第十三話 女王、誰のものにもならない
パーティー当日。
《月花亭》の二階にある支度部屋では、普段とは少し違う緊張感の中、麗華の身支度が進められていた。
「やっぱり、首飾りはいらないわね」
アリアが銀細工の首飾りを麗華の胸元へ合わせてみたあと、すぐに首を横へ振った。
「何もつけない方がいいの?」
「何も、ではないでしょう。耳飾りはつけているし、それだけで十分よ。あなたの場合、宝石を増やしたら本人の邪魔になるもの」
「宝石に失礼じゃない?」
「でも本当です」
横からセリアが同意すると、麗華は鏡越しに二人を見て苦笑した。
バルガス商会から届けられた漆黒のドレスは、華美な装飾をほとんど持たない。胸元も背中も過度には開いておらず、貴族の社交場へ出ても品を損なわない落ち着いた意匠だった。
それでも、身体の線に沿って美しく落ちる上質な生地は麗華の細い腰や長い手足を際立たせ、黒という色が白い肌をいっそう透き通るように見せていた。
腰まで流れる艶のある黒髪も、今日はルナが丁寧に整えている。
「ルナ」
「はい?」
「さっきから鏡越しに私の顔見てない?」
「見てません」
「見てたでしょう?」
「髪を確認してただけです」
返事は早かったが、耳が少し赤い。
麗華がそれを見て笑う。
「そんなに似合ってる?」
「……似合ってます」
「どれくらい?」
「どうして聞くんですか」
「気になるから」
ルナは少しだけ視線を逸らしたものの、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「すごく綺麗です。いつもの麗華さんも綺麗ですけど、今日は……本当に、見たことないくらい」
「ありがとう」
麗華が素直に微笑むと、ルナは再び黙った。
「ほら、また赤くなった」
セリアが楽しそうに言う。
「今日は数えなくていいです!」
「まだ一回目なのに」
「始めないでください!」
そのやり取りに麗華も笑ったが、鏡の端には、昨日バルガスから渡された招待状が置かれていた。
その隣には、ルシアンから送られてきたもう一通の招待状。
同じパーティーへ向かうためのもの。
けれど、麗華が今日使うのは前者だけだった。
「麗華」
部屋の入口に立っていたエルザが、少しだけ真剣な声で呼ぶ。
「本当に行くのね」
「うん」
「怖くない?」
「全然」
答えは迷わなかった。
伯爵家だろうと、その場に何人騎士がいようと、物理的な意味で麗華を害することはまずできない。
「ただ、面倒ではあるけどね」
「それはずっと言ってるわね」
「だって本当に面倒なんだもん」
「あなた、これから王国でもかなり上の人たちが集まる場所に行くのよ?」
「だから嫌なの」
アリアが呆れたように笑った。
「普通は逆でしょう。そういう場に呼ばれたら喜ぶものじゃない?」
「人に会うだけなら月花亭で十分」
「あなた本当に夜の仕事向いてるわ」
「褒められてる?」
「かなり」
そんな中、ルナだけが少し心配そうな表情を残していた。
麗華はそれに気づき、椅子から立ち上がる。
「ルナ」
「……はい」
そっと肩へ手を置く。
「大丈夫だよ」
「分かってます」
「本当に?」
「麗華さんが強いのも、頭がいいのも分かってます。でも……」
ルナは少し迷ってから続けた。
「強かったら、嫌なことをされても平気ってわけじゃないでしょう?」
麗華の表情が一瞬だけ止まった。
「怪我をしないから大丈夫、何をされても最後にはどうにかできるから大丈夫って、それとは違うと思います」
「……」
言われてみれば、その通りだった。
麗華は自分でも気づかないうちに、また同じ考え方をしていた。
自分ならどうにかできる。
だから問題ない。
けれど、どうにかできることと、不快な思いをしないことは別なのだ。
「そうだね」
麗華は素直に頷いた。
「ありがとう」
そして少しだけ微笑む。
「でも、今日は本当に大丈夫。だって一人じゃないから」
その言葉に、ルナだけでなくアリアやセリア、エルザも少し驚いた顔をした。
以前の麗華なら、おそらく「私一人で大丈夫」と言っていただろう。
けれど今日は違う。
バルガスの力を借りる。
自分から頼んだ。
それを麗華自身がちゃんと分かっていた。
