scene3
* * *
「やめろッ……!」
決して広いとは言えない、寒々しいコンクリートの部屋。そこに青年は閉じ込められ、おぞましい椅子に座らされていた。彼の目の前にいるのは一人の可愛らしい少女だ。だが、彼女が見た目通りの少女ではないというのは彼女に付着した返り血が証明していた。
青年は瞳に涙を浮かべて懇願する。椅子から与えられる痛みで意識が飛びそうだった。しかし加害者たる少女は止まらない。整った顔に狂気を宿した彼女は、楽しそうに男を見つめていた。
「助けてくれ……みのが、見逃してくれ……」
この少女に言葉など無意味だ。頭ではそう理解しながら、それでも青年は救いを請う。案の定、少女は聞く耳すら持たずに鼻歌を歌いながら凶器を物色していた。
「なんでもする、なんでもするからッ……!」
「ん? 今なんでもって」
ぴくり。その一言に少女は反応した。獲物ではなく人として、彼女は初めて青年のほうを見る。そこにいくばくかの希望を見出し、青年は歪な笑みを浮かべて言葉を並べ立てる。
「あ、ああ! オレにできる事ならなんだってする!」
「え、マジレスですか? そこはもうちょいリアクションしてほしいんですけど……まあいっか」
「なあ、頼むよ! オレを、」
金属音が青年の言葉を遮った。少女が凶器の並べられたトレーを叩いたのだ。
「“なんでも”なんて、そんな簡単に言っていい言葉じゃありませんよ?」
まるで何かに取り憑かれたかのように、少女は恍惚とした眼差しで凶器を――――いや、拷問器具を選び始める。頬を紅潮させた彼女が手に取ったのは親指潰し器だ。
「……でも、貴方がそこまで言うなら私もそれに応えてあげますよ。こういうのは専門外なんですけど、何事も経験ですからね。チャレンジしてみます」
凶器がずらりと並べられたトレーの隣に置かれた、拷問器具の並べられたトレーに視線を送り、少女は微笑む。それは、彼女がこれから行おうとしている残虐な行為からは想像もつかないほど、庇護欲を掻きたてるような愛らしい笑顔だった。
「そうですね……あ、こんなのはどうでしょう。これ、ぜぇんぶ耐えられたら生かしておいてあげますよ」
命を奪うほどではない、しかし途方もない激痛を与える悪魔の道具。それらが少女の合図でさらに室内に運び込まれる。青年は呆然とその光景を見つめていた。
「で、途中で貴方がもう殺してくれって喚きはじめたらゲームオーバー。お望み通り殺してあげます。……ね? 簡単なルールでしょう?」
青年は椅子に固定されて座らされている。だが、この椅子はただの椅子ではない。青年は椅子の名前など知らなかったが、審問椅子と呼ばれるこの椅子もまたれっきとした拷問器具だった。
しかし名前など知らなくても、この椅子がただの椅子ではないというのは見た瞬間にわかった――――腰かけや背もたれはもちろん、ひじかけにまでまんべんなく針で覆われているような椅子がただの椅子であるはずがない。
これからさらに今以上の苦痛が与えられるなど耐えられるわけがない。彼女はどうあがいても自分を殺す気だ。青年は自らの失言を悟り、あわてて前言を撤回しようとする。だが、少女は聞く耳を持たなかった。
「これはデモンストレーションなんです。精々いい声で鳴いてくださいね、えーっと……ところで貴方、何さんでしたっけ?」
――――快楽殺人鬼、信田咲楽は止まらない。
* * *
「これ、は……」
『三年一組』の引き戸を開けた千尋の目に飛び込んできたのは、正輝に聞いた通りの光景だ。ぽつんと一つだけ取り残された机は異彩を放っている。机の落書きが赤黒い塗料で書かれている事と机がたった一つしかない事を除けば、その光景はあの日にそっくりだった。
忘れていたはずの記憶が徐々に蘇る。捨てたはずの罪の意識が再び心にずしりとのしかかる。千尋は吸い寄せられるように机へと近寄り、服が血だまりで汚れるのも構わずぺたりと床に座り込んだ。
葛原萩乃はこの場所で自殺した。それなら、彼女の亡骸を最初に見つけたのは誰か――――自分だ。
翌朝に提出しなければいけない宿題を教室に忘れてしまった事に気づいた千尋は、夜の遅い時間であったのにもかかわらず学校に取りに戻った。見知った場所だから大丈夫、そう親に言い訳をして。教室の引き戸を開けた彼女の目に飛び込んできたのは、変わり果てた萩乃の姿だ。
その日は萩乃と喧嘩をした日だった。いや、喧嘩というよりも、千尋が一方的に彼女を傷つけたといったほうが正しいだろうか。いつまでもいじめられっ子と一緒にいたら、今度は自分が標的にされる。侑奈からそのような事を何度も遠回しに言われていた。あんな目に遭いたくないなら萩乃を突き放して、そしたらあたし達のグループに入れてあげる。そんな悪魔の甘言に、五年前の千尋はいつの頃からか乗ってしまっていた。
徐々に萩乃と距離を置くようになった。萩乃へのいじめにも加担するようになった。萩乃の悪口だってあることないこと吹聴した。それでも萩乃はまだ千尋の事を親友だと思っていたようだった。千尋はそれを煩わしいものだと思い、萩乃にそう思われていたらいつまで経っても侑奈の仲間に入れてもらえないとすら考えていた。
