第十一話 女王、変わった男を疑う
休日明けの《月花亭》は、営業前からいつも以上に騒がしかった。
「それでですね! 麗華さんが急にルナの肩を抱いて、『この子、今私とデート中なの』って!」
「セリア!」
店の中央では、昨日の出来事を楽しそうに話すセリアと、それを必死に止めようとするルナの姿がある。
少し離れたところで酒瓶を並べていたアリアは、すでに何度も聞いた話だというのに口元を緩めていた。
「もういいじゃない。本人も嬉しかったって言ってたんでしょう?」
「それも言わないでください!」
「でも言ったよね?」
横から麗華が入る。
「麗華さんまで!」
ルナが振り返ると、麗華は昨日購入した夜に咲く白い花の香油をほんの少しだけ使っていた。甘すぎず、近くにいる時だけ分かる程度の静かな香りが黒髪の麗華によく似合っている。
ルナは何かに気づいたように瞬きをした。
「……麗華さん」
「何?」
「その香り」
「ああ、分かった?」
「私が選んだので」
麗華は自分の髪を少し持ち上げ、香りを確かめるようにする。
「気に入ったから、今日つけてみた」
「……」
「ルナ?」
「嬉しいです」
小さく答えたルナの頬が少しだけ赤くなる。
それを見たセリアが即座に指を一本立てた。
「一回」
「何が?」
「今日、ルナが麗華さんに赤くさせられた回数」
「また数えるんですか!?」
「昨日面白かったから」
「やめてください!」
麗華は笑いながら、ルナの近くへ少し顔を寄せる。
「もう少し近くで嗅ぐ?」
「え?」
「せっかくルナが選んでくれたんだから」
首元を少しだけルナへ向ける。
「近い方が分かるよ?」
「む、無理です!」
ルナが一気に後ろへ下がった。
「二回」
「セリア!」
「朝から何やってるのよ」
呆れた声とともに、エルザが奥から出てくる。
「営業前よ?」
「麗華さんがルナを遊んでます」
「人聞き悪いなぁ」
「事実でしょう?」
アリアまで加わる。
麗華が少し不満そうに口を尖らせた、その時だった。
「麗華」
エルザが呼ぶ。
「何?」
「予約入ったわよ」
「もう?」
「ええ」
エルザは帳簿を一枚めくった。
「ルシアン様」
空気がほんの少しだけ変わった。
麗華の手も一瞬止まる。
「……来るんだ」
「一週間ぶりくらいかしら」
「八日」
ルナが即答した。
全員がルナを見る。
「……何ですか」
セリアの口元がにやける。
「数えてたんですね」
「違います! 麗華さんが困ってたから気にしてただけです!」
「はいはい」
「本当です!」
麗華はそんなルナを見て、少し笑った。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「昨日、言ってくれたでしょう?」
「何をです?」
「私は誰のものでもないって」
「……」
ルナの顔がまた赤くなる。
「今それ言うんですか……」
「嬉しかったから覚えてる」
「三回」
「セリア!」
少しだけ緊張していた空気が、また柔らかくなる。
けれど麗華の中には、小さな警戒が残っていた。
最後にルシアンと話した夜。
彼は麗華に言われた。
自分が本当に麗華を好きなのか、それとも手に入らないから欲しいだけなのか、一度考えてほしいと。
そして、八日間姿を見せなかった。
麗華としては、あれだけ話したのだから、少しは何か変わっていてほしいという気持ちもあった。
同時に。
人はそんなに簡単に変わらないとも知っている。
「まあ」
麗華は再び酒瓶へ手を伸ばした。
「会えば分かるかな」
◇
夜。
開店から一時間ほど経った頃、《月花亭》の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
店員の声。
ルシアンが入ってくる。
以前と変わらない上等な服。
淡い金髪。
整った顔立ち。
ただし。
贈り物は持っていない。
誰かを連れているわけでもない。
麗華は少し離れたところから、その姿を見ていた。
ルシアンもすぐ麗華を見つける。
「麗華」
「こんばんは、ルシアン様」
麗華はいつも通り笑う。
「お久しぶりです」
「……ああ」
「いつもの席でいいです?」
「頼む」
それだけ。
以前なら、会えなかった分を埋めるように何か言ってきただろう。