◇
夕刻。
《月花亭》の前へ、濃紺の馬車が停まった。
装飾は控えめだが、使われている木材も金具も一目で上等だと分かる。扉には《バルガス商会》の紋章が刻まれていた。
先に降りてきたバルガスが店の入口を見た直後、扉が開く。
「お待たせしました」
「……」
黒いドレス姿の麗華が外へ出た瞬間、バルガスは珍しく言葉を失った。
「何?」
「いや」
「変?」
「逆だ」
「逆?」
「目立ちすぎる」
麗華が周囲を見ると、夕方の通りを歩いていた冒険者や商人、女性たちまで、何人も振り返っている。
「……帰ろうかな」
「もう遅い」
「普通に歩きたいだけなのに」
「その顔でそれを望むのは諦めろ」
「神様に文句言おうかな」
「何を言ってるんだ、お前は」
麗華は冗談めかして笑いながら馬車へ向かう。
途中でバルガスがふと彼女を見た。
「今日はいつもの月花亭の麗華じゃないからな」
「分かってる」
「バルガス商会会頭直属特別顧問として参加する」
「やっぱり長い」
「そこを気にするな」
「偉そうなのも嫌」
「実際、商会の中では偉い立場だ」
「余計嫌」
「給料は受け取るんだろう?」
「それは受け取る」
「なら働け」
麗華は少し笑い、馬車へ足をかける。
「麗華さん!」
後ろからルナの声が聞こえた。
振り返れば、店の入口にエルザ、アリア、セリア、そしてルナが並んでいる。
「いってらっしゃい」
ルナが言う。
麗華はほんの少しだけ目を細めた。
「行ってきます」
そして今度こそ馬車へ乗り込んだ。
◇
パーティー会場となる迎賓館は、ルーヴェルの中心街から少し離れた高台に建っていた。
白い石造りの巨大な建物には無数の灯りがともり、正門から入口までの道には豪華な馬車が何台も並んでいる。
「思ったより大きい」
「西部有力者親交晩餐会だからな」
「名前まで大きい」
「何なんだ、その感想は」
「もう帰りたい」
「まだ馬車から降りてもいないぞ」
馬車が正面階段の前へ停まる。
係員が扉を開き、最初にバルガスが降りた。
それだけで周囲の空気が少し変わる。
「バルガス会頭だ」
「今年も来たのか」
「王都にいると聞いていたが」
そんな声が聞こえてくる。
麗華が馬車の中からバルガスを見る。
「……本当に偉いんだ」
「今さら確認するな」
「月花亭では普通のおじさんだから」
「お前くらいだ、俺をそんな扱いするのは」
「娘さんと仲直りした普通のおじさん」
「それは間違っていないが、もう少し敬え」
バルガスが手を差し出す。
麗華はその手を取り、馬車から降りた。
途端に周囲の視線が一斉に集まる。
黒髪。
漆黒のドレス。
宝石で飾り立てることなく、それでもその場にいる誰よりも強く目を引く。
男性が振り返る。
女性も振り返る。
年若い貴族の男などは、同行していた女性に肘でつつかれるまで麗華を見続けていた。
「……誰だ?」
「見たことがない」
「黒髪の女神って、まさか」
「月花亭にいる女じゃなかったか?」
「どうしてバルガス会頭と?」
中には露骨に値踏みする者もいるが、それ以上に純粋な驚きや感嘆が多かった。
「綺麗……」
若い貴婦人の一人が、思わず声に出した。
麗華がそちらを見る。
目が合い、相手が慌てる。
麗華はただ柔らかく微笑んだ。
今度は貴婦人の頬まで赤くなる。
「……」
隣を歩くバルガスがじっと麗華を見る。
「何?」
「いや」
「?」
「女まで落とすって話、本当だったんだな」
「誰に聞いたの?」
「店で」
「絶対アリアかエルザだ」
◇
受付へ着くと、バルガスが正式な招待状を差し出した。
「バルガス商会会頭、バルガス・フェルン様」
係員が頭を下げ、次に麗華を見る。
麗華も一通の招待状を取り出す。
もちろん、ルシアンのものではない。
「バルガス商会会頭直属特別顧問、九条麗華様」
その肩書きが読み上げられた瞬間、近くにいた何人かがざわめく。
「あの若さで?」
「バルガス会頭直属?」
「聞いたことがないぞ」
麗華は小さな声で呟いた。
「やっぱり長い」
「今は黙ってろ」
「はいはい」
軽く返してから、麗華は広間へ足を踏み入れた。
天井には巨大なシャンデリアが並び、奥では楽団が静かな音楽を奏でている。
