【第3話】Nostalgic town
玲奈は片手で持っているスマホの画面を睨みつけながら、スプーンでカレーライスを口へと運んだ。
現場調査へ向かう前に、Diと一緒に一階の『喫茶残灯』で腹ごしらえをしていた。
店主の日下部が何種類ものスパイスを調合して、じっくり煮込んだというカレーは看板メニューである。
「やっぱり、戦死者を埋めていたっていうのは、ただのデマみたいですね。」
ネットのオカルト掲示板やSNSを漁ってみたが、そんな噂を裏付けるような歴史的エビデンスはどこにもなかった。
「そうですか...では、噂の出所はどうですか?」
すでに自分の分を食べ終え、カウンター内で手際よく洗い物をしていたDiが、顔を上げて玲奈に尋ねる。
玲奈は小さく首を横に振った。
「出所もはっきりとは分からなかったです。ただ、地元の若者の間で肝試しスポットになってるのは本当みたいです。」
玲奈はスマホの画面をDiに向けた。
そこには、実際にその廃ビルに潜入したという個人ブログや動画がいくつも並んでいる。
「見つかった情報はこれくらいでした。でも、みんな危ない目に遭うことなく帰ってきてますね。」
「なるほど。実は私も行方不明者リストを照合してみたのですが...あの廃ビルに立ち入った後に消息を絶ったという人間は、一人も確認できませんでした。」
「じゃあ...今回の依頼は、本当にただの家出なんですかね?」
「玲奈さん。結論を出すにはまだ早いですよ。」
Diは洗ったグラスを清潔なクロスで拭き上げながら、静かに、しかし含みのある声で微笑んだ。
「実際に行って、自分たちの目で確かめてから結論を出しましょう。」
「...そうですね。」
二人は店を後にし、目的の商店街へと向かった。
裏路地を抜けて大通りに出て、そのまま真っ直ぐ歩いて十分ほど。左手に見えてくるのが、例の廃ビルがある商店街だ。
この事務所に来てからの二週間、Diとこうして二人きりでゆっくり話す機会はなかった。玲奈は並んで歩きながら、ずっと胸の奥で気になっていた疑問を、思い切ってぶつけてみることにした。
「あの、Diさんは...なんで、れおと一緒に働いてるんですか?」
Diは歩調を緩めることなく、玲奈の言いたいことをまるで察したように口元を緩めた。玲奈の目には、それがどこか遠い日の記憶を慈しむような表情に見えた。
「玲奈さんはまだここに来て日が浅いですから、不思議に思うのも無理はないでしょう。彼はだらしない上に、仕事の報告書もまともに書きません。」
「はい。最悪です。」
「ええ、最悪です。」
Diはあっさりと同意してクスリと笑った。
「ですが、実は誰よりもみんなのことを考えています。そして、何があっても絶対に私たちを裏切らない。それだけは確信できます。」
Diの鋭い青い瞳が、横を歩く玲奈を優しく見つめる。
「私たちの仕事は時に敵を作ることもある上に、いつ国に見捨てられるかも分からないです。だからこそ、安心して背中を預けられることは、何よりも重要なのですよ。」
普段の彼女からは想像もできないほど、その微笑みは敬愛に満ちていた。玲奈は思わず、言葉を失ってその横顔を見つめてしまう。
「さあ、玲奈さん。着きましたよ。ここからは気を引き締めていきましょう」
少しの沈黙のあと、いつの間にか目的の廃ビルに辿り着いていた。
それは四階建てのコンクリート建築。外装のタイルはところどころ剥がれ落ちており、ひび割れた窓ガラスの内側は暗闇に包まれている。いかにも若者が肝試しスポットとして喜びそうな佇まいだ。
「玲奈さん、ここから先は何が起きるか分かりません。常にご自身の安全を第一に考えて行動してください。もしも想定外の事態が起きた場合は、私を置いて逃げてください。」
暗い地下へと続く階段の手前で、Diは足を止め、玲奈の目を真っ直ぐに見据えて告げた。
Diの真剣な眼差しに、玲奈は小さく唾を飲み込んで「はい」とうなずいた。