麗華は少し意外に思いながら、ルシアンを席へ案内した。
酒を用意する。
「前と同じ?」
「今日は軽いものにしてくれ」
「分かりました」
果実酒を少し薄める。
ルシアンは麗華が酒を作る手元を眺め、しばらく何も話さなかった。
そして。
「麗華」
「はい?」
「この前は悪かった」
麗華の手が少し止まる。
「何について?」
「全部だ」
「全部?」
「食事にしつこく誘ったこと。店の外で待っていたこと。一晩、お前の時間を金で取ろうとしたこと。それから、俺の屋敷へ来いと言ったことも」
麗華は黙ってルシアンの顔を見る。
声。
目。
座り方。
手。
冗談で言っている様子はない。
言わされている感じもない。
「考えたんです?」
「ああ」
「私が言ったこと?」
「何度も」
ルシアンは一度視線を落とした。
「正直に言えば、最初は腹が立った」
「でしょうね」
「そこは否定しないんだな」
「する必要ないでしょう?」
麗華が少し笑う。
「好きな相手に『あなた私を見てないですよ』なんて言われたら、普通は傷つくと思います」
「かなりな」
「ごめんなさい」
「今さら謝るな」
「でも」
麗華は声を少し柔らかくする。
「考えてくれたなら嬉しいです」
「……」
「それで?」
「お前の言う通りだった」
ルシアンはゆっくりと続けた。
「俺は自分が正しいと思っていた。お前を危険な仕事から遠ざけ、働かなくても困らない生活を与えて、それがお前のためになると思っていた」
「うん」
「だが、お前は冒険者も、この店の仕事も好きだと言っていた」
「そうですね」
「俺は聞いていた。ただ、受け入れていなかった」
「……」
「お前が間違っていると思っていたからだ」
麗華は少し目を細める。
ここまで自分の行動を言葉にできるなら、少なくとも何も考えなかったわけではない。
「だから」
ルシアンは麗華を見る。
「もう無理にやめろとは言わない」
「店外で待たない?」
「ああ」
「無理に食事へ誘わない?」
「……誘うこと自体も駄目か?」
「一回聞いて、断ったら終わりなら別に」
「分かった」
「高い宝石も?」
「贈らない」
「貸し切り」
「しない」
麗華は少しだけ笑った。
「結構ちゃんと考えたんですね」
「お前にここまで言われて、何も考えないほど馬鹿ではない」
「それは知ってます」
「……」
「商会の相談した時から、頭いい人だとは思ってましたよ」
ルシアンの表情がほんの少し柔らかくなる。
「なら」
「恋愛になると馬鹿になるだけで」
「お前は本当に一言余計だな」
「ふふ」
久しぶりに。
普通に笑えた。
麗華自身も、少し安心する。
「じゃあ」
「何だ」
「今までのことは、ここで終わりでいいですよ」
「……そんな簡単にか?」
「やめてくれるなら」
「怒っていないのか?」
「怒ってましたよ。特に外で待ってた時」
「やはり」
「でも、ちゃんと分かってやめるなら、ずっと怒ってる意味ないでしょう?」
「……」
「私、嫌なことをやめてくれた人までずっと嫌うほど暇じゃないので」
「暇の問題か?」
「半分は」
ルシアンが小さく笑う。
麗華も笑う。
その晩。
彼は一度も店外へ誘わなかった。
贈り物もない。
閉店まで居座ることもなく、普通に酒を飲み、商会の話を少しして帰った。
「麗華」
「はい」
帰る直前。
「今日は楽しかった」
「私も」
「……そうか」
「また普通に飲みに来てください」
「ああ」
それだけで。
帰った。
麗華は遠ざかっていく背中を見ながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……本当に変わったのかな」
◇
次の日。
ルシアンは来なかった。
その次の日に来た。
でも普通に飲んで帰った。
さらに二日後。
商会の資料を持ってきた。
「相談いいか?」
「もちろん」
麗華は席へ座る。
「今度は何?」
「職人だ」
「職人?」
「以前話した織物商会の工房で、熟練の職人が何人か辞めている」
「最近?」
「ここ半年で七人」
「多いんです?」
「かなり多い。特に腕の良い者ばかりだ」
ルシアンは資料を広げる。
「給料は?」
「同業より高い」
「勤務時間?」
「他の工房と大きくは変わらない」
「辞めた後は?」
