scene2
* * *
マウスに手を伸ばしては気になるURLをクリックし、ディスプレイに表示されるページを見ては落胆する。いつもはその繰り返しだった。
だが、今日は違う。ようやく『彼ら』の窓口が見つかったのだ。緊張と興奮から頬を紅潮させ、少年はかちかちとキーボードを叩き続ける。その目はディスプレイに釘づけだ。
『彼ら』とやり取りをしていくにつれ、徐々に計画が煮詰まってきた。『彼ら』の力を借りれば、姉を殺した奴らに復讐ができる。そんな背徳的な高揚感が少年の心を占めていた。
当時の姉の担任はすでに死んでいるらしい。彼女は姉が死んだ翌年に定年退職したそうだが、その後急な発作で帰らぬ人となったようだ。姉がいじめられているのに見て見ぬふりをしていた担任にも復讐したかったが、故人相手では何もできない。少年は泣く泣く彼女への制裁を諦めたが、彼女と同じ罪を犯した者はもちろん真に憎むべき鬼どもがまだ生きている。対象者がいる以上、復讐を完全にやめるなどという気は起きなかった。
きっとこの計画が達成された時、自分もまた鬼となるのだろう。いや、こんな事を計画している時点ですでに自分はそんな人外の化け物になっているのかもしれない。そもそも、姉を救えなかった時点で自分もまた赦されていい存在ではなかった。
だが、それならそれでよかった。姉を殺した鬼に報復するためなら、自分も鬼にならなければいけない。姉を死なせた事に対する罪を償わなければならない。その後の始末は『彼ら』に任せればいいだろう。鬼と化した自分がその後ものうのうと生を享受するなど、残された最後の良心が黙っていないのだから。
* * *
「……」
どれほどの時が流れただろう。洋式便器の蓋の上に腰かけ、雫は震えながら夜が明けるのを待った。もちろん夜が明けたからと言って状況が好転する保証はない。だが、鎧戸の隙間から日光が射し込んでくれれば、少しは恐怖も薄まるような気がするのだ。
トイレに誰かやってくるような気配は今のところないが、少し前にどこからか悲鳴のようなものが聞こえてきた。あの悲鳴は一体誰が、どういう状況で発したものだったのだろうか。
旧友達がどうなったかなど考えるだけで恐ろしい。自分以外は全員あの謎の少女に殺されたなどとは思いたくもなかったが、それは決して否定できない可能性だ。彼らの生存を信じながら、雫は彼らの死も視野に入れていた。
夜が明けたら皆を探しに行こう。自分にそう言い聞かせ、一種の使命感と化したそれを心に刻む。目標がなければ恐怖に潰されてしまうような気がした。
胸に迫る孤独を掻き消すように、雫はスマートフォンをいじる。圏外を示す文明の利器はどこにも繋がらない。それでも寂しさが和らぐような気がした――――その瞬間。
ひた。
足音が聞こえてきた。雫はとっさに画面を消灯する。この闇の中ではスマートフォンの灯りは目立ちすぎた。
ひた。
少し遠いが、確実に近づいてきている。誰かが廊下を歩いているのだろうか。千尋達ならいい。だが、この足音の主が千尋達でなかったら?