王国西部の有力貴族、役人、商人、ギルド関係者。
普段《月花亭》でも様々な人間を見てきた麗華だが、これほど多くの権力者が一堂に会する場は、この世界へ来て初めてだった。
「……面倒そう」
「口に出すな」
「まだ小声でしょう?」
「顔にも出すな」
「それは難しい」
そう言いながらも、麗華の姿勢は一切崩れていなかった。
背筋を伸ばし、誰に見られても怯まず、かといって威圧することもない。
歌舞伎町で、企業の社長や芸能人、名のある人間を相手にしてきた頃と同じだった。
肩書きが人を大きくするわけではない。
席へ座れば、結局は一人の人間。
その感覚を麗華は知っている。
◇
「バルガス会頭、久しいな」
一人の年配の男が近づいてきた。
「グレイン侯爵」
「相変わらず忙しそうだな」
「そちらも」
短く挨拶を交わしたあと、侯爵の視線が麗華へ向く。
「こちらの方は?」
「九条麗華。うちの特別顧問だ」
「ほう」
侯爵は興味深そうに麗華を見る。
「ずいぶんお若いが、どのような仕事を?」
「困った時に話を聞く係です」
「麗華」
横からバルガスが呆れた声を出す。
「もっと言い方があるだろう」
「でも実際そうでしょう?」
侯爵が一瞬黙ったあと、大きく笑った。
「面白いお嬢さんだ」
「よく言われます」
「それもか」
「はい」
爵位。
侯爵。
普通なら緊張して言葉を選ぶ場面。
だが麗華は必要以上にへりくだらない。
だからといって無礼でもなく、あくまで自然な会話を続ける。
その姿は周囲の目にも新鮮に映った。
次に声をかけてきたのは、濃紺のドレスを着た年配の貴婦人だった。
「その黒いドレス、素敵ね」
「ありがとうございます」
「装飾をほとんど使っていないのに、よく似合っているわ」
「私も気に入ってます。そういうあなたのドレスも綺麗ですね」
「まあ」
麗華は相手の袖へ目を向ける。
「刺繍の糸、袖だけ少し色を変えてるんですね」
貴婦人が驚く。
「よく分かったわね」
「近くで見るとすごく綺麗だから」
「これは娘が選んでくれたのよ」
「じゃあ娘さん、すごくセンスいいですね」
そこから娘の話へ移る。
その場限りの「綺麗ですね」で終わらせず、相手自身の話へ自然に繋げていく。
別の商人とは手の硬さから現場へ出ることを見抜き、輸送の苦労について話を聞いた。
また別の若い貴婦人には、緊張していることへ直接触れず、料理の話を振って肩の力を抜かせる。
気づけば、麗華の周囲には自然と人が集まっていた。
男だけではない。
女性も。
年齢も身分も関係なく。
「……あれ、本当に夜の店の女性なのか?」
「会話の回し方が尋常じゃないな」
「バルガス会頭が顧問にする理由も分かる気がする」
「それにしても綺麗だ」
「綺麗なのは見れば分かるでしょう。それ以上に、あれだけの面子の中で少しも萎縮しないのがすごいわ」
そんな言葉が、少しずつ広がっていった。
◇
会場奥。
ルシアンはその様子を見ていた。
最初に麗華が現れた瞬間、言葉を失った。
ただでさえ美しい。
それは何度も分かっていたはずなのに、今日の麗華は別格だった。
黒いドレス。
整えられた黒髪。
普段の月花亭とは違う、社交場に合わせた落ち着いた立ち振る舞い。
そして何より。
自分を探してすらいない。
「……」
「ルシアン」
隣にいたエドガーが声をかける。
「何だ」
「顔に出てるぞ」
「何がだ」
「焦ってる」
「……」
「やめとけよ」
「何を」
「今日、変なことするの」
ルシアンがエドガーを見る。
「何か知っているのか?」
「お前が何を企んでるか、全部は知らない」
「なら黙っていろ」
「でも一つだけ分かる」
エドガーは遠くにいる麗華へ視線を向ける。
「あれ、絶対お前の思い通りになる顔してないぞ」
「……」
「今ならまだやめられる」
「今日で終わらせる」
「何を」
「曖昧な関係をだ」
「麗華は曖昧にしてないだろ。何回も断ってる」
ルシアンの眉が動いた。
「麗華は人前で相手へ恥をかかせるような女じゃない」
エドガーがゆっくりルシアンを見る。
「お前、本当に何も分かってないな」
「何だと」
「麗華が相手に逃げ道を作るのは、相手が戻る気がある時だけだ」
「……」