「別の商会か、小さな個人工房へ移った者が多い」
「そっちの給料は?」
「うちより安いところもある」
麗華は少し考えた。
「じゃあ、お金じゃない可能性高そうですね」
「俺もそう思う」
「本人たちに聞いた?」
「……」
「聞いてないんだ」
「退職時に理由は聞いている。家庭の事情、体力的な問題、別の仕事をしたい、そういう回答だ」
「本音だと思います?」
「分からない」
「だったら」
麗華は資料を閉じた。
「まず本人に聞けば?」
「辞めた人間に?」
「うん」
「今さら商会の人間が訪ねたら警戒されないか?」
「されるでしょうね」
「なら」
「だから、聞き方考える」
麗華は少し笑う。
「『戻ってこい』じゃなくて、『これから働く人のために、何が嫌だったか教えてほしい』って」
「……」
「しかもルシアン様本人が行かない方がいいかも」
「なぜだ?」
「伯爵家の人に直接聞かれて、『上司が嫌でした』って言える?」
「……言いにくいな」
「でしょう?」
麗華は紙へ簡単に書く。
「信用できる第三者か、元職人。できれば立場の近い人に聞いてもらう」
「匿名で?」
「それもあり」
「……」
「あと、一人じゃなくて何人か」
「理由が同じかを見るのか」
「そう」
ルシアンは少し頷いた。
「お前なら、原因は何だと思う?」
「まだ分からない」
「予想もないのか?」
「あるけど」
「なら聞かせろ」
「嫌」
「なぜだ」
「先に答え決めたら、それに合う話ばっかり集めるかもしれないでしょう?」
「……」
「『職人はきっと給料が不満なんだ』って思って聞いたら、お金の話しか見なくなる。だから先に本人に聞いた方がいい」
ルシアンがしばらく麗華を見る。
「何?」
「いや」
「?」
「前なら、お前の答えだけ聞いて帰っていた気がする」
「今は?」
「まず聞けと言われた意味を考えている」
麗華の表情が少し柔らかくなる。
「いいですね」
「何が」
「その方が」
一拍。
「格好いいですよ」
ルシアンの手が僅かに止まる。
「……そういうことを簡単に言うな」
「褒めただけです」
「分かっている」
「ならいいでしょう?」
「分かっていても困る」
「そこまでは知らないです」
麗華が笑う。
けれど。
その日のルシアンは、それ以上踏み込まなかった。
◇
一週間後。
結果は出た。
「麗華」
「早かったですね」
「かなり面白いものが分かった」
ルシアンは資料を置いた。
「職人たちが辞めていた一番の理由は、評価だった」
「評価?」
「誰が作っても、すべて《アルヴェール織商会》の商品として売られる。当然ではあるんだが、熟練職人ほど、自分が何年かけて作った技術も新人と同じように扱われることに不満があったらしい」
「なるほど」
「さらに、腕が上がっても役職が変わらない。報酬差も小さい」
「それは辞める人いそうですね」
「特に一人、うちで十五年働いた職人は、自分で考えた意匠を何度も出したが、店側に却下されたと言っていた」
「その人、今どこ?」
「小さな工房を立ち上げている」
「楽しそう?」
「……かなりな」
麗華は少し笑った。
「じゃあ、答えほとんど出てるんじゃない?」
「どうする?」
「職人さんの名前、商品に出せない?」
「名前を?」
「例えば」
麗華は紙へ書く。
『職人ルーベルト作』
「こうやって」
「服に職人の名を?」
「うん。全部じゃなくていいと思う。腕の良い人だけでも」
「……ブランドの中に、さらに職人の名を置くのか」
「ぶらんど?」
「いや、お前が前に似たような言葉を……」
「ああ」
麗華は少し危なかったと内心で思いながら続ける。
「誰が作ったか分かったら、その職人さん自身にお客さんがつくこともあるでしょう?」
「なるほど」
「それに、売れた数に応じて少し報奨つけるとか」
「金か」
「お金だけじゃないよ」
「?」
「工房長とか、指導役とか、自分で意匠を出せる枠とか」
麗華は指を折りながら言う。
「何年も技術を磨いてきた人なら、『あなたは上手い』って言われるだけじゃなくて、ちゃんと立場でも認めてほしい人いるでしょう?」
「……」
「自分の仕事が、自分のものだって分かるようにする」
ルシアンはゆっくり頷く。
「前なら俺は、給料を上げれば残ると考えていた」
