ近づく。
「……」
「ルナ」
「はい」
「力入りすぎ」
「だって麗華さんが近いんです」
「化粧するんだから仕方ないでしょう?」
「そうなんですけど……」
麗華は笑いながら、ルナの目元へ淡い青と銀色の粉を薄く乗せた。
「目開けて」
青い瞳。
少しだけ。
強調。
「綺麗」
「……!」
「目の話」
「絶対今わざとですよね?」
「何が?」
「もう」
次。
頬。
そして。
口紅。
「顎上げて」
麗華の指先がルナの顎へ触れる。
「動かないで」
「……」
唇へ薄い色。
最後。
麗華が少し離れて見る。
「うん」
「どうですか?」
「可愛い」
「……」
「本当に」
「今日何回言うんです?」
「可愛いと思った回数?」
「そういう返しがずるいんです」
麗華が笑う。
そして髪を整えようとした時だった。
手が自然にルナの首の後ろへ触れる。
「あ」
麗華が止まる。
「ごめん」
「え?」
「ルナ、首の近く触られるの苦手だったよね」
セリアも思い出した。
「あ、そうだ。前に言ってましたよね」
「……」
ルナが固まる。
アリア。
何かを察した顔。
麗華はすぐ手を離そうとした。
「離すね」
「……大丈夫です」
「え?」
「麗華さんなら」
ルナの顔が赤い。
でも。
小さく。
「大丈夫です」
セリアが目を丸くする。
「え?」
アリアの口元が上がる。
「へぇ」
「何ですか!」
麗華も少し楽しそうに見る。
「特別だから?」
「言わないでください!」
「前は自分で言ってたのに」
「それも忘れてください!」
「嫌」
「麗華さん!」
化粧品店の店員まで、何となく微笑ましそうに見ていた。
◇
「次は麗華」
アリアが言った。
「私?」
「ずっと人にやってばっかりじゃ不公平でしょう」
「別にいいけど」
「座って」
三人。
麗華。
囲む。
「何か怖い」
「いつも私たちがされてることよ」
セリアが頬紅。
アリアが目元。
ルナが髪。
だが。
五分後。
「……」
セリアが眉を寄せる。
「どうしたの?」
「腹立ちます」
「何で?」
「何塗っても似合う」
「それはありがとう?」
アリアも少し不満そう。
「薄くても綺麗。濃くしても綺麗。遊び甲斐がないわ」
「私どうしたらいいの?」
「顔交換して」
「無理」
「麗華さんはそのままが一番好きです」
ルナが何気なく言った。
「……」
全員。
見る。
「え」
ルナ。
気づく。
「違います!」
「何が?」
「そういう意味じゃなくて!」
麗華が笑う。
「私は嬉しいよ?」
「麗華さんは黙っててください!」
◇
化粧品店を出た後、アリアとセリアが向かいにある装飾品店へ先に入った。
「二人とも早いな」
「本当ですね」
麗華とルナは少し後ろを歩く。
ルナは先ほど麗華が選んだ服へ着替えていた。
白と淡い青。
青い髪留め。
化粧。
かなり似合っている。
「ルナ」
「何です?」
「やっぱり今日可愛い」
「またですか……」
「見たら言いたくなる」
「……」
「何?」
「何でもないです」
嬉しそう。
麗華には分かる。
その時だった。
「ねえ」
前から歩いてきた若い男二人が立ち止まった。
「そこの子」
ルナが振り返る。
「私ですか?」
「そう。めちゃくちゃ可愛いじゃん」
「……ありがとうございます」
「今暇?」
「え?」
「この辺詳しいからさ、一緒に飲みに行かない?」
ルナは困ったように麗華を見る。
「ごめんなさい。今日は友達と――」
「少しくらいいいだろ?」
「いい店知ってるんだよ」
「でも」
「一杯だけ」
麗華は少しだけ様子を見ていた。
まだ止める必要はない。
ルナ自身が断っている。
「ごめんなさい。今日は無理です」
「そんな固いこと言わずにさ」
一人がさらに距離を詰める。
そこで。
麗華が動いた。
「ごめんなさい」
ルナの隣へ一歩。
自然に。
肩へ腕を回す。
「――っ」
ルナの身体が僅かに跳ねる。
そのまま麗華はルナを自分の方へ軽く抱き寄せた。
男たち。
ようやく麗華の顔をまともに見る。
「……」