「全部踏み潰して、それでもまだ助けてもらえると思ってるなら、それは優しさじゃなくて甘えだぞ」
ルシアンは答えなかった。
◇
一時間ほどが経った頃、ようやくルシアンが麗華のもとへやってきた。
「麗華」
「こんばんは、ルシアン様」
「……来てくれたんだな」
「はい」
麗華はいつも通りの笑みを浮かべる。
ルシアンはその姿を近くで見て、改めて息を呑んだ。
「そのドレス……」
「似合う?」
「……綺麗だ」
「ありがとう」
その返事も以前と変わらない。
だから一瞬、ルシアンは安心しかけた。
「なぜバルガス会頭と一緒なんだ?」
「今日はバルガス商会側から参加してるので」
「商会側?」
「私、特別顧問になったんです」
「いつ」
「最近」
「なぜ俺に言わなかった」
麗華の目が僅かに細くなる。
「言う必要ありました?」
「……」
「私の仕事でしょう?」
「招待状は?」
「持ってきてます」
「なら」
「使ってませんよ」
「なぜだ」
「ちょっと気になることがあったから」
「何が?」
麗華は少しだけ微笑んだ。
「まだ秘密」
「麗華」
「せっかくのパーティーですし、今は楽しみましょう?」
それだけ言って、麗華は別の客に呼ばれた方へ向かう。
ルシアンはその背中を見ながら、初めて明確な不安を覚えた。
自分が今日しようとしていることを。
麗華は。
もう知っているのではないか。
◇
宴が進み、楽団の演奏が止まった。
主催者による挨拶のあと、何人かの有力貴族や商人が紹介され、やがてアルヴェール伯爵が壇上へ上がる。
織物商会の近年の成果。
西部の発展。
新たな工房。
無難な挨拶が続いた。
その横にはルシアンが立っている。
麗華は遠くからその姿を見つめていた。
「来るな」
「何がだ?」
隣のバルガスが聞く。
「多分、例の話」
バルガスの表情が少し引き締まる。
アルヴェール伯爵が挨拶を終える。
そして。
「最後に、私から皆様へご紹介したい方がおります」
ルシアンが前へ出た。
会場が静かになる。
麗華は一度だけ目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「九条麗華」
一斉に視線が集まった。
麗華は動かない。
ルシアンが続ける。
「彼女は――」
「ルシアン様」
大声ではない。
けれどよく通る声だった。
ルシアンが止まる。
「……何だ」
麗華はゆっくり歩き出した。
黒いドレスの裾が床を滑り、周囲の人々が自然に道を開ける。
壇上の少し手前で立ち止まり、麗華は穏やかな笑みを浮かべた。
「その先をお話しになる前に、一つ確認してもよろしいですか?」
「……ああ」
「私との婚約について、お話しするつもりですか?」
一気にざわめきが広がる。
ルシアンの父親まで驚いた顔で息子を見る。
数秒。
ルシアンは答えなかった。
「ルシアン様?」
「……そうだ」
「そうですか」
麗華は軽く頷く。
それから会場全体を見渡した。
「では皆様に誤解のないよう、先に訂正させていただきます」
一拍。
「私はルシアン・アルヴェール様との婚約を、一度も承諾しておりません」
空気が止まった。
「麗華」
「はい」
「ここで話すことではない」
麗華がわずかに首を傾げる。
「今ここで話そうとしたのは、ルシアン様ですよ?」
「……」
「私は食事も断りました。贈り物も、屋敷へ来てほしいというお話も、お付き合いについても、何度もはっきりお断りしています」
声を荒らげることはない。
ただ事実だけを並べる。
「俺はお前を本気で想っている」
「知っています」
「なら――」
「だから何でしょう?」
ルシアンの言葉が止まる。
「好きなら、嫌だと言っていることをしてもいいんですか?」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味です?」
「……」
「今日、大勢の方々の前で発表すれば、私が断りにくいと思いました?」
「違う」
「本当に?」
麗華の声は柔らかいままだった。
「私が、人前であなたへ恥をかかせるようなことはしないと思ったんじゃないですか?」
ルシアンの視線が僅かに揺れる。
麗華はその反応を見て、小さく息を吐いた。
「やっぱり」
「麗華」