「それで残る人もいると思いますよ」
「だが全員ではない」
「うん」
「……人によって違う、か」
麗華が笑う。
「分かってきたじゃないですか」
「誰に教わったと思っている」
「私?」
「他に誰がいる」
「褒めても相談料くらいしか出ませんよ」
「取るのか?」
「冗談」
そんな会話ができるくらいには、ルシアンとの空気は戻っていた。
◇
だからこそ。
麗華は、小さな違和感にも気づいた。
ある夜。
「麗華」
ガイルが《月花亭》へ来た。
「珍しいですね」
「明日の依頼の件でな」
「わざわざ店まで?」
「ギルドで会えなかったから」
「何?」
「北側の街道護衛。人手足りないらしい」
「ああ、それ気になってた」
「来るか?」
「行こうかな」
「朝七時集合だ」
「分かった」
その会話をしている間。
ルシアンは少し離れた席で酒を飲んでいた。
何も言わない。
以前なら、
『危険ではないのか』
『冒険者なんてやめろ』
と口を挟んでいたかもしれない。
今は何も言わない。
麗華も最初は、
ちゃんと変わろうとしているんだな。
そう思った。
でも。
ガイルが、
「最近北は少し魔物が増えてるから気をつけろよ」
と言った瞬間。
ルシアンの持っていたグラス。
ほんの僅か。
指。
強くなる。
「……」
麗華の目がそこへ向く。
一瞬。
それだけ。
すぐ元に戻る。
「麗華?」
「何?」
「聞いてるか?」
「聞いてる。朝七時ね」
「ああ」
麗華は何も言わなかった。
◇
別の日。
「麗華」
ロッドがいつものように店へやって来た。
「何?」
「今度飯食いに行こう」
「四人で?」
「……二人で」
「行かない」
「まだ駄目?」
「まだじゃなくて、ずっと駄目」
「そこを何とか」
「何とかならない」
ロッドが肩を落とす。
麗華は少し笑いながら酒を注ぐ。
「ガイルとミナも呼ぶなら行くよ」
「じゃあ四人で」
「切り替え早いね」
「俺も成長したんだ」
「いいこと」
そのやり取り。
少し離れた席。
ルシアン。
見ている。
口元。
笑っている。
けれど。
目。
笑っていない。
「……」
麗華はまた気づく。
でも。
何も言わない。
(我慢してるだけ?)
それ自体は悪いことではない。
嫉妬するな、とまでは言っていない。
好きなら嫉妬くらいするだろう。
大事なのは、それを理由に相手の行動を縛らないこと。
今のところ。
ルシアンは何もしていない。
少なくとも。
麗華の目の前では。
◇
「九条さん」
翌朝。
冒険者ギルド。
「昨日の北街道護衛なんですが……」
受付嬢が少し困った顔をしていた。
「何?」
「すでに募集が締め切られまして」
「早いですね」
「依頼主側から人数を減らすと連絡がありました」
「そうなんだ」
麗華は特に気にしなかった。
「じゃあ別の依頼にします」
「申し訳ありません」
「受付嬢さんが謝ることじゃないでしょう?」
麗華は依頼板を見る。
「これどうです?」
「南部の討伐依頼ですね」
「Fランクでも大丈夫?」
「本来なら可能なんですが……」
「ですが?」
「今朝、条件が変更されまして、Cランク以上となりました」
「……今日?」
「はい」
「へぇ」
麗華は紙を見る。
「何か危険度上がった?」
「依頼主からは念のため、と」
「そっか」
麗華はそれ以上聞かなかった。
採取依頼を一つ選ぶ。
「じゃあこれ」
「薬草ですか?」
「原点回帰」
受付嬢が少し笑った。
「九条さんが普通の依頼を選ぶと安心します」
「普段何だと思われてるの?」
「報告書が毎回おかしい人です」
「酷い」
◇
その日の夜。
「今日どうだった?」
ルシアンが聞いた。
「何が?」
「冒険者の仕事」
「薬草採ってました」
「……お前が?」
「何その反応」
「いや、もっと危険な仕事へ行くと思っていた」
「行こうと思ってたんですけど、二つとも駄目になって」
麗華は酒を注ぎながら、何気ない調子で言う。
「北の護衛は人数減らされて、南の討伐は急にCランク以上になった」
「そうなのか」
ほんの一瞬。
ルシアンの目。
動く。
麗華は見逃さなかった。
「不思議でしょう?」
「偶然じゃないか」
「そうかも」
麗華は笑う。
それ以上。
聞かない。
でも。
心の中。
(知ってる?)