廃ビルの一階から地下へと続く階段は、昼間だというのに底が見えないほど真っ暗だった。湿ったカビの匂いと、どこか鉄サビに似た生臭い空気が、足元から這い上がってくる。
「足元が暗いですから、お気をつけください。」
Diが懐中電灯を取り出し、先に立ってゆっくりと階段を下り始める。
玲奈もそのすぐ後ろに続いた。
コンクリートの段差はひどく摩耗しており、埃で滑りやすくなっている。一歩、また一歩と下りるたびに、外の商店街の喧騒が遠ざかる。
「きゃっ!」
靴底が斜めに削れた段差を踏み、ずるりと滑った。
短い悲鳴と共に、身体が前方へと傾く。
玲奈は反射的に身体を支えようと左手を伸ばし、手すりを掴んだ。
「玲奈さん、大丈夫ですか!?」
「は、はい...すいません、大丈夫です。」
ガタガタと揺れ、ホコリまみれの手すりのおかげで、転倒は免れた。玲奈は冷や汗を拭いながら手すりから手を離す。
階段を下りきると、そこには何もない空間が広々と広がっていた。
「何も...ないですね。」
玲奈がそう言って、Diの後を追うように足を踏み入れる。
突然、視界がぐにゃりと歪み、激しい目眩が玲奈を襲う。
「うっ...なに...これ...」
「玲奈さん、どうされましたか?大丈夫ですか?」
思わず目の前を歩いているDiの腕を掴み、寄りかかる。
コンクリートの壁も、懐中電灯の光も、すべてが闇に飲み込まれていく。
次に玲奈が目を開けたとき、飛び込んできたのは明るい太陽の光だった。
「...え?なんで商店街...?」
玲奈は呆然と立ち尽くした。
目の前に広がっていたのは、廃ビルがある商店街だった。
けれど、何かが違う。どの店も真新しく、レトロな面影の街並みが広がっていた。
そして決定的に違うのは誰もいないことだった。不自然なほど晴れ渡った青空の下、無人の商店街が静まり返っている。
「どうやら異空間に転移させられたようですね。」
すぐ隣から聞こえた冷静な声に、玲奈は振り返る。
乱れ一つない仕草で佇むDiの姿がそこにあった。
「Diさん、これって...」
「おそらく、幻素によって構築された過去の商店街の姿でしょう。しかし、何が潜んでいるか分かりません。」
Diが静かに足元へ視線を落とす。彼女の影が、まるで生き物のように不自然に大きく、濃く広がっていった。
玲奈が息を呑むのを余所に、Diは自身の影の中へと滑らかに手を差し込む。すると、影からひと振りの短剣を取り出す。
いつの日か能力の説明は聞いたことがあった、Diは自身の影に物を格納し、自由に取り出すことができると。しかし実際に目の当たりにするのは初めてだった。
「はぐれないように。行きましょう。」
Diは短剣を構え、無人の商店街を彷徨い歩き始めた。玲奈もその背中にぴったりとへばりつく。
雑貨店の軒先には、あえて見せるように開かれた色鮮やかなビニール傘がいくつも並び、
隣の喫茶店のガラスケースを覗けば、ナポリタンやクリームソーダなどの食品サンプルが陳列され、店内からは今にも珈琲の香りが漂ってきそうだ。
どれもつい数秒前まで、人がそこにいた気配を濃厚に残している。
玲奈の背中には、世界の終わりに迷い込んだような、じっとりとした恐怖が広がっていた。
それなのに。
恐怖と同時に、玲奈の胸の奥には妙な懐かしさと、心地よさがじんわりと広がっていた。
真夜中に誰もいない街を散歩しているときに覚える、あの独特な感覚に似ていた。
明かりの消えた町、静まり返る交差点、自分一人の足音だけが夜の底に吸い込まれていく。あの泣き出したいほどの圧倒的な寂しさと、世界を独占しているような、切なくも甘い全能感。
歩みを進めるにつれ、玲奈の胸を焦がしていた焦燥感や恐怖は、不思議なほど消えていく。
境界線が曖昧になり、自分の輪郭がこのレトロな街の空気にじわじわと溶けていく。そんな錯覚すら覚える。
「玲奈さん、気をしっかり持ってください。」
前を歩くDiの鋭い声で玲奈は現実に引き戻される。
