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scene1

「わー、雰囲気あるねえ」


 バンから下りた片桐(カタギリ)(シズク)は瞳を好奇に輝かせながら周囲を見渡した。彼女の言葉通り、深い夕闇に包まれた校舎は得も言われぬ不気味さを醸し出している。

 千尋が通っていたこの中学校は、千尋達が卒業した数年後に廃校になった。もともと生徒数の少ない学校だったし、市が財政難に陥っているという噂は千尋が在学していた時から囁かれていた。遅かれ早かれ廃校になる予感はしていたために驚きなどはなかったが、三年間通っていた母校が廃校になるというのは何だか少し寂しい気もする。


「でも、勝手に入っちゃっていいのかな?」


 紀井(キイ)尚忠(ナオタダ)が校門に手をかけようとしている事に気づき、千尋は慌てて口を開く。いくらここが廃校で、この中に入るのが目的だったとはいえ、形だけでもためらう素振りを見せる者がいたほうがいい気がした。


「ヘーキヘーキ。どうせ誰も見ちゃいないって」

「それに、委員長はもう中にいるんだろ? 早く行かないとうるさいぞ」


 けらけらと笑いながら答えたのは、ここまでバンを運転してきた内村(ウチムラ)(スバル)だ。昴の言葉に尚忠も追従し、彼はそのまま校門を押し開ける。南京錠で閉ざされているわけではない校門は、ぎぃっと大きな音を響かせて開いた。

 委員長――――千尋を同窓会に誘った、薄野(ススキノ)京香(キョウカ)はすでに校舎内で待機しているらしい。廃校で同窓会をやるにあたって幹事として色々と準備をする事があるから、だそうだ。もう一人の幹事である(サカイ)正輝(マサキ)も、一足先にここに来ているらしい。校門があっさり開いたのは、二人が先に来ていたからだろう。


「だけど、残りの人が来るまで待ってたほうがよくない?」


 男二人の物言いに難色を示したのは雫だ。今この場には、雫、昴、尚忠、そして千尋の四人しかいない。校舎内にいる京香と正輝を含めれば六人だが、同窓会の参加者は全部で十人だ。まだ来ていない者が四人いるだろう。

 千尋達は東京からの参加だった。高校を卒業すると同時に上京して東京で暮らしている彼らは、同窓会のために一足先に再会し、昴の運転でここまで乗り合わせてきたのだ。一方、まだ来ていない四人は地元に残っていたり別の地域に行ったりとばらばらで、到着するタイミングもわからない。スマートフォンも圏外で、まだ来ていない彼らに連絡する手段もなかった。


「ここで待ってたって時間の無駄だろ? あいつらだってそのうち来るだろうし、中で待ってようぜ」


 しかし昴は気にも留めず、一人で勝手に敷地内へと入ってしまう。尚忠も彼に続いたため、雫と千尋も彼らについていくしかなかった。


* * *


 静まり返った廊下に、かつんかつんと四人分の足音が響く。壁には防犯を呼びかける色あせたポスターや破れかけたプリントなどがそのままの姿で張りつけられていた。


「へえ、廃校っていうわりには綺麗なんだね」

「どこが? 埃だらけだし、いろんなところに蜘蛛の巣が張ってるじゃん」


 千尋の呟きを耳ざとく聞きつけ、雫は唇を尖らせる。こうした何気ない一言にもいちいち突っかかってくる彼女の事は、学生時代から苦手だった。千尋は曖昧に笑い、ちょうど前を通っていた教室の中を指さす。


「そういう意味じゃなくて、ごみが落ちてたり物が壊れたりしてないっていう意味だよ。ほら、山奥の廃校なんて不良のたまり場になったり肝試し目当ての人が来たりしてそうでしょ?」


 懐中電灯の明かりで見えるかぎりだと、人の手が入っていないはずの母校は綺麗なままだった。窓や壁にスプレーで落書きされていたり、飲食物のごみが散らかったりしているわけでもない。窓ガラスだって二、三枚は割れていそうなものなのに、窓ガラスはもちろんどこにもそういった破壊の痕は見られなかった。

 唯一異様なのは、すべての窓が鎧戸のようなものに覆われている事だろうか。鎧戸のせいで外の光はほとんど遮断されているが、在学中にあんなものはなかったはずだ。廃校になるにあたって取りつけたのかもしれない。だが、京香や正輝があっさり中に入っている事を考えると、あまり防犯面での効果はなさそうだ。


