【第1話】Step into the phantom②
「ピピピピピピピピ」
アラームの電子音が耳を刺激する。反射的に手を伸ばして音を止める。
眠い目を擦りながら、玲奈は重い体をベッドから持ち上げる。
洗面台に向かい、いつものように歯を磨く。味気ない食パンをトースターに入れ、タイマーの針を無意識に「3」に合わせた。
着替え終わる頃にトーストが焼き上がった。
玲奈の暮らす家は、至って簡素なワンルームだ。
玄関を開けると短い廊下があり、右手にはお手洗い、左手には脱衣所を兼ねた浴室がある。
廊下の先にある引き戸の右手前にはシンクとコンロ、左手には冷蔵庫が並んでいる。
もちろん自炊なんてほぼしない。毎日の食事は冷凍食品で済ませている。
引き戸を開けた先にあるのが、六畳ほどの生活スペース。部屋の左奥にはベッド、右奥にはそれに面してテレビが置いてある。
唯一の救いはベッドの横にある本棚で、そこには「非日常」を体験するためのツールである小説が、おおよそ50冊以上並んでいる。
テレビの前に折り畳み式の机を出し、トーストを頬張りながら、毎朝流れる占い番組を眺める。
食べ終わった皿をシンクに片付ける。部屋に戻り、重たいスクールバッグを手に取って慣れた動作で肩に掛ける。
「行ってきます。」
テレビ台の上に置いてある、母親の写真に向けた言葉。もう日課と化した挨拶だ。
母親が三年前の事故で亡くなってから、この言葉を欠かしたことはない。
小さい頃から、父親の記憶は希薄だった。たまに帰って来る男の人、玲奈にとっては形式上の父親でしかなかった。
中学生になり、仕事で海外を飛び回っているのだと頭では理解したが、心から愛することはできなかった。母親の葬式以降は一度も顔を合わせていない。今となって父親との唯一の繋がりは毎月口座に振り込まれる生活費だけだった。
ローファーを履き、玄関の扉を開ける。
カチャリ、と重い金属音が響き、ドアが開いた。
その先は駅のホームだった。
「え...?」
(あれ? 私、どうやってここまで来たっけ...?)
まだ寝ぼけているのかと自分を疑いながら、必死に記憶を辿ろうとする。
「キャあああああああッ!」
その時、耳を裂くような叫び声が木霊した。ホームにいる人々が一斉に、我先にと走り始める。
一足遅れて走り出す、見覚えのある女子高生。その子が改札の手前で足をもつれさせ、派手に転倒する。
(...私だ)
記憶が、濁流のように脳内に蘇る。
ホームの奥から、全身に返り血を浴び、頭から二本の角を生やした異形の男が歩み寄る。倒れ伏す「私」の前で立ち止まり、青い炎を纏った右手がお腹を貫いた。
それを見ていた玲奈は、反射的にお腹をさすった。
(そうだった。私、ああやって死んだんだ。)
不思議なほど、至って冷静な感想だった。
(死後の世界って、こんな感じなんだな)
『オマエハ……ワタシト……ナル……』
「え...?」
ふと顔を上げると、もう一人の自分に手を突き刺したまま、あの異形の男が、顔だけを不自然にこちらに向けて玲奈を凝視していた。
『オマエハ、ワタシトナル』
「どういうこと...?」
『ワタシハ、オマエトナル』
男の声が響いた瞬間、玲奈の身体は地面へと落ちていき、意識は真っ暗な深淵へと飲み込まれた。
「はっ...!」
弾かれたように玲奈は上体を起こし、激しく肩を上下させる。
「生き...てる...?」
恐る恐る自分の腹部へと視線を落とした。そこには、想像していた地獄絵図はなく、白い肌はまるで何事もなかったかのように滑らかなままだ。
だが、制服の腹部部分には、手のひらほどの大きさの丸い穴がぽっかりと開いている。穴の周囲の布は乾いたどす黒い血液で染まっていた。
肉体は無傷。なのに、衣服には確実に「死」の痕跡が残っていた。
(ここ、どこ...?)
生きている実感を取り戻し、ようやく周囲の状況に意識が向いた。
彼女が目覚めたのは、カジュアルでモダンな雰囲気が漂う、小ぢんまりとした事務所のような空間だった。
全体的に温かみのある木材が多用しており、壁には墨絵が飾られていた。
部屋の中央には、使い込まれた木目のデスクが置かれ、黒い革張りソファが向かい合う形で配置されていた。玲奈はその片方のソファで寝かされていた。
足元の方には、部屋の外に通じているであろう、両開きの黒い木製ドア。
その反対側、ソファを隔てた奥には、社長席とでも呼ぶべきスペースがあり、黒いデスクとその奥に黒い革張りの椅子が置かれていた。
椅子の背後の壁一面には大きな窓がはめ込まれているが、その三メートル先には壁が立ちはだかっている。そのため、部屋全体が薄暗く、奇妙な圧迫感に満ちていた。
ガチャリ、と勢いよくドアが開いた。
「あっ! 起きたんすね! 体の調子はどうすか?」
見覚えのあるモスグリーンのオーバーサイズジャケットを着た、茶髪のロングヘアの少女が、片手を軽く挙げて立っていた。
「あっ...はい、大丈夫そうです。助けていただき、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げながら、玲奈は気を失う直前に見た彼女の姿を思い出す。
「いやいや、自分は何もしてないすよ。」
少女はぶんぶんと首を横に振り、手を顔の前で左右に振った。
「一応確認なんすけど、九段玲奈ちゃん、でいいんすよね? 自分は日向琥珀っす! 琥珀ちゃんって呼んで。多分まだ混乱してるすよね! もうすぐボスが来るんで、それから全部説明するっすね!」
日向のマシンガントークの勢いに圧倒され、玲奈はただうなずくことしかできない。
「自分、玲奈ちゃんと一緒で17歳なんで仲良くしてほしいっす! あっ、ボスっていうのは自分と一緒に玲奈ちゃんを助けた人っす。自分らが助けた時にはほぼ気絶してたんで、多分覚えてないっすよね? とりあえず飲み物出すんで、座ってゆっくりするっす!」
そう言うと、日向は両手を玲奈の肩にそっと添え、ソファに座るよう促した。