「あ...ええ、そうですね...」
返事を返したが、足取りは鉛のように重かった。
帰りたくない。
心のどこかで、そんな突飛な思いが芽生え始めている。
あの息苦しい現実に戻って何になるのだろう。この美しく、静かな世界にずっと留まりたい。
Diの手を振り解き、このままこの街の路地裏へ駆け込んで、消えてしまえたらどれほど楽か。
そんな甘美な誘惑がじわじわと、しかし確実に彼女の精神の奥深くを蝕む。
「...ねえ、Diさん。」
気づけば、玲奈は足を止めていた。
「帰らなきゃ...ダメですか...」
「玲奈さん?」
Diが振り返る。その青い瞳を玲奈はぼんやりと見つめていた。
「だって、帰っても私の居場所なんてどこにもないです。学校にも行ってないし、毎日毎日、同じことの繰り返し...。でも、ここなら静かですし...退屈かもしれないけど、私の中の化け物が暴走しても誰も傷つかない。このまま...ここで...」
視線が定まらず、うわのように紡がれる玲奈の言葉。
「目を覚ましてください、玲奈さん!」
鋭い声と共に、視界が揺れた。
気がつけば、Diが玲奈の両肩を強い力で掴んでいた。
「玲奈さん、それは異空間が作り出した甘い毒です。忘れていましたか?貴女にはもう、あの喫茶店の二階に帰る場所があるはずです。」
「帰る...場所...」
「ええ。皆さん貴女の帰りを待っています。」
Diの真っ直ぐな言葉が、玲奈の意識を現実へと繋ぎ止める。
「...っすいません...私...」
玲奈は激しく頭を振った。冷や汗がこめかみを伝い落ちる。
「急ぎましょう。」
Diが玲奈から手を離し、周囲を油断なく見据える。
ハッとして周囲を見回した玲奈は、息を呑んだ。
さっきまで突き抜けるように青かった空は、いつの間にか赤い夕暮れに染まっていた。
引き寄せられるように視線を向けたその先には、一際異質な存在感を放つ建物がそびえ立っていた。
「あれは...」
気づけば二人は、自分たちがさっきまでいたはずの『廃ビル』の前に辿り着いていた。
しかし、この異空間において、そのビルはまだ廃ビルではなかった。
外装のタイルは磨かれたように綺麗で、ガラスも割れていない。どうやらまだ複数の店舗が入っている現役のビルのようだ。
「地下に行ってみましょう。あそこにこの異空間から抜け出す手がかりがあるはずです。」
Diが先頭に立ち、ビルのエントランスをくぐる。薄暗い階段を下りていくと、そこには『骨董屋』が店を構えていた。セピア色のランプが灯る店内には、古そうな壺や不気味な絵画、素性の分からない家具が並べられている。
「あっ!」
玲奈は店の奥を見て、声を上げた。
骨董品とは別で、一人の高校生が床に倒れている。
「Diさん!人が倒れています!」
「ええ、気を失っているだけのようです。どうやらこの空間から出られず彷徨っているうちに幻素に当てられたのでしょう。」
Diが周囲を警戒しながら駆け寄る。呼吸は安定しており、外傷もないようだった。
「この人は...っ!清水さんの弟さんです!」
清水さんから見せてもらった写真の人物が目の前に倒れていた。
玲奈が周囲を見回すが、襲ってくるような異形の姿はどこにもない。
その時、玲奈の視線が、店の入り口近くにあるレジカウンターの横で止まった。
そこには、一脚の古びた木製の椅子が置かれており、おそらくはこの店の店主が座るためのものだろう。
一見するとただの木製の椅子だが。しかし、玲奈は何か違和感を感じていた。
「Diさん、あの椅子...」
「気づきましたか。素晴らしい幻素への感知能力です。おそらくあの椅子がこの異空間を作り出した元凶でしょう。」
Diは短剣を構え直し、椅子へと近づく。
彼女は懐から、奇妙な紋様が描かれた一枚のお札を取り出す。
出発前に玲奈に説明していた憑依物の幻素を封印するためのものだ。
それを椅子の背もたれの真ん中へと、貼り付ける。
それと同時に、レトロな骨董屋も、無人の商店街も、ガラス細工のように音を立てて崩壊し始める。
