scene2
葛原萩乃。その名前を聞くと同時に苦い記憶が溢れ出した。とうの昔に忘れていた学生時代の過ちが、じわじわと尚忠の心を蝕み始める。
地元の名士の息子であり、当人にも人を惹き付ける魅力があるという事で、当時クラスの頂点に君臨していた今野瑛士。彼の扇動で、彼女はいじめられていた。
自分達の学年は人数が少なく、入学当初から一貫してほぼ全員が同じクラスだった。だから三年一組は、瑛士の名のもとに一つになる事ができていた。少なくとも表面上は、だが。
しかしそんな中で、クラスから若干浮いているような少女が二人いた。それが千尋と萩乃だ。二年の半ば辺りから萩乃はすでにいじめられていたし、千尋は引っ込み思案な性格が仇となって周囲と打ち解けられなかったのだろう。おとなしい千尋ではなく快活だった萩乃がいじめのターゲットになった理由は、実のところ尚忠にもわからなかった。
千尋と萩乃はいつも一緒にいた。彼女達は二人で一つのグループだったのだ。だが、千尋は結局女子の輪の中に入る事を選び、他の女子達もそれを受け入れたので、萩乃は完全にクラスから孤立してしまった。千尋は萩乃を避けるようになり、一人になった萩乃に対する風当たりはより一層強くなった。
最初に彼女をいじめだしたのは瑛士だったが、瑛士の影響力は他のクラスメイトにも及んでいる。皆、行動に程度の差はあれども徐々に瑛士にならって萩乃をいじめ始めた。そうしないと次は自分がターゲットになると、誰もが恐れていたからだ。
尚忠はガキ大将の昴と親しかったから、いざというときは守ってもらえる自信があった。けれど尚忠の父は瑛士の父が経営している会社に勤めていたし、昴の実家の家業だって瑛士の家と関係が深いので、瑛士の機嫌を損ねられるわけがなかった。瑛士の親は瑛士に甘く、瑛士の望みを無条件で叶えるという。だからこそ、子供の世界ですら瑛士は無敵の存在だった。大人の世界を盾にする瑛士に、子供が敵うはずがない。
昴がやんちゃに振る舞えるのは、あくまでも学級内でのみの事だ。大人の世界が絡んでくれば、中学生のガキ大将などすぐに潰される。学級内で振るわれる暴力は昴が守ってくれても、社会から振りかざされる権力という名の暴力には逆らえない。昴は瑛士とさも対等であるよう振る舞い、親しくしていたように思うが、そんな彼を瑛士が見下していたのを尚忠は知っていた。だから尚忠は瑛士が嫌いだったし、そんな彼にへつらわなければならない自分や周囲も嫌いだった。
萩乃へのいじめが始まって間もない頃、萩乃をいじめる瑛士を昴がいさめた事がある。けれどその数日後、昴は顔を腫らして登校してきた。昴はその理由を誰にも言わなかったが、尚忠にだけ「親父に殴られた」と打ち明けた。昴の実家の工場は瑛士の親の会社の下請けで、その発注で成り立っているのは周知の事実だった。
昴が何故瑛士の不興を買ったのか、昴の両親が知っていたかはわからない。しかし結果として、昴の両親は自分達の息子よりも取引先の息子を選んだ。取引先の機嫌を損ねれば自分達だけでなく抱える従業員とその家族すらも路頭に迷わせることになる。経営者としての昴の両親の判断が間違っていたとは思わない。だが、それでも釈然とはしなかった。
結局、その日を境に昴は瑛士にたてつく事をやめ、消極的ではあるが萩乃いじめに参加した。見て見ぬふりだけで終わらせなかったのは、これ以上瑛士の機嫌を損ねたくなかったからなのだろう。尚忠もそれにならったのは言うまでもない。三十人いたクラスメイトのうち、萩乃をいじめていたのは奇しくもこの同窓会に参加していたメンバーで、他は全員見て見ぬふりをしていた。
尚忠と昴がやっていたのは、無視するとか、物を隠すのを見て見ぬふりをするとか、そういった嫌がらせだった。昴が萩乃に手をあげなかったのは、彼なりのプライドだろう。いじめに荷担したという事実は変わらないが。