「……え」
一瞬。
言葉。
なくなる。
麗華は柔らかく笑う。
「この子、今私とデート中なの」
「――っ!?」
一番驚いたのはルナだった。
「デ、デート?」
男が聞き返す。
「うん」
麗華は肩を抱いたまま、ルナを見る。
「だから今日は貸してあげられない」
「……そ、それなら」
「邪魔して悪かった」
二人は麗華とルナを何度か見たあと、そのまま去っていった。
「行ったよ」
「……」
「ルナ?」
「……麗華さん」
ルナ。
真っ赤。
「何?」
「デートって何ですか」
「間違ってる?」
「え?」
「二人で服見て、化粧品見て、ご飯食べる予定でしょう?」
「それは」
「デートみたいじゃない?」
「みたいって……!」
麗華はまだルナの肩を抱いている。
「嫌だった?」
「……嫌じゃないです」
「じゃあいいでしょう?」
「よくないです!」
「どっち?」
「……」
ルナ。
視線。
下。
「嬉しかったですけど」
麗華。
少し。
笑う。
「可愛い」
「もう……」
そこで麗華は、自分の腕がまだルナの肩に回っていることに気づく。
「あ、ごめん」
「え?」
「もう離した方がいい?」
腕を動かそうとする。
「……」
ルナ。
少し迷う。
そして。
「そのままでいいです」
「いいの?」
「……はい」
「ふふ」
「本当にずるいです……」
それでも。
ルナは肩へ回された腕を退けなかった。
むしろ歩き始めても、そのまま。
二人。
少しだけ近い距離。
◇
「遅かったですね」
装飾品店の前。
セリアが手を振る。
「ルナがナンパされてた」
「え!?」
アリアの顔も少し真面目になる。
「大丈夫だった?」
「うん」
麗華。
普通。
「今デート中だからって断っといた」
「……」
セリア。
止まる。
「誰と?」
麗華。
隣。
ルナ。
見る。
「私と」
「麗華さん!」
ルナが顔を真っ赤にする。
アリア。
「……今日、女子会よね?」
「途中からデートになったみたい」
「なってません!」
「さっき嬉しかったって」
「言わないでください!」
セリア。
大笑い。
「私たち邪魔じゃないですか?」
「セリア!」
「じゃあ二人で行ってきたら?」
アリアまで加わる。
「アリアさんまで!」
麗華は隣で楽しそうに笑っているだけだった。
「麗華さんも否定してください!」
「私は楽しいよ?」
「何がですか!」
「デート」
「もう!」
◇
昼。
四人は市場近くにある小さな料理店へ入った。
肉と野菜を焼いたもの。
パン。
スープ。
昼間から軽い酒を頼むアリア。
「休日って感じ」
「まだ飲むんですか?」
セリアが聞く。
「仕事じゃない酒が一番美味しいのよ」
「それは分かるかも」
麗華も少しだけ飲む。
しばらく買った服や化粧品について話したあと、アリアがふと聞いた。
「そういえば麗華」
「何?」
「本当に好きな男いないの?」
「いない」
「即答」
「だっていないから」
セリアが身を乗り出す。
「前にいたところでも?」
「いなかったかな」
「告白されたことは?」
「あるよ」
「何人くらい?」
麗華は少し考える。
「覚えてない」
「……」
三人。
無言。
「何?」
「最低」
アリアが言う。
「どうして!?」
「普通、少しくらい覚えてるでしょう」
「客からも言われてたから混ざってるの」
「どれくらいモテてたんですか……」
ルナが少し複雑そうな顔をしている。
麗華。
気づく。
「ルナ?」
「何でもないです」
「妬いてる?」
「違います!」
「ふふ」
「絶対楽しんでますよね」
「ちょっと」
「もう……」
今度は麗華がアリアを見る。
「アリアは?」
「秘密」
「いるんだ」
セリアが即座に反応する。
「そういう意味じゃない!」
「今の反応絶対いますよ!」
「うるさい!」
女性四人。
笑う。
客としてではなく。
店員としてでもなく。
ただ。
同年代の女同士。
そんな時間。
◇
食事が終わり、甘い焼き菓子が運ばれてきた頃だった。
「そういえば」
セリアが何気なく聞く。