「戻って来れた...?」
気づいたらそこはカビ臭い、薄暗い地下だった。
隣にはDi、そして少し離れたところには依頼人の弟である清水隆と例の椅子が横たわっている。
「ええ。お疲れ様でした。よく頑張りました。では隆さんを連れて事務所に戻りましょう。」
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「幽霊じゃなかったのか?そいつは大変だったな。」
Diからの詳細な報告を聞き終えたれおは、社長席の椅子からソファに座る玲奈へと真っ直ぐに視線を移した。
「まさか異空間が形成されていたとは...予測が甘かった俺の責任だな。初仕事だっていうのに、いきなり危険な目に遭わせてしまったな。すまない。」
そう言って頭を下げるれおを見て、玲奈は目を丸くして驚いていた。普段のだらしない姿からは想像もつかない言葉だった。
「え、あ...いえ...大丈夫です、そんな危険なことはなかったですし。それに、Diさんが完璧に守ってくれたので」
「ああ。戦闘を伴うような空間じゃなくて良かった。Diもご苦労だったな。」
「いえ。玲奈さんをお守りするのも私の役目です。」
Diはいつもの澄ました顔のまま、小さく頭を下げた。
その後の展開は、玲奈もこの二週間で何度か目にしたことのある、いつもの事務手続きの流れだった。
依頼人の清水に連絡を入れ、弟が見つかったことを告げる。本人には「廃ビルの地下室で気を失って倒れているところを発見し、こちらで保護した。」と、常識の範囲内の事実だけを掻い摘んで伝えた。
清水が事務所に駆けつけてくるのを待つ間に、弟の隆も目を覚ました。だが、彼に地下室での出来事を尋ねてみても、「階段を下りて、部屋に入ってからの記憶がすっぽり抜けている」とのことだった。
「隆...!隆、無事だったんだな!」
事務所のドアが開くや否や、弟の姿を認めた清水は涙を流して隆に抱きついた。そして、何度も、何度も、れおたちに向かって深く頭を下げてお礼を言った。
清水が置いていった封筒の中身、今回の依頼の報酬額を見たとき、玲奈は思わず息をのんだ。一ヶ月の生活費どころか、新入社員の初任給ぐらいの金額だった。
「まあ、身内と無事に再会できたんだ。あいつにとっちゃ、安いもんだろ。」
清水兄弟を見送った後、れおはデスクの上に報酬の封筒を放り投げながら、事も無げにそう言った。
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「よし!これで今日の仕事は終わりっ!」
れおは社長席の椅子に思い切り身体を投げ出し、大きく息を吐いた。
玲奈もまた、やり遂げた安堵感からソファに深く腰掛け、Diが淹れてくれた紅茶を啜りながら、一日を振り返る。
「...そういえば、なんで他の肝試しの人たちは無事で、隆さんだけが行方不明になっちゃったんですかね?」
「異空間に転移される、何かしらの条件があったんだろうな。特定の時間にあの部屋に入るとか、特定の物を持っているとか。たまたま、あいつとお前らはそれに当てはまってしまったんだろ。まあ、俺たちの仕事は『発見』と『一次対応』までだ。原因の詳しい追究と、あの椅子の引き取りは、『八咫烏』の連中に任せよう。」
「八咫烏...?」
初めて耳にする単語に、玲奈はカップを持つ手を止め、思わず聞き返した。
「上の連中だよ。ほら、前に話したろ?お前を人体実験の材料にしようとしてた国の秘密機関だよ。俺たちが作った報告書も、最終的には全部そいつらに提出されることになってる。ま、何はともあれ、怪我人も出ずに依頼は一発解決だ!というわけで、報告書の作成、頼んだぞ!」
れおはニカッと軽い笑みを浮かべ、社長席から玲奈にウインクしてみせた。
玲奈は手に持った紅茶の温もりを噛み締めながら、呆れたように深いため息をついた。
「...だと思いました。」