だから千尋は萩乃を拒絶し続けた。あの日もそうだ。一人で必死に机の落書きを消そうとする彼女の手助けなどする気など毛頭なかった。萩乃の誕生日なんて覚えていなかった。廊下からこちらを見ている侑奈達の不興を買わないようにするだけで精いっぱいだった。萩乃が自分をよりどころにしている事に気づいていながら、彼女の手を振り払った。招いたのがあの結果だ。
乾いた笑いが漏れる。すべてを忘れてのうのうと生きてきて、今まで被害者面していた事がとても滑稽だった。何が親友だ。何が直接的な加害者じゃないだ。萩乃を殺したのは、傷ついていた彼女にとどめを刺したのは、他でもない自分だったじゃないか。
「……どうした?」
そんな千尋の様子を見て、瑛士が怪訝そうな声をかける。千尋は歪に口元を歪めたまま静かに涙を流していた。
「私の……せいだったの……。あの時、私が突き放したから……萩乃は……」
しゃくりあげながら、千尋は瑛士に罪の告白をする。萩乃のいじめを扇動していたのは瑛士だったが、彼よりもよほど自分の事がひどい事をしてしまったように思えた。
「ごめんなさい……ほんとに……ごめんなさい」
「英……」
瑛士の持つLEDの懐中電灯が千尋を照らす。その明かりはまるで自分の醜さを浮き彫りにしていくためのもののようだ。耐え切れずに千尋は俯いた。
――――ぺたり。
その瞬間、小さな足音が聞こえてきた。千尋は思わず顔を上げ、瑛士はさっと後ろを照らす。青白い光が映し出したのは、血に汚れたセーラー服姿の少女―――ハギノだった。
彼女は先ほどと同じように鉈を携えている。しかし、最後に見た時と明らかに違う点が一つあった。ハギノは空いた手に雫の頭部をぶらさげていたのだ。乱雑に髪を掴まれている事に対して雫は何の文句も言わず、されるがままになっている。そんな彼女の頬には涙の痕が残っていた。
きっと他の者もハギノに殺されたのだ。昴も尚忠も、悟朗だってもういないのだろう。彼女から逃げ切れるなど、それはしょせん思い上がりでしかなかった。自分も瑛士もここで彼女に殺される運命なのだ。
「ごめんね……萩乃……」
だが、それでも千尋はハギノに頭を下げた。自分の罪を思い出した今、許されるとは思っていない。しかし、許されるとか許されないとか以前の問題として、彼女に誠心誠意謝りたかった。
思えば自分が上京したのは、萩乃の死がきっかけだった。彼女の事を一刻も早く忘れたいがために、地元を捨てて慣れない都会に向かった。都会の荒波にもまれていくうちに地元で起きた凄惨な事件の事も、自分が突き放した親友の事も、そして自分が犯した罪の事も忘れる事ができた。だが、果たしてそれでよかったのだろうか。
萩乃の死から目を背けてはいけなかった。彼女がこんな姿になってしまったのは、きっと自分達が彼女の事を忘れたからだ。自分達が彼女を殺したのに、彼女を忘れて幸せに生きていたからだ。せめて自分達が罪の意識さえ忘れなかったら、彼女は悪霊になる事もなかったのではないだろうか。
「私は悪くないなんてもう言わない……萩乃がつらいのはよくわかってたのに、あんな事言って……本当にごめん……」
ハギノは何も言わない。前髪の隙間から覗く、何の感情も宿っていない瞳はただじっと千尋を見下ろしていた。それでも構わず千尋は謝罪の言葉を述べ続ける――――だが、それを遮る声があった。
「今さら謝ったって遅いんだよ」
「え、」
千尋が言葉を発しようとした瞬間、首筋に冷たいものがあてがわれる。千尋は思わず息を呑んだ。瑛士はいつの間にかどこかに消えてしまっていた。
いや、『どこか』ではない。彼は千尋の背後に移動しただけだ。それならこの冷たい刃は。逃げられないように身体を押さえている腕は。
「……お前が一番赦せなかった」
耳元で低い声が囁かれる。その瞬間、全身に電流が走ったような気がした。
どこかで見た事のある顔だと思った。やけに童顔だと思った。『彼』は今野瑛士だと名乗った。だから『彼』が今野瑛士だと思った。
『彼』と面識があるのは事実だ。千尋は『彼』を知っている。『彼』と千尋は何度も言葉を交わした。『彼』と知り合ったのは学生時代だ――――だが。
「俺はお前の事、親友だって聞かされてた。俺もそう思ってた。いつも一緒にいるみたいだし、よく家にも遊びに来るし、仲いいんだなって。……お前がいたのに、なんで自殺なんてしたのか不思議だったんだ。お前ならきっと味方してくれたはずだって思ってた。でも、本当は違ったんだろ? お前は裏切ったんだ。お前なんかを親友だと思ってたせいで、あいつは余計に苦しむ羽目になった。下手にいじめてた奴より、お前のほうがよっぽどひどい奴だと思わないか?」
『彼』と会ったのは、『彼』と喋ったのは、『彼』がいたのは、本当にこの教室だっただろうか?
「だから、さ――死んで償えよ、人殺し」
びちゃり。生暖かいものが飛び散って頬を汚した。痛みとともに視界が霞む。それと同時に中学生だった頃の記憶が溢れ出してきた。
(ああ、そうか)
記憶の中の『彼』がいるのは中学校の教室ではない。それも当然だろう。だって『彼』は萩乃の――――