夏休みを間近に控えたある日、萩乃は唐突に自殺した。どうやらその日は萩乃の誕生日だったらしい。彼女が何を思ってその日に自殺したのかは、きっと彼女にしかわからない事なのだろう。だが、尚忠にもわかる事が一つある――――萩乃が自殺したのは、この校舎の三階にある『三年一組』の教室だ。
五年前のある夏の日、萩乃はこの校舎で命を絶った。葬儀には三年一組一同で参列したし、それは疑う事のない事実だ。葛原萩乃はすでにこの世にはいない。
幽霊がいるなんて、思い込みによるただのまやかしだ。当然、死者が生者を殺せるわけがない。京香を殺したのは葛原萩乃の霊だと、ハギノだと訴える正輝の言葉を、尚忠は鼻で笑った。しかし彼の身体はがくがくと震えている。
あり得ないと思いつつ、頭の片隅ではそれも一つの可能性だと思ってしまっているのだ。鉈を携えた不気味な少女の事は尚忠も見ている。まさか彼女が、この校舎で自ら命を絶った少女だとでもいうのだろうか。
途端に暗闇が怖くなり、一人でいる事への心細さが倍増する。今すぐ扉を開けて千尋と正輝と合流したい衝動に駆られた。しかし今のやり取りがすべてハギノの罠で、本当は千尋も正輝もここにはいなかったら――――そんな現実感の乏しい想像が邪魔をして、なかなか行動に移せない。
短いとは言えない逡巡の後に覚悟を決めた尚忠が扉を開けた時にはすでに遅く、千尋と正輝は別の場所に移動してしまっていた。
* * *
「じゃあ……今野君と大和田君はもうここに?」
千尋が尋ねると、正輝は何度も首を上下に振る。少しは落ち着いたようだが、まだ恐怖に身体が支配されているらしい。
「瑛士はあいつを捕まえてやるって言ってどこかに行って……それからずっと帰ってこない……!」
どうやら千尋達が来る少し前に、瑛士が京香と正輝のもとに来たらしい。瑛士は悟朗と一緒に校舎に入ったようだが、正輝は悟朗と会っていないようだ。なんでも瑛士は、正輝達と合流する前に悟朗とはぐれてしまったという。今だ姿を現さない悟朗がどうなったのかはわからないが、もし彼があの少女――――ハギノと遭遇していたらと思うとぞっとする。
「……大丈夫だよ、きっと」
そう言って、正輝を安心させるように笑う。それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。瑛士もすでにハギノに殺されている可能性は高いだろう。だが、彼はまだ生きている、もうこれ以上の犠牲なんて出ていないと思いたいのだ。
千尋は正輝の言葉を信じていた。萩乃の霊が自分達を呪い殺そうとしているなんて馬鹿げているとは思う。しかし萩乃なら、あるいは。
萩乃は五年前、ガラスの破片で自らの首を掻き切るという壮絶な死にかたをした。萩乃の死は自殺だったが、彼女は自分達が殺したと同じだ。自分達が彼女をいじめなければ、自分達が彼女を助けていれば、萩乃はきっと死なずに済んだ。萩乃はかつてのクラスメイトの事をさぞ恨んでいるだろう。
それに、萩乃が死んだのはこの校舎だ。萩乃に関する記憶から目を背けていたために忘れていたが、この校舎はまさしくいわくつきの建物だった。そんな場所に萩乃の死に関わった十人がのこのこやってくれば、彼女は悪霊となって校舎内を闊歩するようになるのかもしれない。
二階の理科室を後にした千尋と正輝は、三階にある萩乃が死んだ『三年一組』の教室を目指して歩いていた。『三年一組』の教室は、同窓会を開く予定だった場所だ。しかし、教室には不気味なオブジェがあったのだという。それを片付けようとしていた矢先、正輝達はハギノに襲われたそうだ。