「私が今まであなたに逃げ道を残していたことまで、自分の都合に使うんですね」
「違う!」
初めてルシアンの声が少し大きくなる。
それでも麗華は崩れない。
「今ならまだ終わりにできます」
「何を」
「全部です。ここで『自分の勘違いだった』と言ってください。私は何度も、あなたを嫌いになりたくないと伝えました」
麗華の目にあるのは怒りより、まだ僅かな残念さだった。
「まだ間に合いますよ」
長い沈黙。
アルヴェール伯爵も、エドガーも、周囲の貴族たちも、誰も口を挟まない。
ここで引けば終われる。
麗華は最後の道を残していた。
だが。
「……もし俺と結婚すれば」
ルシアンが言った。
「月花亭への圧力も終わる」
空気が一変した。
「ルシアン!」
アルヴェール伯爵が怒鳴る。
「お前、何を言っている!」
麗華は動かなかった。
ほんの数秒。
「……今、何て言いました?」
「麗華」
「月花亭への圧力が、終わる?」
「俺が直接命令したわけではない」
「そこはもう聞きました」
麗華の笑顔が消える。
「それから?」
「俺ならあの店も、お前が親しくしている女たちも守れる」
「……あの女たち?」
「麗華」
「エルザ?」
「……」
「アリア?」
「……」
「セリア?」
麗華は一人ずつ名前を挙げる。
最後に。
「ルナ?」
ほんの僅か。
ルシアンの表情が動いた。
麗華は見逃さなかった。
「ルナのことも調べたんですね」
「お前と親しい人間だからだ!」
その瞬間。
麗華の中で。
何かが完全に切れた。
それでも声は変わらなかった。
言葉遣いも。
姿勢も。
「ルシアン様」
「……」
「私に何をするのも、まだ我慢できたんですよ」
静かな声が、広間によく響く。
「毎日来るのも、店の外で待つのも、高い宝石を持ってくるのも、私の冒険者の仕事へ勝手に手を出すのも、それなら全部、私自身が拒絶すれば済む話でした」
脳裏に浮かんだのは、遠い過去。
薄暗い小さなバー。
頭を下げる祖母。
『この子には指一本触れさせません』
『孫だけは勘弁してください』
あの時の怒り。
あの時の悔しさ。
「でも、私の大切な人たちを使ったのは駄目です」
ルシアンが息を詰める。
「私、一番嫌いなんですよ。自分が欲しいものを手に入れるために、その人の大切なものを人質にする人」
「人質になどしていない!」
「同じです」
麗華は即座に返した。
「では、私があなたのところへ行かなくても、月花亭への圧力をすべてやめられますか?」
「……」
「ルナたちのことを、もう一切調べないと約束できますか?」
「……」
「私の冒険者の仕事にも、二度と手を出さない?」
ルシアンは答えない。
麗華は少しだけ目を細めた。
「それが答えですよ」
◇
「アルヴェールの坊主」
低い声が響いた。
バルガスが前へ出る。
「……バルガス会頭」
「ここまで聞いた以上、俺も黙ってはいられん。今後さらに九条麗華、あるいは月花亭へ圧力をかけるようなら、バルガス商会はアルヴェール家との取引を全面的に見直す」
一瞬のざわめき。
アルヴェール伯爵の顔色が変わった。
「バルガス会頭、それは――」
「布の輸送、染料、倉庫、融資。必要なら全部だ」
「そこまで!」
「そこまでのことを先にやったのは、そこの息子だろう」
バルガスは冷たい声で言い切った。
周囲の有力商人たちも黙っていない。
「私情で取引先へ圧力か」
「事実なら看過できんな」
「女一人を囲うために商会の信用を使ったということか?」
今までルシアンが持っていた「伯爵家」という看板が、逆に彼自身を追い詰め始める。
エドガーも前へ出た。
「ルシアン。もうやめろ」
「黙れ」
「黙らない。麗華は何度もお前に戻る場所を作っただろ」
「お前に何が分かる!」
「少なくとも、嫌がってる女を大勢の前で婚約者にしようとするのが愛じゃないくらいは分かる」
「……」
さらにアルヴェール伯爵が壇上から降りてくる。
「ルシアン」
「父上」
「終わりだ。これ以上、何もするな」
「ですが」
「黙れ!」
怒声が広間へ響く。
「お前はアルヴェール家の名を何だと思っている! 女一人を手に入れるために使う道具ではない!」
ルシアンの周囲から、少しずつ全てが消えていく。