「委員長と正輝が掃除でもしたんじゃね?」

「かもな。……でもよ、だったらなんで埃と蜘蛛の巣はそのままなんだ? それに、何だか変な臭いもするし」


 昴は興味なさそうにあくびをしているが、尚忠は怪訝そうに眉根を寄せている。尚忠の疑問は、千尋が抱いているものでもあった。

 スプレーの落書きを消したりや落ちているごみを拾ったりするぐらいなら、時間と道具さえあればだれでもできる。だが、京香と正輝が片付けたにしては大がかりではないだろうか。それに二人が掃除したのなら、埃や蜘蛛の巣も綺麗になっていなければおかしいだろう。


「そう考えてみると、確かにおかし――あれ?」


 廊下を無造作に懐中電灯で照らしていた雫の足が止まる。雫の懐中電灯は、廊下のある一点を照らし出していた。


「どうしたの?」


 千尋が尋ねても、雫は照らし出された箇所を見つめたまま微動だにしない。彼女の顔は引きつっていた。残る三人は雫の様子に疑問を覚えながらも、彼女の見ている方向に視線を向けた。

 すでに電気や水道が止められている事は聞いていた。参加者は各自で懐中電灯を持ってくるようにと京香に言われていたので、千尋達四人はそれぞれ懐中電灯を持参している。色も大きさも異なる三つの光が雫の懐中電灯の光に重なり、『それ』はより鮮烈に四人の目に飛び込んできた。


「……なんだよ、あれ」


 廊下の先を照らそうと、光がまっすぐに動く。尚忠の懐中電灯だ。やや大きなオレンジ色の光は廊下をぼんやりと照らし出した。同時に、廊下の奥へ奥へと伸びる生乾きの血痕(それ)をも照らし出す。


「委員長か正輝がペンキでも零した、とか」


 昴は引きつった顔で笑う。しかし廊下に刻まれた赤黒い軌跡は、ペンキというには生々しい。

 最初に雫が照らしたのは血だまりだった。次に尚忠が照らしたのは、血だまりの中から何かを引きずったような痕だった。一体、この場所で何が起きたのだろうか。

 千尋は怯えながらも懐中電灯を動かす。小さな青白い光は壁を照らした。掲示がしやすいように柔らかい素材でできた緑の壁には、赤い異物が点々と飛び散っている。


「み、見て!」


 思わずそう言うと、他の三人の視線も壁に集中する。恐怖に呑まれて力が抜けたのか、やがて雫が懐中電灯を落とした。がしゃりと耳障りな音を立て、明かりが一つ消える。雫は慌てて懐中電灯を拾うが、何度スイッチを押しても懐中電灯は反応しない。どうやら壊れてしまったらしい。


「い、いたずらにしては手が込んでるよな」


 強がるように笑い、昴は壁に近づく。だが、声の震えは隠せなかった。

 恐る恐ると言った様子で、昴は懐中電灯を壁に近づける。そして血痕をまじまじと見つめてから、三人のほうを見た。


「大丈夫、ただのペンキだって。ほら、あの変な臭いは、ペンキの臭いだったんだよ」


 彼はそう言うが、周囲に漂っているのはペンキの臭いなどではなかった。血痕を見た今なら断言できる――――これは血の臭いだ。


「は、はは。まだペンキが乾いてな――」


 よせばいいのに、昴は血痕に触れてしまった。赤いしみをペンキと思い込みたがっているからこそできたのだろうが、一度触れてしまえば現実を受け入れるしかない。ペンキに温かさなど存在しないのだから。


「ひぃっ!?」


 ねちょ、と粘つく音が千尋の耳にも届く。生温かくて粘り気のある赤の粘液に驚いたのか、昴は情けない悲鳴とともに手を離した。


「ちょ……ヤバいって! ねえ、早くここから出ようよ!」


 雫は取り乱しながらも訴える。千尋だって、この不気味な空間に長居などしたくなかった。彼女はあくまで廃校で肝試しをするという雰囲気を楽しみに来たのだ。実際に幽霊と遭遇するなど夢にも思っていなかったし、なによりこんな濃厚な血の香りを嗅ぐ事になるなど想像もしていなかった。


「でも、ここには正輝達が、」


 かつぅん。


 尚忠の言葉を遮るように。


 かつぅん。


 背後から足音が響いて。


 かつぅん。


 闇の向こうに、白い光が揺れていた。

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