「麗華さんって、家族と買い物行ったりしてたんですか?」
麗華の手がほんの少しだけ止まる。
「家族?」
「はい。今日みたいに」
「……」
頭。
浮かぶ。
母。
父。
弟。
そして。
最後に一緒に暮らした人。
「おばあちゃんとは、よく行ったよ」
「おばあちゃん?」
ルナが聞く。
「うん」
「どんな人だったんです?」
麗華は少し考える。
全てを話すことはできない。
この世界。
前の人生。
それ自体を説明することも。
「優しかった」
「麗華さんみたいに?」
「私よりずっと」
「そんなに?」
「ちょっと抜けててね」
麗華が笑う。
「買い物行くと、欲しいもの忘れて全然違うもの買って帰るの」
「可愛い」
ルナが笑う。
「あと値段計算するの苦手だった」
「麗華さんと全然違いますね」
セリア。
「どういう意味?」
「麗華さん全部計算してそうだから」
「失礼ね」
笑う。
でも。
少しだけ。
懐かしい。
『麗華、この服どう?』
『おばあちゃん、それ若すぎない?』
『何言ってるの、女はいつまでも若いのよ』
『じゃあ着てみれば?』
『やっぱり恥ずかしい』
『どっちなの』
何でもない日。
何でもない会話。
あの頃。
借金。
取り立て。
不安。
色々。
あった。
それでも。
一緒に買い物をした日は。
少し楽しかった。
「……」
「麗華さん?」
ルナの声。
現実。
戻る。
「何?」
「大丈夫ですか?」
「うん」
麗華は笑う。
「ただ」
少しだけ。
本音。
「もう一回、一緒に買い物したかったなって」
誰もすぐには何も言わなかった。
麗華が過去形を使った意味。
三人とも。
なんとなく。
分かる。
深くは聞かない。
その代わり。
アリアが残っていた菓子を麗華の皿へ一つ置いた。
「じゃあ今日はいっぱい買いなさい」
「……何で?」
「私たちが付き合うから」
「もう結構買ったけど」
「まだ足りないわ」
「何基準?」
「私基準」
セリアも笑う。
「行きましょう! まだ靴見てないです!」
「香油も」
ルナ。
「……」
麗華は三人を見る。
「ありがとう」
小さく。
本当に。
「何よ急に」
アリアは照れたように酒へ口をつける。
「友達なんだから当たり前でしょう?」
「……」
麗華。
少し。
目。
柔らかい。
「そっか」
友達。
この世界で。
初めて。
そう呼ばれた。
◇
午後。
四人は香油を扱う店へ向かった。
「これいい匂い」
セリアは柑橘。
アリアは少し甘い花。
ルナは透明感のある草木と水を思わせる香り。
麗華がルナの選んだ香油を嗅ぐ。
「これ、ルナっぽいね」
「どうして?」
「湖みたい」
ルナが少し驚く。
「……覚えてたんですか?」
「何を?」
「髪留め」
「もちろん」
母親。
幼い頃。
湖。
以前聞いた話。
「この髪留め見ると湖思い出すって言ってたでしょう?」
「……」
ルナ。
嬉しそう。
「本当に覚えてるんですね」
「人の話は結構覚えるから」
「数百人分」
アリア。
横から。
「それまだ言う?」
「怖かったから」
「褒め言葉にして」
今度は三人が麗華の香りを選ぶ。
「薔薇」
セリア。
「違う。もっと静かなもの」
アリア。
「これ」
ルナが一つ持ってくる。
白い花。
夜に咲く花らしい。
少し甘く。
でも。
落ち着く。
麗華。
嗅ぐ。
「……好き」
「でしょう?」
ルナ。
嬉しい。
「これ買う」
その香りは。
やがて。
まだ遠い未来。
麗華が自分の店を持つ時。
店内へ微かに漂う香りになるのだが。
今の彼女は。
まだ知らない。
◇
夕方。
「……」
麗華は自分の手にある袋を見る。
「買いすぎた」
「半分あなたのせいよ」
アリアも両手いっぱい。
「麗華さんが『これ似合う』って言うから!」
セリア。
「私、予定の三倍くらい使いました……」
ルナ。
「でも全部似合ってたよ」
麗華。
「……ならいいです」
ルナ。
即答。
アリアが呆れる。
「甘すぎない?」
「何が?」
「麗華に」
「だって」
ルナ。
途中。
