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【第1話】Step into the phantom③

玲奈は、目の前の光景を現実として受け入れられずにいた。

机を挟んだ向こう側のソファに、日向が腰掛けている。明るいモスグリーンのジャケットに、明るい茶髪と白い肌がよく映えていた。モデル雑誌に載っていてもおかしくないほどの整った顔立ちだ。


そんな日向は、玲奈に温かい紅茶を淹れてくれた後、ソファの上で「自分の尻尾」の毛並みをブラシで整え始めた。


三毛猫のような模様の尻尾が、日向の尾てい骨あたりからしなやかに伸びており、それを器用に膝の上に乗せてブラッシングしているのだ。

人間の女の子から本物の尻尾が生えているという、あまりにも非日常的な光景。

玲奈は「きっと怪我の後遺症で幻覚を見ているんだ」と自分に言い聞かせながら、差し出された紅茶を啜った。


「気になるっすか?」


視線に気づいたのか、日向が手を止めて小首を傾げた。


「すいません、ジロジロ見ちゃって...」


「気にしてないんで全然いいっすよ! 初めて『憑依者』を見るんだから仕方ないっす。この尻尾、気になるっすよね。触ってみるっすか?」


「それ本物なんですか?」


玲奈は驚きで目を丸く開いた。


「もちろんっす! 気持ち良すぎて虜になったらダメっすよ?」


日向はふんす、とドヤ顔で胸を張る。

玲奈は恐る恐る身を乗り出し、その尻尾にそっと触れてみた。

三毛猫模様の毛並みは予想を超える柔らかさで、生き物特有の温かみを持っていた。本当に、本物の猫の尻尾だ。


「でも、なんで...? さっき言ってた『憑依者』と関係があるんですか?」


「そうっす! ボスが来るまであと10分くらいかかりそうなんで、ちょっとだけ説明するっすね。」


日向はスマホの画面で時間を確認し、続けた。


「まず前提として、この世界には『幻素げんそ』っていう、目に見えない物質が存在するっす。この幻素っていうのはそこら中にあるんすけど、正直、まだ謎だらけなんすよね。で、その幻素のせいで、たまに特殊能力を持った人間とか、異常現象を引き起こす物体とか、超常的な現象が生まれちゃうんすよ。分かりやすい例えで言うと、昔話に出てくる妖怪、学校の怪談、幽霊なんかも、この幻素が悪さをしてる可能性が高いっす。」


玲奈はポカンと口を開けたまま、言葉を失った。

日向の口から飛び出す言葉は、あまりにも突拍子がなかった。特殊能力、異常現象、妖怪に幽霊。


「...えっと、日向さん。冗談、ですよね? SF小説じゃないんですから。幽霊がその、幻素?でできてるなんて...」


冷静を装って反論するが、声の震えは隠せなかった。

日向はニカッと無邪気に笑う。


「信じられないっすか? でも、目の前の自分の尻尾は? これはどう説明するっすか?」


「それは...」


言葉に詰まる。


「じゃあ...私が駅で見た、あの化け物も?」


「そうっす! 手で玲奈ちゃんのお腹をブスリと刺した化け物も、幻素が原因っす。あれは幻素が形を成して『幻体げんたい』にって、人間に取り憑いた『憑依者』ってやつっすね。」


「やっぱり、夢じゃなかったんだ...じゃあ、なんで私生きてるんですか? あんな大怪我、痕も残らずに綺麗に治るなんて、絶対におかしいじゃないですか!」


手でお腹を貫かれた感触を思い出し、玲奈は思わず身震いした。


「そうなんすよねえ...そこなんすよ。自分とボスが駆けつけて玲奈ちゃんを助けた時、その化け物はすでに息絶え絶えって感じだったんすよ。で、玲奈ちゃんの怪我もその時点で勝手に治り始めてて...不思議なんすよねえ。そこらへんはボスが詳しいんで、来たら説明してもらうのが一番っす!」


「...」


玲奈は再び言葉を失った。制服に開いた穴を見つめ、自分の身に起きた異常事態を処理しようとしたが、すぐに諦めた。答えを知っているという、その「ボス」を待つしかなさそうだ。


「そういえば。ここはどこなんですか?」


「ここは自分たちの事務所っす。ボスと自分を含めて五人いて、一応探偵をやってるっす。」


「探偵? 事件とかを解決する、あの?」


「そうっす。って言っても普通の事件じゃなくて、幻素絡みの事件専門っすけどね。一般人から依頼を受け、解決するっす。身の回りで起きる超常現象を解明してほしいとか、幽霊を祓ってほしいとか、あとは呪物を引き取ってほしいとか、そういう感じっす。これでも秘密機関なんすよ!」