小さな疑い。
生まれる。
◇
同じ夜。
アルヴェール伯爵家。
「ルシアン様」
執務室へ一人の男が入る。
「報告を」
「ああ」
「九条麗華は本日、東部の森で薬草採取の依頼を受注。危険な魔物との接触はありません」
「そうか」
「同行者はなし」
「……」
ルシアンは書類から顔を上げた。
「北街道の護衛は?」
「依頼主へ人数削減を提案したところ受け入れられました。アルヴェール家と取引のある商会でしたので」
「南は」
「討伐対象周辺で魔物の目撃が増えたという理由で、Cランク以上へ変更されています」
「分かった」
男は少し迷う。
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「九条麗華本人は、これらを望んでいるのでしょうか」
ルシアンの手が止まる。
「……何が言いたい」
「いえ。ただ、本人は冒険者の仕事を続けたいと聞いておりますので」
「続けさせている」
「……」
「採取依頼は受けられただろう」
「はい」
「危険な仕事だけを減らしている」
「……」
「何か問題があるか?」
「ございません」
男は頭を下げて去った。
扉。
閉じる。
ルシアンはしばらく机を見つめる。
『私が嫌だって言ってることも、見てほしいな』
麗華の声。
思い出す。
「……」
自分は彼女を見ている。
以前より。
ずっと。
何を好むか。
誰と話すか。
どこへ行くか。
何をするか。
全部。
知ろうとしている。
だから。
危険を減らしているだけだ。
「守っているだけだ」
誰に言うでもなく呟く。
自分へ。
言い聞かせるように。
◇
数日後。
「エドガー」
「珍しいな。お前から呼ぶなんて」
アルヴェール家の客間。
エドガーが向かいへ座る。
「麗華のことで聞きたい」
「……」
エドガーの目が少し細くなる。
「まだ諦めてないのか」
「その話ではない」
「じゃあ何だ」
「冒険者仲間についてだ」
「ガイルたちか?」
「ああ」
「何が知りたい」
「麗華とはどの程度親しい?」
「……」
エドガーはしばらくルシアンを見る。
「なぜ聞く」
「麗華のことを知りたいからだ」
「本人に聞け」
「聞けないこともあるだろう」
「例えば?」
「過去」
エドガーの表情が少し険しくなる。
「ルシアン」
「何だ」
「お前、この前麗華に何を言われた?」
「……」
「相手を見ろって言われたんじゃないのか?」
「だから見ようとしている」
「違う」
「何がだ」
「見ようとするのと、勝手に調べるのは別だ」
ルシアンの眉が僅かに動く。
「俺はただ、知りたいだけだ」
「本人が話してないことまで?」
「……」
「やめとけ」
「なぜ」
「麗華が嫌がる」
「それは聞いてみなければ分からない」
「なら本人に聞け」
「……」
エドガーはため息を吐いた。
「お前、前より面倒になってないか?」
「俺は変わった」
「どうだか」
エドガーは椅子から立つ。
「一つだけ言っておく」
「何だ」
「麗華は、お前が思ってるよりずっと人を見てるぞ」
「知っている」
「なら、隠せると思わない方がいい」
そう言い残し。
エドガーは帰った。
ルシアンは何も答えなかった。
◇
翌日。
麗華は冒険者ギルドの依頼板を眺めていた。
「……」
一枚。
南街道。
護衛。
距離は長い。
途中で魔物が出る可能性もある。
「これ」
受付へ持っていく。
「九条さん、こちらですか?」
「うん」
「Fランクでも参加可能です。Cランク以上の護衛が同行条件ですが」
「じゃあ受けようかな」
「登録します?」
「……」
麗華は少し考えた。
そして。
「やっぱり今日はやめとく」
「え?」
「明日また来ます」
「はあ……」
受付嬢は不思議そうだった。
◇
その日の夜。
「麗華」
「はい?」
いつもの席。
ルシアン。
普通。
「今日は冒険者の仕事は?」
「してないです」
「珍しいな」
「明後日、南街道の護衛行こうかなって」