止まる。
「だって?」
麗華が聞く。
「……何でもないです」
「また?」
「言いません」
「気になる」
「絶対言わない」
セリアが笑う。
「また二人の世界始まりました?」
「始まってません!」
◇
その日の夜。
店自体は休みだったが、四人は買った服をエルザへ見せるため、《月花亭》へ少しだけ寄った。
「……ずいぶん買ったわね」
エルザが袋の山を見る。
「麗華さんのせいです」
「何で私?」
「全部似合うって言うからです!」
「似合ってたでしょう?」
「そうですけど!」
アリアも新しい白いワンピースを見せる。
「いいじゃない」
エルザが少し驚く。
「麗華が選んだ」
「へぇ」
「何その顔」
「あなたがこういうの着るとは思わなかった」
「私も」
セリアが割り込む。
「それより聞いてください!」
「何?」
「今日、ルナと麗華さんがデートしてました」
「してません!」
即座。
ルナ。
反論。
エルザが麗華を見る。
「したの?」
「私は結構楽しかったよ」
「麗華さん!」
アリア。
「ナンパされたルナを肩抱いて『今私とデート中だから』って」
「へぇ」
エルザの口元。
にや。
「格好いいじゃない」
「違います! ナンパを断るためです!」
「でもルナ、嬉しかったって」
麗華。
「言わないでください!」
「しかも肩抱かれたまま歩いてきたわよ」
アリア。
「アリアさんまで!」
「何?」
セリアが驚く。
「嫌じゃなかったんです?」
「……」
ルナ。
真っ赤。
麗華。
楽しそう。
「私なら特別なんだって」
「麗華さん!」
「ほう」
エルザ。
腕。
組む。
「麗華」
「何?」
「あんた、本当に女まで落とすのやめなさい」
「何もしてないのに」
三人。
「してる!」
「……」
麗華。
少し。
笑う。
◇
帰り。
一人。
宿へ。
袋。
いっぱい。
麗華は夜の街を歩きながら、今日一日を思い返していた。
服。
化粧。
食事。
香り。
笑い。
ナンパ。
ルナ。
アリア。
セリア。
『友達なんだから当たり前でしょう?』
「……」
気づく。
今日。
一度も。
冒険者のことを考えなかった。
魔物。
謎の黒い組織。
ルシアン。
仕事。
売上。
何も。
ただ。
遊んだ。
「……久しぶりだな」
前世。
十七歳。
家族を失った。
その後。
祖母。
借金。
二十歳。
歌舞伎町。
トップ。
返済。
ずっと。
何かを背負っていた。
楽しい日もあった。
笑った日も。
もちろん。
たくさん。
でも。
何も考えず。
友達と。
一日中。
買い物。
「……」
袋の中。
白い花。
香油。
ルナが選んでくれた。
少しだけ香る。
「悪くないね」
麗華は小さく笑う。
異世界へ来た。
最初。
二度目の人生。
自分が何をしたいのか。
分からなかった。
ただ。
自由に。
生きよう。
それだけ。
でも。
今は。
少し。
違う。
《月花亭》。
エルザ。
アリア。
セリア。
ルナ。
ガイル。
ロッド。
ミナ。
この世界で出会った人たち。
少しずつ。
自分の人生の中へ。
入ってきている。
「……友達、か」
麗華。
少しだけ。
嬉しそう。
◇
そして翌日。
「麗華」
《月花亭》。
開店前。
「何?」
エルザ。
帳簿。
「今日仕事よ」
「……」
「何その顔」
「休み、もう一日ない?」
「ない」
「昨日いっぱい歩いた」
「冒険者でしょう?」
「そうだけど」
「女王様でも働きなさい」
「誰が女王」
アリアが横から言う。
「夜の」
「やめて」
セリアも笑う。
「女王様、今日予約いっぱいですよ」
「……逃げようかな」
「駄目です」
ルナが言う。
麗華。
ルナ。
見る。
「ルナが言うなら仕方ない」
「……!」
「はい一回」
セリア。
指。
立てる。
「何が?」
「今日ルナが赤くなった回数」
「また数えるの!?」
笑い。
《月花亭》。
響く。
少し前まで。
誰も知らなかった。
異世界。
でも。
九条麗華にとって。
少しずつ。
帰る場所の一つに。
なり始めていた。