味方をしていたわけではない者たちでさえ、もう彼に同情しない。
麗華はそれでも最後に一度だけ彼を見る。
「ルシアン様」
「……」
「終わりにしましょう」
声は穏やかだった。
「もう十分です」
ルシアンは麗華を見る。
黒い髪。
黒いドレス。
美しい顔。
けれど、もう自分へ向けて笑ってはいない。
何度も悩んだ。
諦めた方がいいと考えた。
自分が間違っていることにも、どこかでは気づいていた。
それでも。
「……それでも」
「?」
「それでも、お前が欲しい」
麗華の瞳が僅かに細くなる。
「そうですか」
その一言で。
最後の逃げ道は消えた。
「騎士!」
ルシアンが叫ぶ。
会場脇に控えていたアルヴェール家の私兵が反射的に動いた。
「ルシアン!」
父親の制止も届かない。
「九条麗華を拘束しろ!」
周囲から悲鳴が上がり、人々が慌てて距離を取る。
十数人の騎士が麗華を囲む。
剣を抜く者。
拘束具へ手を伸ばす者。
バルガスが動こうとする。
「麗華!」
「大丈夫です」
麗華は振り返らない。
ただ一度、ゆっくりと息を吐いた。
「……本当に、最後まで分からない人ですね」
その瞬間。
魔力が解放された。
ほんの一部。
それでも、広間全体の空気が一気に重くなった。
「――っ!」
騎士たちの足が止まる。
床に細かな亀裂が走り、頭上のシャンデリアが小さく揺れた。窓ガラスが震え、その場にいた魔術師たちが一斉に顔色を失う。
「何だ、この魔力……」
「馬鹿な……」
「人間なのか?」
騎士の一人が剣を取り落とした。
金属音が静まり返った広間に響く。
麗華は髪を僅かに揺らしながら、ゆっくり目を開いた。
「動かないでください」
声はいつもの麗華と変わらない。
「今、かなり怒っていますので、加減を間違えたくありません」
誰一人、動けなかった。
麗華が一歩進むと、騎士たちの身体が本能的に強張る。
誰も彼女の前へ出られない。
そのまま麗華はルシアンの前まで歩いていった。
ルシアンの顔から血の気が引いている。
「……お前」
「はい」
「何者だ」
「九条麗華です」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
「それ以上でも、それ以下でもありませんよ」
麗華は静かに彼を見る。
「私は最初から、あなたを力でどうにかする必要なんてなかったんです。何十人騎士を集めても、多分意味はありません」
「……」
「でも、だから使わなかった」
「なぜ」
「必要なかったからです」
麗華の目に冷たい光が宿る。
「話せば分かる人だと思っていたから」
それが一番。
ルシアンに刺さった。
「俺を……殺すのか」
「殺しませんよ」
麗華は即答した。
「そんなことをしたら私が悪い人になるでしょう?」
「……」
「それに、あなたには生きて、自分が何をしたのか考えてもらいます」
麗華は魔力をゆっくりと抑えた。
空気が戻る。
騎士たちの何人かがその場で膝をついた。
誰も再び武器を拾おうとはしない。
麗華はルシアンを見つめた。
「ルシアン様」
「……」
「お金もあった。家柄もあった。頭も良かったし、人の話を聞くことだってできた」
過去形。
一つずつ。
ルシアンの顔が歪む。
「商会の相談をしていた時、本当にいい男になれる人だと思っていましたよ」
「……」
「だから何度も言ったんです」
麗華は一度だけ目を伏せる。
そして。
「嫌いになる前に、やめてくださいって」
「……」
「それでも、あなたは自分から全部捨てた」
ルシアンは何も言えない。
麗華は少しだけ彼を見つめたあと、静かに続けた。
「これで終わりです。もう二度と、私にも月花亭にも、私の大切な人たちにも関わらないでください」
「麗華……」
名前を呼ばれた瞬間。
麗華の目が完全に冷えた。
「――いい加減にしてください」
声を荒らげてはいない。
それでも、その一言だけは今までとは違った。
広間中の誰もが、麗華が本気で怒っていると分かった。
「私は何度も、あなたに選ばせました。何度も断って、何度も話して、何度も戻る場所を残しました。それを全部踏みにじったのはあなたです」
ルシアンは声を失う。