何気なく。
言う。
「南?」
「うん。三日くらい」
「危険は?」
「多少は」
「……そうか」
それだけ。
ルシアンは止めなかった。
麗華も笑う。
「意外」
「何が」
「以前ならやめろって言ってたでしょう?」
「もう言わないと約束した」
「覚えてたんですね」
「当然だ」
「えらい」
「子供扱いするな」
「ふふ」
麗華はそのまま話題を変えた。
ちなみに。
明後日。
南街道へ行く予定などない。
◇
翌朝。
麗華はギルドへ入る。
「おはようございます」
「おはよう」
受付嬢。
昨日。
見た。
依頼。
麗華。
探す。
「あれ?」
「どうしました?」
「南街道の護衛」
「ああ……」
受付嬢。
少し困った顔。
「今朝、条件変更が入りまして」
「どんな?」
「Bランク以上」
「……昨日はFランクでも良かったよね?」
「はい。ただ依頼主の商会が、最近街道周辺の魔物が増えているから安全を優先したいと」
「へぇ」
麗華は紙を見る。
依頼主。
商会名。
覚える。
「その商会って、アルヴェール家と関係ある?」
「え?」
「知らなかったらいいよ」
「少しお待ちください」
受付嬢が資料を確認する。
「……取引先の一つですね。布類の輸送をアルヴェール商会が請け負っているようです」
「そっか」
麗華。
笑う。
「ありがとう」
「受けませんか?」
「うん」
「別の依頼を?」
「今日はいいや」
麗華はそのままギルドを出た。
石畳。
朝。
人。
行き交う。
「……」
一つ目。
偶然。
二つ目も。
まあ。
偶然かもしれない。
でも。
三つ目。
麗華がルシアンにだけ話した。
受けるつもりすらなかった依頼。
翌朝。
条件変更。
「なるほど」
麗華は少しだけ目を細めた。
怒り。
まだない。
ただ。
警戒。
「ルシアン様」
小さく呟く。
「何してるのかな」
◇
その夜。
麗華は何も知らない顔で《月花亭》へ出勤した。
「麗華さん」
「ん?」
ルナが近づいてくる。
「今日、冒険者の仕事は?」
「休み」
「珍しいですね」
「ちょっと確認したいことあって」
「確認?」
「大したことじゃないよ」
麗華は笑う。
ルナは少し気になったようだったが、深くは聞かなかった。
「それより」
「?」
麗華がルナを見る。
「今日もその髪留めなんだ」
「はい」
「似合ってる」
「……」
「四回」
遠く。
セリア。
「まだ数えてたの!?」
「今日は記録伸びそうですね」
「やめてください!」
麗華は笑う。
けれど。
その目。
店の入口へ。
少しだけ。
向く。
やがて。
扉。
開く。
「いらっしゃいませ」
ルシアン。
入る。
いつもの顔。
普通の客。
麗華を見つけ。
少し笑う。
「麗華」
「こんばんは、ルシアン様」
麗華も。
笑う。
何も。
知らないように。
◇
「南街道はどうした?」
少し酒が進んだ頃。
ルシアンから聞いた。
「行かなかったです」
「なぜ?」
「条件変わっちゃって」
「そうなのか」
「うん」
麗華はルシアンへ酒を注ぐ。
「Bランク以上になった」
「最近魔物が増えているらしいからな」
「そうなんですね」
――早い。
麗華は内心で思った。
受付嬢からは、
『最近街道周辺の魔物が増えているから』
と聞いた。
それをルシアンは。
麗華が理由を言う前に。
知っている。
「ルシアン様」
「何だ?」
「詳しいですね」
「商会の荷が通る街道だ。当然だろう」
「なるほど」
確かに。
説明としては成立する。
「残念だったな」
「そうですね」
「でも、危険な仕事へ行かずに済んだなら――」
そこで。
ルシアンの言葉。
止まる。
麗華は静かに見る。
ルシアンも。
麗華を見る。
「……何です?」
「いや」
「続きは?」
「何でもない」
「そっか」
麗華は笑う。
それ以上。
追わない。
ルシアンも別の話を始めた。
商会。
職人。
父。
いつも通り。
麗華もいつも通り答える。
その夜は最後まで。
