【第1話】Step into the phantom①
そびえ立つガラス張りの高層ビル群が夕焼けを移しオレンジ色に染まっている。
駅前の横断歩道にはスマホに視線を吸い取られた人々で埋め尽くされ、彼らの伸びた影がアスファルトの上を行き交っていた。
「ママあれ買って!」という子供の甲高い声。
「はい、承知いたしました!」ペコペコ頭を下げながら電話するサラリーマン。
隣では、自分と同じ制服を着た男子生徒たちが明日には忘れるであろうしょうもない話題を大声ではしゃいでいる。
すべてはテンプレート通りの日常。この街の音も景色も何一つ変わらない。退屈なまでにただ繰り返される、いつもの喧騒だ。
「そろそろ衣替えかな...」
10月の冷たい風がスカートの裾を揺らし、ぼんやりとそんなことを思いながら、玲奈は行きつけの本屋に足を踏み入れた。
学校からの帰り道、駅直結の書店『TSUTAYA BOOKSTORE』に立ち寄るのが彼女のルーティンだ。ここにある本は、単調な日常という檻から一時的に抜け出すための、都合のいいツールだった。
自動ドアをくぐると、外の喧騒が遮断されている空間が広がっていた。
天井にまで届く木目調の書棚があり、そこには本が整然と並んでいる。紙とインクが混ざり合った独特の匂いが鼻腔をくすぐる。
客の姿はまばらだ。漫画コーナーで立ち読みしている学生、雑誌コーナーでうろつく中年のサラリーマンがいるくらいである。
玲奈はいつものように小説コーナーへ向かい、棚から目についた一冊を引っ張り出した。
『東京探偵』
―平凡な日常を過ごしていた女子高生・真紀が、偶然にも「東京の闇」の秘密に触れてしまう! 正体不明の謎多きイケメン探偵・俊太郎とバディを組み、彼女は都会に渦巻くドロドロした事件の真相を次々と暴いていく。刺激とサスペンス満載、大ヒット確実のネオ・ノワール・ミステリー!
「...よくある設定」
そんな安っぽい非日常に呆れを覚えながらも、玲奈の足はレジへと向かっていた。お会計をする指先は自分の安直な選択を恥じるように微かに強張る。
「...何やってるんだろ」
店を出て群衆に紛れ改札に向かいながら、玲奈は小さく毒づいた。
お高く留まって、高尚な純文学を求めていたわけじゃない。けれど、こんなテンプレートのような物語に縋ってしまう自分自身が惨めだと感じた。
「俗っぽい」と思いながらも、心の奥底ではそんな非日常を求めている。
改札をくぐり、玲奈は線路脇のホームに立った。電光掲示板に目をやると、次の電車が来るまであと5分。
彼女は鞄からさっき買ったばかりの小説を取り出す。表紙をめくり、視線を本文に落とす。だが、視線の端に、突如として異質な『赤』が飛び込んできた。
「え...?」
視線を上げると、ホームの端に一本の彼岸花が咲いていた。
本来ありえないアスファルトから生えており、毒々しい赤が目に刺さる。
何より奇妙なのは、その実体感のなさだった。花全体が透けて見え、その輪郭は陽炎のようにゆらゆらと揺らいでいた。まるで薄い布一枚を隔てて見ているようだった。
彼岸花に目を奪われていた次の瞬間。
「キャあああああああッ!」
切り裂くような女性の絶叫が、ホームの空気を硬直させた。
一瞬の静寂の直後、玲奈の右手奥から、怒涛のような足音と悲鳴の塊が押し寄せてきた。
「どけ! 逃げろ!」「うわあああッ!」
周囲にいた人々がパニックを起こし、我先にと改札へ向かって走り出す。玲奈は容赦なくその群衆の波に呑み込まれ、誰かの肩が強くぶつかり、体勢を崩した彼女は駅の床に激しく尻もちをついた。
「なんなのよ、もう最悪……ッ」
悪態をつき、強打した尾てい骨を手でさすりながらなんとか立ち上がる。今の数秒の間であれだけいた人々は嘘のように消え去っていた。
静まり返ったホームに、生臭い風が吹き抜ける。
視線を、人々が逃げ出してきた方向へと向けると、それは立っていた。
人間とは、到底思えない異形の存在。
全身がペンキを浴びたかのように赤黒い返り血で覆われ、着ている服の色さえ判別できない。作業着だったであろうものは、不自然に膨れ上がった筋肉によって、引き裂かれる寸前だった。
そして、何よりも目を引くのはその頭部だった。頭のてっぺんから黒光りする二本の角が、生えていた。それの足元は、先ほど玲奈が見た幻影の彼岸花によって取り囲まれている。
全身の細胞が、最大級の警報を鳴らしている。彼女の退屈な日常に突如として現れた、本物の『非日常』だ。
男はゆっくりと玲奈の方へと向いた。
「ひっ……!」
彼女は踵を返し、改札口に向かって全力で走り出した。
タッタッタと響くローファーの音は、背後から迫る重苦しい足音に掻き消されている。
(何あれ。逃げなきゃ死ぬ...!)
出口はもうすぐ目の前だった。しかし、段差のない平坦なコンクリートの上で、左足がもつれた。
次の瞬間、世界がぐにゃりと回転し、玲奈の身体は重力に従って前方へと投げ出された。
(ああ、最悪だ―)
彼女の意識は、そんなどうでもいい感想とともに地面へと叩きつけられた。
地面に倒れている玲奈の前に、異形の男が静かに立ちはだかった。
男は喉の奥から低い唸り声をあげる。
「あぁ、がぁ……」
男が右腕をゆっくりと掲げ、その手は青い炎のようなものに覆われている。
考える間も、呼吸する間もなかった。
青い炎を纏った手が、玲奈の腹部に容赦なく突き刺さる。
グチャリ、と骨と肉が押し潰される湿った音が響き、同時にとてつもない熱波が彼女の意識を支配した。
焼けるような灼熱感が、全身へと広がる。鉄の味が口いっぱいに広がり、見下ろすと傷口から血が勢いよく噴き出すのが見えた。
(テレビで見た通りだ。刺された時って、痛みより熱さなんだ...)
この状態にあっても、玲奈は冷静に自分の状況を俯瞰していた。
「非日常」を心の奥底で求めていたはずなのに、現実はあまりにもグロテスクで、あまりにも無慈悲だった。
男は玲奈の腹部に腕を突き刺したまま、彼女の身体を持ち上げた。宙吊りになった玲奈の視界が大きく揺れ、駅の灯りが歪んで見える。
その時だった。突如として、凄まじい衝撃波がホームを走った。
巨大な筋肉の塊の男は宙を舞い、向かい側のホームの壁に激突した。
ドォン! という凄まじい炸裂音が響き渡る。
お腹から腕が引き抜かれ、玲奈の身体は重力に従って落下した。
しかし、硬い床に叩きつけられる寸前、誰かの両腕が彼女の背中と頭部をそっと受け止めた。
(...誰?)
自分を受け止めた人物を見上げる。そこにいたのは、白いワイシャツに黒いベストを着て、髪を後ろで一つに束ねた男が立っていた。
「まだ息がある。俺はこの子の手当をする。そっちは任せたぞ。」
玲奈は男の視線の先を追う。
ホームの縁に、一人の茶髪の少女が立っていた。モスグリーンのオーバーサイズジャケットは、周囲の血生臭い惨状とは対照的なほど清潔だった。
「了解っす!」
短く元気な返答が耳に届く。
(...誰?)
口は動かず、声は出ない。意識の輪郭が急速に崩れていく。そこで、玲奈の意識は完全に途絶えた。