「好きだと言えば何をしても許されると思わないでください。あなたの気持ちは、私の人生を奪う理由にはなりません」
麗華は一歩だけ近づく。
言葉遣いも。
姿勢も。
一度も崩さない。
「二度と、私の大切な人たちに触れないでください。次は、本当に許しません」
静まり返った広間に、その言葉だけが残った。
麗華はそれ以上ルシアンを見ることなく、背を向けた。
◇
黒いドレスの裾を揺らしながら、麗華は出口へ向かう。
誰も止めない。
むしろ、自然に道が開いていった。
その姿を見ながら、最初に小さな声を漏らしたのは一人の若い貴婦人だった。
「……すごい」
隣にいた女性が頷く。
「伯爵家の人間を相手に、最後まで一度も取り乱さなかったわ」
「普通なら怖くて何も言えないでしょうに」
「それどころか、あれだけの騎士に囲まれても姿勢一つ変わらなかった」
別の場所では、年配の商人が感心したように笑う。
「なるほど。バルガス会頭が顧問に置くわけだ」
「強さだけじゃない。あの場で相手を怒鳴りつけることも、辱めることもできたはずなのに、最後まで自分の言葉だけで立っていた」
「怖い女だ」
「いや」
その隣の男が麗華の後ろ姿を見ながら首を横へ振る。
「美しい女だよ。顔だけの話じゃない」
今度は一人の貴族女性が、少し憧れるような目で呟く。
「格好いいわね」
「ええ」
「女だからって、大勢の前なら断れないと思われたのでしょう?」
「それでも一歩も引かなかった」
「私なら、あんな風に言えるかしら」
賞賛は少しずつ広がっていく。
誰もが最初は麗華の容姿に目を奪われた。
黒髪。
白い肌。
女神と呼ばれるほどの美貌。
けれど、今彼女を見送る人々が口にしているのは、それだけではなかった。
伯爵家を相手にしても臆さなかったこと。
自分より遥かに大きな肩書きを前にしても、自分の意思を曲げなかったこと。
相手を必要以上に貶めることなく、それでも決して退かなかったこと。
そして最後まで、背筋を伸ばした美しい立ち振る舞いを崩さなかったこと。
「九条麗華……か」
「覚えておいた方がよさそうだな」
「月花亭にいるんでしょう?」
「今度行ってみようかしら」
「お前、女だろ」
「だから何?」
そんな声まで聞こえる。
麗華は振り返らなかった。
褒められていることにも気づいてはいる。
でも今は。
「……疲れた」
隣まで追いついてきたバルガスが呆れた顔をする。
「お前、あれだけ格好よく出てきて第一声がそれか」
「だって疲れたんだもん」
「中では『伯爵家にも一歩も引かない女』と評判になってるぞ」
「知らない」
「『最後まで美しかった』とも言われてる」
「それはちょっと嬉しい」
「そこは嬉しいのか」
「女だからね」
「急に普通になるな」
麗華は少し笑った。
その笑い方を見て、バルガスもようやく肩の力を抜く。
「しかし」
「何?」
「お前の方がよほど貴族らしく見えたぞ」
「嫌だなぁ」
「褒めてる」
「貴族になったら仕事増えそう」
「そこか」
二人は迎賓館の正面玄関を抜け、夜風の吹く外へ出た。
後ろでは、まだパーティー会場のざわめきが続いている。
今日。
九条麗華という名前は。
絶世の美女としてだけではなく。
別の意味でも、多くの権力者の記憶に刻まれた。
◇
馬車へ向かう途中、バルガスがふと足を止めた。
「麗華」
「何?」
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前、どれくらい強い?」
「……分からない」
「今のを見せられてその答えは怖いんだが」
「本当に分からないんですよ」
「誰と比べてだ」
「この世界の基準がまだよく分からなくて」
「お前、冒険者だろ」
「Fランク」
「それはもう二度と信用しない」
麗華が笑う。
「でも、今日は使うつもりなかったんだけどね」
「分かっている」
「できれば最後まで話で終わらせたかった」
「あれだけされてもか?」
「だからこそ」
麗華は少しだけ振り返り、迎賓館を見る。
「力を見せたら、最後は『強かった方が勝った』で終わっちゃうでしょう?」
「……」
「そうじゃなくて、ルシアン様には自分が何を間違えたか分かってほしかった」
「それで最後まで話したのか」
「うん」
バルガスは少し黙った。