何も起きなかった。
◇
閉店後。
麗華は一人。
店のカウンターへ座っていた。
エルザたちは奥で片付けをしている。
目の前。
紙。
三つの依頼。
記憶だけ。
でも。
十分。
「……」
北街道。
条件変更。
南の討伐。
条件変更。
南街道。
ルシアンに話した翌朝。
条件変更。
関係商会。
そして。
『危険な仕事へ行かずに済んだなら――』
「……」
麗華は頬杖をつく。
考える。
怒るのは簡単。
問い詰めるのも。
でも。
まだ。
確定ではない。
「麗華?」
エルザが来る。
「どうしたの?」
「ちょっと考え事」
「ルシアン様?」
麗華が顔を上げる。
「何で?」
「あなた、あの人のこと考える時だけ少し眉間に皺寄るから」
「……」
麗華。
思わず笑う。
「私もまだまだだな」
「何が?」
「顔に出てる」
「普通は出るわよ」
「前はもっと隠せたんだけど」
「ここでは隠さなくていいんじゃない?」
「……」
麗華は少しだけ黙った。
「そうかも」
エルザはそれ以上聞かず、奥へ戻る。
麗華は再び紙を見る。
「……さて」
もし。
本当にルシアンがやっているなら。
彼は約束を破っている。
『やめろとは言わない』
口では。
でも。
裏から。
麗華が危険な仕事を受けられないようにしている。
本人は。
何と思っているのだろう。
束縛?
保護?
親切?
愛情?
「……」
麗華は目を細めた。
「一番面倒なやつかも」
悪意がある人間なら簡単だ。
悪いと分かってやる人間なら、やめさせればいい。
でも。
本人が。
『あなたのため』
と本気で思っているなら。
話は少し違う。
◇
同じ頃。
アルヴェール伯爵家。
ルシアンの机の上には、一枚の紙が置かれていた。
『九条麗華』
その下。
冒険者登録。
Fランク。
《月花亭》勤務。
親しい冒険者。
ガイル。
ロッド。
ミナ。
店関係。
エルザ。
アリア。
セリア。
ルナ。
よく訪れる場所。
冒険者ギルド。
中央市場。
月花亭。
宿。
好む酒。
服装。
出勤日。
依頼傾向。
「……」
ルシアンは紙を見つめる。
以前の自分は。
麗華を見ていなかった。
自分の中に作った理想だけを見ていた。
だから。
今度は知る。
麗華が誰と話すのか。
何を好むのか。
どこへ行くのか。
何が危険なのか。
全部。
分かれば。
もっと大切にできる。
「ルシアン様」
部下が入る。
「何だ」
「九条麗華ですが、本日は冒険者の依頼を受けず、《月花亭》へ出勤しております」
「そうか」
「また、ルナという女性とかなり親しいようです」
ルシアンの視線が止まる。
「……どの程度だ」
「休日に四人で買い物へ行ったほか、二人だけで歩いていた時間もあったようです」
「二人で?」
「はい」
「……」
少し。
沈黙。
「それ以上は?」
「特には」
「そうか」
部下。
迷う。
「ルシアン様」
「何だ」
「これ以上の調査も続けますか?」
ルシアンは紙を見る。
麗華。
笑う顔。
思い出す。
『私が嫌だって言ってることも、見てほしいな』
「……」
ほんの少し。
迷う。
「続けろ」
「承知しました」
扉。
閉じる。
一人。
ルシアン。
「違う」
小さく呟く。
監視ではない。
束縛でも。
ない。
「俺は」
麗華。
守りたい。
「知ろうとしているだけだ」
そう言い聞かせる。
けれど。
その机の上に並んでいるのは。
麗華が自分から話したことではない。
麗華の知らないところで。
勝手に集められた。
彼女の人生。
その一部だった。
好きだから守りたい。
守るために知りたい。
知れば危険を遠ざけられる。
危険を遠ざけるためなら。
本人が知らなくてもいい。
本人が望んでいなくても。
自分が正しいと分かっているのだから。
そんな考えが。
少しずつ。
少しずつ。
ルシアンの中で形になり始めていた。
そして九条麗華もまた。
その歪みへ。
ようやく。
気づき始めていた。