ひたり。
足音はそこで止まった。だが、トイレの入り口で立ち止まっているような気がするのはきっと気のせいだ。そんなものはただの恐怖が見せる思い込みだ。足音の主はトイレなんて気にしていない。自分にそう言い聞かせ、雫はぎゅっと目をつぶった。
――――ぺた。
音が変わった。
まるで、感触の柔らかいウレタン樹脂の廊下から冷たく固いタイル張りのトイレへと移動したような。
恐らく相手は裸足なのだろう。足音は小さいが、雫の研ぎ澄まされた神経は音を拾い続ける。本人の意思に関わらず、聴力はこんな時だけ優秀な働きを見せてくれた。
雫は息を必死で殺し、足音の主がこの場から去ってくれる事を願い続ける。それしか今の彼女にできる事はなかった。
鼓動がいつも以上に大きく聞こえた。心臓はばくんばくんと早鐘のように鳴り響いている。こんなに大きな音を立てていたら見つかってしまう。この音を少女に聞き咎められたらどうしよう。そんな焦りが混乱した頭の中をぐるぐると回っていた。
ぺたん。ぺたん。柔らかな素足が床のタイルを叩く音が反響する。音は確実に、雫が隠れている最奥の個室に向かっていた。その足取りはひどくゆっくりとしたものだったが、そこに一切の迷いはない。
少し考えればわかる事だ。他の個室はドアが開いているのに、一つだけドアの閉まっている個室がある。中に何者かが潜んでいるのは一目瞭然だろう。しかし今の雫には、そこまで考えを巡らせる余裕はなかった。
足音が聞こえなくなった。しかしドアの前から人の気配がする。ついに足音の主は雫の隠れていた個室の前までやってきたのだ。
帰って。帰って。お願いだからどこかに行って。雫は心の中でそう唱え続ける。しかしその声がドアの前に立つ人物に届く事はない。極度の緊張からか、雫の頬を汗がゆっくりと伝う。
がちゃ。
「――ッ!?」
がちゃがちゃ。
「――あ」
ドアノブが勢いよく回された。ドアの前に立つ人物は何度もノブに手をかけ、静寂を切り裂きながらドアを開けようとする。
「――け」
がちゃがちゃがちゃがちゃ。
「ぅ……! ぁ、ぁぁ……」
雫の口から言葉としての意味をなさない声がもれた。噛み殺せなかったそれは彼女が抱く恐怖そのものだ。
「――てぇ……?」
がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ――――
昏く淀んだ怨嗟の声。濃縮された憎しみのこもる低い音が雫の鼓膜を震わせる。それは雫の知人とはかけ離れた声だった。こんな声の主は知らない。
声にならない悲鳴を上げ、雫は思わず後ずさった。だが、ここはトイレの個室だ。逃げ場などどこにもない。後ずさると言っても、手と背中がタンクにぶつかっただけだった。
ドアの前に立つ人物は中々諦めようとしない。鍵がかかっている個室を力づくで開けようと、幾度もノブを回したりドアを叩いたりしている。雫はぎゅっと身を縮こまらせ、音の暴力が過ぎ去るのを震えながら待ち続けた。
「……ぁ?」
いつの間にかトイレには静寂が戻っていた。あれほど暴力的な音を奏でていたドアノブもすっかり落ち着いていて、ぴくりとも動こうとしない。念のためにとドアの上を見上げてみるが、にたぁと笑みを浮かべた土気色の顔の少女がこちらを見下ろしているという事もなかった。
(たす……かっ……た……?)
瞳に浮かんだ涙を拭い、雫は乾いた笑みを浮かべる。疲労感が凄まじかった。襲いくる脱力感に従い、雫はずるずるとタンクにもたれかかる――――だが。
「ひぃっ!?」
鈍い音がトイレに響いた。突然の事に驚き、抑えきれなかった悲鳴が漏れる。めしめしと木が裂ける音が繰り返し聞こえてきた。
雫の視線はドアの一点に集中している。がつんがつんと繰り返し聞こえる破壊音が砕こうとしている部分だ。ぱらぱらと木屑がタイルに落ち、開いた穴から赤く錆びた刃が顔をのぞかせた。それでも刃は止まらず、叩きつけられるように振り下ろされた刃はドアを破壊していく。その光景から目が離せない。
ほどなくして穴は広がり、向こうの様子が把握できるようになった。穴からは、赤黒く汚れたセーラー服のようなものが見える。そこから目が離せなかった。やがてセーラー服は微かに動き、別のものが見えた。それは一瞬だけ穴を塞ぎ、ころんとこちらに転がってくる。
恐怖と絶望に引きつったそれは尚忠の頭部だ。彼の濁った瞳と目が合った瞬間、雫は悲鳴とともに意識を手放した。