「本当に面倒な女だな」
「褒めてる?」
「かなり」
麗華は笑った。
そして少し間を置いたあと、バルガスを見る。
「今日、ありがとう」
「俺はお前を連れてきただけだ」
「それでも」
麗華は素直に続ける。
「バルガスさんが隣にいてくれたから、最初から力使わずに済んだ」
「……」
「それに、私一人だったら多分もっと面倒なやり方してた」
「例えば?」
「伯爵家の取引先全部調べて、一個ずつ潰せるところ探すとか」
「怖いからやめろ」
「冗談」
「今のお前だと冗談に聞こえん」
「ひどい」
バルガスがため息を吐く。
「もっと人に頼れ」
「……」
「一人でできることと、一人でやった方がいいことは別だ」
麗華の表情が少しだけ変わる。
「それ、ルナにも似たようなこと言われた」
「なら若い娘の方がお前より賢いな」
「言うね」
「今度から困ったら俺を使え。特別顧問なんだからな」
「私が顧問なのに?」
「細かいことは気にするな」
麗華は少し考えてから笑った。
「じゃあ、練習します」
「何を」
「頼るの」
バルガスもほんの少しだけ笑った。
◇
深夜。
《月花亭》はすでに営業時間を終えているはずなのに、まだ一階の灯りが残っていた。
馬車を降りた麗華が扉を開く。
「ただいま」
「麗華さん!」
真っ先に駆けてきたのはルナだった。
「大丈夫でした!?」
「うん」
「何もされませんでした?」
「色々された」
「色々!?」
「ちょっと待って、順番に話すから」
アリアもセリアも、エルザも集まってくる。
「まず」
麗華は一度自分のドレスを見る。
「これ脱ぎたい」
アリアが呆れる。
「そこなの?」
「すごく綺麗だけど疲れる」
「似合うと楽は別よ」
「でしょう?」
「でも今のあなた、その格好で帰ってきたら店の客全員惚れるわよ」
「今日は閉店しててよかった」
セリアが身を乗り出す。
「それよりパーティーどうだったんです?」
「最悪」
「即答」
麗華は少し考えてから続けた。
「でも、終わったよ」
ルナの顔が変わる。
「ルシアン様は?」
「……」
麗華は少しだけ黙った。
「もう来ないと思う」
「本当に?」
「来ても」
一拍。
「私は接客しないかな」
エルザは麗華の顔を見る。
「嫌いになった?」
麗華はすぐには答えなかった。
ルシアン。
初めて商会の相談をした夜。
分からないことを分からないと言い、麗華の話を真剣に聞いていた。
父親を説得した時。
職人たちの悩みを聞いた時。
あの頃。
本当に。
「……残念だった」
麗華はそう答えた。
「最初は頭のいい人だと思ったし、商会の相談してた時は楽しかった」
「……」
「ちゃんと人の話を聞ける人だったから」
少しだけ寂しそうに笑う。
「だから、勿体ないなって」
ルナは何も言わず、麗華の隣へ座った。
そっと。
肩が触れるくらい。
麗華が横を見る。
「ルナ」
「はい」
少し迷ってから、麗華は口を開いた。
「今日さ」
「はい」
「私から頼ってもいい?」
ルナが目を見開く。
でもすぐに。
「もちろんです」
麗華はゆっくり腕を伸ばし、ルナの肩を抱いた。
自分の方へ少しだけ寄せる。
ルナの身体が一瞬固まる。
それでも逃げない。
「ちょっとだけ疲れた」
麗華が小さく言う。
「……はい」
ルナは優しく答えた。
「いっぱい頼ってください」
「いっぱい?」
「はい」
「じゃあ明日も?」
「……それは」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど」
「ふふ」
「もう」
麗華は少し笑い、肩を抱いたまま目を閉じる。
今夜。
たくさんの人間に見られた。
美しい。
強い。
怖くないのか。
格好いい。
そう言われた。
けれど麗華にとって一番大きかったのは、そこではなかった。
最強の魔法でも。
神から与えられた力でもない。
自分から「助けて」と言えたこと。
そして帰る場所に、待ってくれている人がいたこと。
月花亭の静かな灯りの中で、麗華はルナの肩へほんの少しだけ身体を預けた。
前の人生では、守るために一人で立つことしか知らなかった女が。
二度目の人生ではようやく。
誰かと一緒に立つことを、覚え始めていた。