ハギノが現れるまで、正輝も京香も葛原萩乃の事は忘れていた。だからこそ彼らはこんな夜中に同窓会を企画し、あまつさえ『三年一組』を会場として準備をしようとしていたのだ。随分と薄情な話だが、思い出せなかった自分も同罪だと千尋は口をつぐんで正輝の話を聞いていた。
教室には、罵詈雑言が血文字で記されていた机があったらしい。床には割れたガラス製の花瓶としおれた白い菊が落ちていたそうだ。床には血だまりができていて、いたずらにしては手が込んでいて不気味だったという。
しかしそれを片付ける前にハギノが現れたそうだ。命からがら逃げた正輝はなんとか千尋と合流する事ができたが、京香は逃げきれずに殺されてしまった。正輝は京香が殺される瞬間は見ていないようだが、踊り場に放置されていた彼女の死体は目にしたらしい。
そして、京香を引きずりながらどこかに消えたハギノを探しに飛び出した瑛士は今も行方不明だ。背筋が凍りつきそうになる感覚を味わいながら、千尋は恐怖を振り払うように早足で歩いた。
本当は『三年一組』になど行きたくもないし、早く校舎の外に出たい。しかし昇降口が閉ざされているのは千尋もすでに検証済みだし、正輝の話では裏門も厳重に封鎖されていたそうだ。
もしかすると外に出るには、ハギノを鎮めなければいけないのかもしれない。それならその手掛かりは、彼女が死んだ『三年一組』にあるはずだ――――そんな根拠のない妄想を信じるほど、千尋は憔悴しきっていた。
ふと、そこで初めて千尋は異変に気づく。ちらりと横を見ても、隣を歩いていたはずの正輝がいないのだ。どうやら自分の歩調が速すぎて、正輝との距離が離れてしまったらしい。
千尋は慌てて後ろを振り返り――――正輝の首が宙を舞っているのを見た。返り血が千尋の顔にべちゃりと付着する。床に叩きつけられた頭部は数回瞬きを繰り返していた。首と胴体が切り離された事に気づいていないのか、正輝の身体はふらふらと歩いている。
やがて糸がぷつんと切れたように、胴体も派手な音を立てて床に崩れ落ちた。千尋の懐中電灯が正輝の代わりに照らしたのは、赤黒く汚れたセーラー服を着た少女だ。
千尋は喉が張り裂けそうな勢いで叫んだ。それと同時に全身から力が抜けていった。そのまま彼女はへなへなと座り込んでしまう。逃げろ。逃げろ。脳内では警鐘が鳴り響いているが、腰が抜けてしまったのか立てそうになかった。
「ごめん……なさい……」
「――ゆ」
ぎろり。ハギノがこちらを見た。髪に隠れてよく見えないが、彼女の首には大きな赤い傷跡があるようだ。やはり彼女は葛原萩乃なのだろうか。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「――る」
念仏のように謝罪の言葉を口にしながら、千尋は少しずつ後ずさる。それに合わせてハギノも一歩ずつ近寄ってきた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ……!」
「――さ」
もう何も考えられない。千尋はただひたすらに謝り続けた。汗と涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
「――な」
ぴちょん、ぴちょん。ハギノの持つ鉈からは血が滴り落ちている。それに紛れて聞こえてきた声は怨嗟にまみれていた。
「――い」
にたぁ。ハギノが笑う。恐怖のあまり、千尋はぎゅっと目をつむって両腕で頭を抱えるようにその時を待った。
しかし鉈が振り下ろされる刹那、横から何者かに強い力で腕を引っ張られる。腰が抜けて立てなかったのに、第三者の力が加わった事によって難なく立ち上がる事ができた。
「こっちだ!」
自分の腕を引いているのは見知らぬ若い男だった。どこかで見たような気もするが、はっきりとは思い出せない。しかし彼が何者なのかを思い出す暇もなく、千尋は促されるままに全力でその場から走り去った。