日向はふんぞり返って腕を組み、鼻を高くしてドヤ顔をキメる。


「正規の機関は頭が固い奴ばっかっすからねぇ。出動するにも色々と面倒な手続きを踏まなきゃいけないんすよ。そこで自分たちの出番ってわけっす。今回みたいな突発的な『幻素災害』は、国からの要請で自分たちが行くことが多いんすよ」


その時、部屋の扉が勢いよく開いた。


スーツ姿の男が、耳元にスマホを当てて通話をしながら入ってくる。男は玲奈が座っているソファの後ろを通り過ぎ、奥にある社長席の椅子にどさりと腰掛けた。


玲奈のはその男に見覚えがあった。あの時、薄れゆく意識の中で自分を抱きかかえていた男だった。おそらく彼が日向の言う「ボス」だろう。


「...だからぁ、こっちで引き取るって言ってんだろ。ちゃんと上のじじばばどもにも許可取ってある、ごちゃごちゃうるせぇ!」


男は吐き捨てるようにそう言って電話を切り、深くため息をつきながらスマホをデスクの上へと乱暴に投げ出した。


「ボス、お帰りっす。相変わらず大変そうっすね。ボスが来るまでの間に、玲奈ちゃんに色々と基本情報を教えといたっすよ。」


日向が手際よく報告を入れる。


「サンキュー、日向。」


男は短く礼を言うと、まっすぐ玲奈の方へと視線を向けた。


「『れお』って呼んでくれ。まあ、日向から聞いた通りだ。急にこんな話をされて信じられない気持ちは分かる。だが、今日からは、一般人の生活には戻れないと思ってくれ。」


「え...? それって、どういう意味ですか?」


れおは静かに言葉を重ねた。


「お前を襲った憑依者、というより、その中身の幻体なんだが、どうやら少々特殊な個体らしい。器から別の器へと、乗り移る性質を持っていたらしい。」


玲奈に嫌な予感が走った。次に彼が口にする言葉を予想できてしまう。


「最初に憑依されていた男から、今はお前の中に移動している。」


「えっ、そんなことあるんっすか!?」


日向が驚き、身を乗り出す。れおは後頭部をポリポリと掻き、参ったというように息を吐いた。


「俺もこんなこと初めてだ。」


「私、どうなるんですか? あの化け物みたいに、なるんですか?」


玲奈の声が細く震える。


「普通なら、そうなる。だがお前は現状、人間のままだ。理由はおそらく、お前の体質にある。」


「体質?」


「ああ。お前が気を失っている間に色々と検査させてもらったが、どうやらお前、幻素に対しての抵抗力が異常に高い。お前の身体に乗り移った幻体は、コントロールを奪いきれずに、今も押さえ込まれている状態だ。」


「それって...『今のところは』って話ですよね?」


れおは微かに口元を緩めた。


「理解が早くて助かるよ。その通りだ。だから、国の機関としてはそんな『いつ暴走するか分からない爆弾』を野放しにするわけにはいかない。お前を拘束し、一生観察下に置くつもりらしい。」


「...」


「だが、おそらくそんなのは大義名分だろうな。大方、都合のいい実験材料にでもする気だろうよ。」


玲奈の指先が冷たく立っていくのを感じる。


「これから...私はどうなるんですか?」


「安心しろ。俺が上に話をつけて、うちで引き取ることにした。」


「マジっすか!? どうやって説得したんすか?」


日向が目を輝かせる。れおは肘をデスクにつき、組んだ手の上に顎を乗せた。


「いつ暴走するか分からないからこそ、うちでで幻素を操る能力を付ける。そうすることで暴走のリスクを最小限に抑える。それに、万が一暴走したとしても、俺たちの目の届く範囲なら被害を最小限に食い止められるってね。」


「へー! ってことは、今日から玲奈ちゃんはうちの一員ってことっすね! ついに自分にも後輩ができるんすね!」


日向が嬉しそうにはしゃぐが、れおはそれを冷ややかに制した。


「それは、本人次第だな。」


れおの視線は再び玲奈を射抜く。

「どうする? うちで働くか? 給料も出るぞ。」


玲奈はごくりと唾を飲み込み、震える声で尋ねた。

「...もし、断ったらどうなるんですか?」


「さあな。そうなればお前を引き渡すだけだ。その後のことは知らん。だが、確実に言えるのは、二度と空を拝むことはできないだろうな。これほど上質な研究材料だ、俺が科学者の立場でも絶対に死ぬまで手放さない。」


選択肢なんて、最初から与えられていないのだ。


「...選択の余地はなさそうですね。」


玲奈は小さくため息をつき、諦めたように肩の力を抜いた。しかし、どうしても腑に落ちない疑問が一つだけ残った。


「でも、一つだけ教えてください。あなたの言った通り、私がいつ暴走するか分からない爆弾なら、どうしてリスクを背負ってまで引き取ったんですか? 普通なら、そんな面倒事は避けるはずでしょう?」


れおは椅子の背もたれに深く体重を預け、フッと不敵に笑った。


「成り行きだ。」


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